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ヒカルの味方

泣き疲れた光はベッドに横たわり、布団を手と足で抱きしめてぼんやりしていた。突然ドーン!と大きな地響きが鳴ると、身体が縦に大きく揺れた。ほとんど間を置かずに今度は横に大きく揺れ始める。キッチンでマトリューシュカの様に収納したサイズ違いの土鍋達が、隣の食器と擦れ合う音がする。風呂場では、先程沸かした浴槽に張ったお湯がバシャンピシャ、バシャンピシャと鈍く揺れている。それはそれは不気味な音を立てながら波を打ち、波打つお湯は浴槽に戻ることが出来すに床へ落下する。それからは何度も繰り返す余震の中で、ただただずっとベッドに身を任せたまま揺れていた。ふと都内で起きた地震を思い出していた。(ああ、東日本大震災の時も、こんなだったなあ~)鳴りやまない携帯の地震速報の音に、強いストレスを感じながら、その激しいアラーム音を止めようにも憔悴した身体は動こうとしない。どちらにしても、布団の中が一番安全だなと開き直って眠りにつこうとしていると、昔の同僚から電話が鳴った。
「もしもし」
「こんばんは~…、光さん。あのー、…地震、大丈夫ですか?」
「はい、私は大丈夫です」
「いやあの~…何か困った事があれば言ってください~…」
「ありがとうございます」
ここで電話は終わるかと思っていると、彼は突然泣き出した。
「僕…は、僕は鈴木社長を本当に尊敬していました…。まだまだ学びたいことが沢山あったのに……」
しばらく話しを聞いていると、(もう。気持ちは分かるけど泣き言を言いたいのは私の方だよ)と思いながら、とりあえず光は言った。
「人は生まれたら誰でも死にます。私達は今のこの思いを胸に、これからもしっかりと生きていきましょう」
誰かの泣き言を聞けるほどの余力なんて残っていなかった。光はとっとと話しを終わらせて電話を切った。数週間前に夫のアユムを亡くし、残された光は一人で熊本地震に遭遇する。数年前の東日本大震災のパニックも経験した。(流石になんか、私、ついてないな)そんな思いの中携帯の電源を切り、どこかで不幸に見舞われている人達も居るだろうに不謹慎だとは思いつつ、海上を進む船の客室で眠るような夢心地に、身体は深くベッドに沈み込み余震に揺られながら眠りについた。
目を覚ますと木々の色は鮮やかで、美しく清々しい朝が来ていた。マンションのベランダに出た光は鼻から目一杯の空気を吸い込み、両腕をしっかりと広げて深呼吸をする。口を尖らせてフゥ〜っと息を吐ききって周りを見渡すと、中々の大惨事だった事が伺えた。この調子だとライフラインが整うのにも数日は掛かるのだろうなと思い、(昨日の晩に携帯の電源を落としていて良かった)と、思考停止していた脳のおかげで熟睡して体力を取り戻せた事に感謝しながら再び電源を入れる。光は一人住まいの祖母のアドレスを呼び起こし安否を確認する。  
「ばあちゃん?どんなね?」  
「恐ろしかったばーい!あぎゃん揺れたとは初めてたい!あー恐ろしかっ。あんたは?」  
「私は大丈夫、大地震二回目だもん。それで、そこには食べ物はあると?」  
「あるばってんね、ユウが泣きながら電話してきてね、ばあちゃん一人で怖かったろー?って言うとよ。してから、あん子達がひもしかーって言うけんね~…。ばあちゃんは足りるばってん…」  
「あー、ハイハイ分かったよ。じゃあさ、優が来たら電話するように言って。家にあるものそっちに持ってくから」  
「あっらー、気の利くねぇ〜。もう、あんたが居ってほんなこて良かったー。も〜う、こぎゃん恐ろしかつなら死んだ方がマシても思たばってん、まーだ死なんでんよかごたるねー」  
「な〜んば言いよっとね。ばってん、冗談が言えるなら安心したよ。ばあちゃん、こんな時なんだから困ったらいつでもすぐに連絡せなんよ。私もまた連絡するから」  
「分かったよー。光ちゃん、ありがとうねー、またねー」  
祖母の不安が軽くなった声を聞くと、少しだけ暖かな気持ちで電話を切る。程なくして従妹の西口優から連絡が来た。電話を切ると非常用に備えていたカップ麺と缶詰、お菓子にチョコに生理用品等を段ボールに詰め込み祖母の元へ運んだ。二人は数週間前に歩の葬儀が執り行われたことは知らない。大地震の恐怖に包まれた二人にはとても話せる雰囲気ではなかったし、特に今伝えなくても差し支えないと判断した。  
マンションに帰った光はそのまま荷造りを始めた。パートナーを亡くすと中々大変な手続きが待っている。それに加えて翌週には引っ越しの予定だ。引っ越しが終わると荷ほとき、それが終わると四十九日の法要が待っている。家具と電化製品は手配を済ませているが新居で使う食器はまだ揃えていない。光にのんきにしている時間は少しも無かった。  
淡々とやるべき事をこなすべく、家具の納入日の前日に鍵の受け渡しで新居に向かった。そこでは工務店の若社長と若奥さんが光を待っていた。彼等から鍵を受け取ると、二人の将来を見据えて設計してもらったミニマムで可愛いらしいマイホームの玄関に入る。廊下でまだ何も植え付けていない小さな箱庭を眺めてリビングに入ると、これが私の家なんだとじっと中を見まわした。ふと目に飛び込んだ和室の畳の縁の色に、思わず涙が溢れ出た。歩が子どもの頃に育った家と、同じ赤い縁にしたいと言っていた。声を殺すことも出来ずに突然泣き崩れた光の背中を、工務店の若奥さんがさすり続ける。さすりながら隣で静かに涙を流している。気を使った若社長はそっと別の部屋に向かう。葬儀が終わってしばらくして二人に歩に先立たれたことを伝えると、すぐに棟梁と奥様、若社長や家族全員で、仮住まいのマンションにお線香を上げに来てくれたのだ。皆さんがいてくれて良かったと思い光は言った。  
「色々と本当にありがとうございました。歩さんも喜んでいると思います」  「いいえ、私達も付いていますから、何でも言ってください」
「ありがとうございます」
光はしばらくの間そのまま背中をさすって貰い続け、涙が止まるまで顔を両手で覆い、過呼吸が落ち着くまで泣いていた。



