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読書という競技について

他人が書いた書評を読んでいると、「えっ、そんな感じ方をする人がいるのか」と驚くことがあります。

いや、僕の理解が正しいのであってその人の読み方がとんでもなく勘違いな読み方だなどと言いたいのではありません。良いとか悪いとか言う以前に、まず自分と他人の違いに純粋に驚くわけです。

たとえば先日、上田岳弘の『引力の欠落』を読みました。芥川賞作家とは言え、ベストセラーでもなんでもなく、割とマイナーな作品なので、これを例として取り上げても共感していただくのは難しいかもしれませんが、一つの例として少しだけ書きます。

この本についてのレビューの中にこんなことを書いているのがありました:

面白くない★★☆☆☆
(前略)冒頭は、この先どのような展開になるのだろうか?と思いながら読み進めましたが、いつまでも物語は先に進まないまま終わりました。
作者が、コロナ関連の用語を使って言葉遊びをしたかっただけのようです。

(Amazon のレビュー欄より抜粋)

うーん、なるほど…。

確かに僕もこの小説には何だか分からないところがたくさんありました。でも、こんな風に悪し様に評したい気持ちにはならなかったなあ、と。僕としては、分からないなりに結構面白かったのです。

ある意味それはその人が書いている通りで、物語が先に進まないで終わってしまう感はあるのですが、でも、この小説はそもそも、何かが起きて解決するさまを追った「先に進む話」なのかな? 世の中には先に進まないタイプの小説もあるんじゃないかな?

──僕はこの人のレビューを読んでそう感じました。

この小説を読んで「先に進まない」ことに不満を覚えるのは、前にも書きましたが、平山瑞穂さんの小説を「何が言いたいのか分からない」と感じるのと共通した部分があるように思います。

その人にとっては多分、伏線を張り巡らせてそれを順番に完全に回収して行くことがいちばん大事なことであり、それこそがストーリーなんでしょうか? だから、その「文法」に沿っていない小説は許しがたい?

『引力の欠落』という小説は、読み始めは何だかさっぱり分からない小説です。それを一つひとつ「これは何を意味してるんだろうか?」「これは何かの比喩なのか?」「これは何の伏線なんだろう?」などと考えながら読み進むと、確かに最後にそういう不満が残りそうな気がします。

僕はそういう読み方はしませんでした。と言うか、普段からあまりそういう読み方はしていない気がします。

思うのですが、そういう読み方の裏には、最初に何か作家が訴えたい単一のテーマがあって、それに沿って物語が構築されているのだという捉え方があるように思うのです。そもそもそこが僕の捉え方と違うんでしょうね。

もちろんそういう書き方をする作家も現にいるのでしょう。でも、僕からしたら、そんなに明確な単一テーマがあるのであれば、まどろっこしい小説などという手法を採らず、論文を書くとか標語にするとかすれば良いのにな、と思ってしまうのです。

小説の作家が一番訴えたかったことを探ろうとする風潮は、これも前に書いたことですが、日本の国語の授業における「"作者が一番言いたかったことは何でしょう?"教育」の悪弊ではないかという気もします。

確かに作者が一途に何かを思って書いている場合もあるだろうし、それをしっかり読み取ることは大事なことだろうし、それを読み取れた快感というものもあるでしょう。でも、その読み取りは全ての小説にひとつずつあるたったひとつの「正解」ではないと僕は思うのです。

小説の中にひとつの正解を探すのではなく、それを読んだ自分の中に何か新たな発見がないかを探ってみたい気がするのです。それが僕の感じ方です。

僕は本を読んでいるといつも何かを試されているような気がします。──さあ、お前はここから何を読み取った? 何が読み取れた?と。

僕が何を読み取ったかは、著者が何を書きたかったかということとは必ずしも一致していなくて構わないのだと思います。著者はどうであれ、他ならぬお前はそこから何を読み取ったのか?と答えを求められている──それが読書という体験ではないかなと感じるのです。

著者の書き方が悪いから何が言いたいか分からなかった──みたいなこともたまにはあるのかもしれません。でも、書き方が良いから読み取れて、悪いと読み取れないというものでもないような気がします。読書ってある意味著者を超越する体験ではないか、要するにそこから何を(ある意味勝手に)読み取るかが勝負のような気がするのです。

そう、僕は昔から、読書をある意味「著者と読者の戦い」と捉えています。

著者は自分が全く意識していなかったことも含めてどれだけのことを読者に伝えられるか。

読者は著者が全く意図していなかったことも含めてどれだけのことを読み取れるか。

──読書って、そういう競技なんだと僕は思っています。そして、その競技が著者と読者の間で丁々発止のやり取りになったケースが最高の読書体験だと思うのです。

『引力の欠落』を「いつまでも物語は先に進まないまま終わ」ったと感じた人は、著者との間でこの競技が成り立たなかったということなんだろうと思います。

そもそも読書がなんで競技なんだ?と思う人もいるでしょうね。でも、これがなーんか僕の読み方なんですよね。僕が他人の書評を読んでびっくりすることがあるように、この文章を読んで仰天する人もきっとおられるでしょうね。

最初に書いたように、どちらかの読み方が正解とか言うんじゃなくて、そもそも正解と不正解があるとも思っていなくて、でも自分の能力で何が読み取れたかによって、それは幸福な読書と不幸な読書に分かれるような気がします。

そう、「著者と読者の戦い」と書きましたが、むしろ「著者と読者のめぐりあい」なのかもしれません。

僕はこの文章で、僕自身が意識していないことも含めてどれだけのことをあなたに伝えられたでしょうか? そして、あなたは僕のこの変てこな文章を読んで、僕が全く意図していなかったことも含めてどれだけのことを読み取っていただけたでしょうか?

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