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相手の好き嫌いで仕事をしないということ

僕が大阪本社の放送局に入社し、2年後に東京に転勤して外回りの営業マンになったときに、僕に担務を引き継いだ先輩がこんなことを言ったのをよく憶えています。

「人間、結局は好きか嫌いかやんか」

この人は当時30代で、彼のことを「若手のエース」などと言う人もいました。

かなり個性的な営業スタイルの人で、自分が好きなスポンサーに対してはびっくりするほど強くて、その会社の宣伝担当者とどっぷり仲良し、どろどろの関係になって、難しいセールスも易々と決めてくるような印象がありましたが、たとえ自分の担当スポンサーであっても気乗りしないところには行きもしない人でした。

(例えば彼が長年担当していた資生堂には彼は一度も行ったことがありませんでしたし、僕が彼から引き継いだニコンに電話をして、彼から名前を聞いた担当課長に繋いでもらおうとしたら「一昨年の異動で変わりました」と言われたりもしました)

別にその営業スタイルを断罪する気はありません。もちろん僕には全く真似できないスタイルではありますが。

ただ、僕は彼の言う「人間、結局は好きか嫌いか」という言葉に対しては、そのとき軽い違和感を覚えたのです。

そして、その後何年か働くうちに、少なくとも自分は「人間、結局は好きか嫌いか」で仕事を進めたくはないなと思うようになりました。

セールスマンとしての個人成績を上げることだけを考えれば、そういうやり方もアリだと思います。でも、多分彼はスポンサー対応だけではなく、社内でもそういう考えで仕事をしていたはずです。社内でそういうことをやると、誰でも必ず、どこかで仕事が滞るのではないでしょうか。

だって、社内にはいけ好かない奴が、それも要所要所にいるじゃないですか。

単にセールスマン個人の売上合計を上げることだけを考えるのであれば、嫌いなクライアント1社ぐらいであれば、それがどれだけ大きな一流スポンサーであっても、他で稼げるのであれば、そこを避けても大した影響はありません。スポンサーは星の数ほどありますから。また、実際には広告代理店もいるわけで、自分が全く接触していなくても大きな仕事が決まることもあるわけですし。

でも、社内ではそうは行きません。いや、社外であっても、仕事上どうしても避けて通れない相手や部署がある場合はどうするかという問題です。そこを避けると仕事がまともに進まなくなるはずで、でも、それでも良いと割り切れるのでしょうか?

社内外で、好き嫌いに左右されて仕事を進めていたために、とんでもなくつっかえたりとっちらかったり、最悪の場合は完全にストップしたり空中分解したりする例を、僕はたくさん見てきました。そういう人たちの仕事っぷりを見ていると、特定の人にだけ寄り添って、その一方で特定の人を避けて働くというやり方って果たしてどうなんだろうか?と僕は思うようになりました。

少なくとも自分は、好き嫌いに左右されず、好き嫌いを超えたところで仕事をしたいと考え始めたのです。

とは言っても、好きな人のためなら自然と一生懸命やってしまうような面は確かにあります。人間だからそれは仕方がないです。でも、だからといって相手が好きか嫌いかによって、達成する成果にあからさまな差があってはいけないんじゃないかと思い始めたのです。

これは嫌な奴が頼んできた仕事だからテキトーにやっておこう、(あるいは、ひどい場合は)無視しようみたいな考え方はしたくなかったのです。

だから、嫌な奴に頼まれた仕事、いけ好かない上司からの命令、嫌いな相手を利することになってしまう作業であっても、いや、そういう仕事であればあるほど、僕はなおさら真面目に取り組みました。

それで、そう、そういう風にやっていると、嫌いな相手も、

「あいつは俺のことをどこまで評価してるかは分からんが、一応尊重はしてくれてるな」

とか、

「あいつに頼んでおけば、とりあえず一通りちゃんとやってくるな」

とか思ってくれて、つまり、僕としてはある程度の信頼が得られて、仕事が前に転がるんです。

それが嬉しくて、ただ仕事が転がるのが嬉しくて、歯を食いしばってやるんです。

一言でいうと、それは単に意地になっていただけです。はい、間違いなく意地になっていました(笑)でも、仕事が進むのであれば、意地になるのも悪くはないなと思っていました。

そんな僕のことを社内では単に「真面目な奴」だと思っていた人も多かったかと思いますが、そうじゃないんです。真面目さだけでやっていたとしたら、多分嫌な奴らとのつきあいの中で潰されていたと思います。意地になってやっていたからこそ、潰されずに生き残れたのだと、自分ではそう感じています。

意地になるのは理不尽さに負けないためであり、仕事を進めるために一番良い方法だからです。

そういうわけで、意地になって、自分の気持ちを殺して、誰のための仕事であっても、それがやる意義のある仕事であるなら、手を抜かずに一生懸命やるように自分を駆り立てました。

僕の喜びは嫌な奴をぎゃふんと言わせることではなく、誰と組んだどんな仕事であれ、ただただ仕事が前に転がることだけでした。やる意義のある仕事、成果を評価できる仕事であれば、それを進めるためであれば、好き嫌いを乗り越えられるような気がしていました。

僕は嫌な奴を言い負かして「言うたった!」と自分の気を晴らすことを望んでいたのではなく、誰に対しても、ただひたすら「この人にはどういうタイミングでどういう言い方をしたら動いてくれるのか、そして、仕事が前に転がるのか」を考えることが最優先事項でした。

むしろ、涼しい顔で成果を報告しながら、「お前みたいな嫌な奴のためにここまできっちりやってやったぞ」と心の奥底で静かに思えることが、僕の仕事上の誇りだったとも言えます。

重ねて書きますが、僕は意地になっていただけです。だって、意地にならないと好き嫌いは乗り越えられないですから。

でも、それが僕の仕事のスタイルだと思ってやってきました。相手が

「人間、結局は好きか嫌いかやんか」

と言うような人であっても、

「仕事に好き嫌いは持ち込むな」

と言うような人であっても、僕はできる限り別け隔てなく、常に無表情で、淡々と、コツコツと、まじめに仕事を進めてきたつもりです。

そのことを「何があっても同じペースで淡々と仕事を続ける嫌な奴」と揶揄されたこともありました。はい、望むところです。

みんながみんな同じスタイル、同じ思いで仕事をする必要があるとは思っていません。ただ、僕のような働き方も、ひとつの働き方なんじゃないかなと、退職した今もそんな風に思っています。

今、長い会社員生活を終えて振り返ってみて、僕が社員として評価された資質は結局そこだけだったような気もしますが(笑)

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