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3691文字、次代の社会像について、近代以降未だ支配的な政治性(例えば、対リベラルで押さえるべき理解)に触れつつ

 2023-3-004

人格を目的とするという方向性は人格を手段とする有り様への批判(対搾取)として打ち出されたと認めるとして、そのどちらも否定する方向の先にあるのが、



敵とも味方とも自分とも人以外とも、場を介して繋がる(場と無関係に非対等性を規定したり増減させない、特に、この観点から自由平等や絶対化相対化の持ち出され方を評価する、

もちろん、場Aにおける優劣付けが場Bにおける割り振りにどれだけ響くかは場Bの個別性次第である為、影響の過不足を抑えてくれる、
したがって、エリートなり自己の長所なり尊ばれがちな理念なりへの扱いの肥大化も防いでくれる、フェア志向を欠いた倫理や知性は評価されない)点は変えずに、

場の性質が代替不可能的であるほど場との整合は受容に値する(場に合わせる合わさないの表層形二択が近代性を帯びた結果が、下で言う政治性である)との理解を踏まえた、

管理者立場とプレーヤー立場との間で、場の疑似でない個別性の尊重を内容とする他方への要求が常に存在し、かつ、それのみが受諾される世界
(責任の対象が場の個別性尊重なので、局面の個別性を軽視する通念的理性は責任を扱えないと見なす世界)であると考えます。


(個人の外在場と国の内在場を、国の外在場と国際社会の内在場を同一視する文脈で見た上の世界と、
個人から見た内在的問題解決スタイルである自我、外在的問題解決スタイルである文化、この抽象物と具体化条件の関係を重ねれば、

無数にある人格、あるいは、無数にある文化に対して、現有り様が改善フィードバックの帰結かどうかと関係なく、存在するという理由だけで尊重資格を等しく付与する方針は、
疑似化部分をも自身に帰属するよう、存在の名の下に扱わせるという、存在への、帰属操作の責任擦り付け冤罪が含まれているいないに関する、
扱い差異の不在から、形骸な存在尊重であり、形骸でない尊重資格を持たせるルートを潰してると見なせるはずです。)




また、例えば、怪我をしてるのにしてない時と同様の振る舞いを要求する、怪我が治ったのに怪我してる時と同様の振る舞いをする、

この種の事態を防ぐのは、余裕がない局面では成立自体を重視する、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する(その分、成立しているいないという表層形は軽視される)という推移であると考えます。

拝金が問題なのは余裕があってなお成立自体に拘り、成立さえしてれば内実が確からしくなくても良いかのように振る舞う事で、受容に値しない事態(表層形断罪込み)を引き起こすからであって、
同じ問題は崇拝対象が神であろうと見出せると思います。

ここで、内実を確からしくするのに必要なのは、実験精度の低い検証結果を仮説にフィードバックすると改悪になる事実から、
具体化精度の確保であると言えるとして、上で言う推移も対外在が具体化精度確保をもって展開されてる状態と見なせます。


つまり、実存が、代替不可能な内外事情にしか応じないという内実でないケースが問題なのであって、
金や権力や神や真善美を崇拝していようといまいと、代替可能な事情を根拠にしてる振る舞いが見られたなら、修正を要する事態である、と捉えましょう。

例えば、市場や民主制のような実態を根拠に割り振りが為される実態重視と、実態軽視(検証軽視込み)理性重視(局面の個別性を軽視する通念的理性の重視)との対置
(ご都合主義に開かれてるAの批判にかこつけて同Bを通してる形になってる、という意味での政治性)を終わらせるものとして、
実態を構成する実存における上の内実持つ実存の割合を高める方向(場との整合を受容に値するものへと持ってく方向)を目指しましょう。



その際にネックになるのが、個別性の内実検討に価値を見ない(文系事象の対象理解に、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の働き具合を含めない、
その為、文系的権威に対し真に受けるか反動反発するかの二択的、ひいては、その時代に可能な上限へと向かう働きに阻害的となってる理解力が修正されない)、

したがって、同種の他との差異要素捨象能力は育成するのに、同種の他との共通要素捨象能力は育成しない
(客観視できない理系者はいないのに、局面の疑似でない個別性を尊重するという意味でのフェア志向を持たない文系者はいる状況をつくってる)既存の教育(日本も欧米もこの点は同じ)です。


なぜなら、数を数えられるのならば林檎も蜜柑もまだ見ぬ何かも数えられるとして、
特定の属性問題に関し自分は非差別に徹してると思ってる、特定のご都合主義的振る舞いに対し自分は不寛容に徹してると思ってる、こうした具体次元の証拠では、
数を数えられないのに林檎は数える事ができると思ってる的状態である可能性を拭えないにもかかわらず、

文系事象に関する非対等性の有り様に、内実の確からしさ(有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、
これらのみから成ってる現象か成ってない現象かの区別がつき、かつ、前者)を求めてる、という抽象次元について、

自力でしか獲得できない状況、および、既存教育の価値体系(上の内実持つ実存と整合させる気のない情報なり能力なり可能性なりの獲得推奨、
同種の他との差異要素捨象に特化した論理や理解の規準化による断罪)から守り抜く必要がある状況を齎してる

(例えば、侵略の反省から奪う奪われる現象一般の否定への移行を自力で遂行し、かつ、対侵略を、移行状態に落とし込み続ける事で、
平和の名の下の奪う奪われる現象正当化への転換誘導から守り抜く事例が持つ構造は、冒頭の対搾取にも言える)からです。



なので、教育者にそこの修正を、
既存教育の受容に熱心な人ほど、上の内実持つ実存と都合との不整合をスルーしてしまい、
ご都合主義な内容の絶対化相対化(都合に沿うものの絶対化と都合に沿わないものの相対化が、帰属の操作でしかない事態)を、

知性や倫理や美意識の働き(帰属の修正余地のなさから成る、受容に値する状態へと持ってく働き)かのように見せかけたり受け取ってしまう形
(余裕があるにもかかわらず成立の内実確からしさを重視してない点で、注目を迷惑行為で集めにいく生き様と大差ない生)となる構造の修正を、求めていきましょう。


もちろん、文系的局面(個別性が根拠になる局面)において、同種の他との共通要素捨象能力を発揮できないとか、その捨象に十分さらされているいない(根拠に値するしない)の区別がつかない主体が、

余裕があってなお高い影響力を持ってる現状(上の内実持つ実存なりその産物なりを余裕があってなお選ばない、という先の推移に関する不全は、
存在しにくい状況を作ってる以上、上の内実持つ実存の割合を高める働きへの阻害です)について、教育者にのみ責任があるわけではありません。



理想現実関係や主語述語関係における論点が、割り引きを不可避としつついらぬ割り引きを防ぐ(上の内実持つ実存の割合高める試みも、この処理に相当する)話、

言い換えると、限定理由の代替不可能化による確からしさの、限定に際する減耗分の補填によって限定前後での確からしさを保存する
(この保存をもって解決としたり、保存状態が紡がれてる点をもってを受容に値する歴史や論理とする)話に、

近代以降事実上なってる理系(同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消が近代以降、論点になってる理系)と、
未だなってない文系(同種の他との共通要素捨象を用いた同解消が未だ論点になってない文系)、


(A=Aは、抽象物と具体化条件付与物、あるいは、具体化条件X付与物と具体化条件Y付与物の関係であるけれど、理系的局面ではあえてその差異を捨象してるだけと解するとして、

理想が全く割り引かれずに具現したケースについて、局面に即してなかったのなら、
限定前後で確からしさが保存されてないものを選んでるという論理失敗であり、外在軽視と引き換えの獲得であり、検証忌避した理論をごり押しする生き様と同種の振る舞いであるわけですが、

自由や尊重の実践を、この局面軽視から、対割り引かれが局面に先立ってる事態から、割り引かれゼロに対しスペクトラム上の一点以上の価値を付してる獲得喪失観から、解放するには、
上の捨象前原像を踏まえつつ、上で言う後者解消を論点化してもらう必要があると考えます。)


さらには、その文理の歪な状況が可能にし、先の政治性の原因ともなってる、
カントヘーゲル系の権威が理系的捨象の文系的局面への持ち込みを、デカルトニーチェ系の権威が内実の確からしさ不問での個別性尊重を、保障する文系空間

(ここの両権威であれ、理想現実や有無であれ、管理者立場プレーヤー立場であれ、
文系事象に関して二極拮抗をそのまま取り出すだけ系は、関係における内実の確からしさ差異について区別がつかない疑惑はともかく、
少なくとも、表層の汚れを拭うだけで満足する実態主義であり、後者に属する)、

以上から成る近代性を、教育はそのまま体現してきただけなので、哲学者に責任がある分まで教育者に帰するのは当然、冤罪です。

ご支援の程よろしくお願い致します。