  2

大地震の影響はいくつもの不具合を生んだ。歩と光の暮らすはずだった新居に置こうと用意しておいた家具の納入が見事にバラバラの納期となった。けれど、家具屋さんで買い付けた時の担当女性の計らいで、クイーンサイズのベッド本体とその他の寝具だけは、広島から海を渡って引っ越しの日に間に合う様きちんと届けると約束をしてくれた。この担当女性には歩のことは伏せておいた。歩に先立たれひとり取り残された光には、フローリングで寝るかホテルに宿泊するかしかないかと考えていた手前、この計らいがとても有り難かった。翌朝仮住まいのマンションで引っ越し業者を待っていると、そろそろ始めないといけない時間になっても音沙汰がない。仕事を休んで朝早く手伝いに来た両親もおかしいなあと心配している。光が確認の電話を入れてみると、営業マンと引っ越し職人とのやり取りが上手く行ってない事が分かった。察しの良い光は追打ちをかける様に伝えた。
「あのねぇ、営業の西田さんはちゃんとハッキリと言っていたよ。これはあなたたちの不手際だよ」
そう冷たく言い放つと、何をどんな風にしたらここまで出来るのか、考えられない速さで引っ越しのトラックに乗った職人達が到着した。電話を切って十五分ほどで店長とベテラン作業員が二人、店長に話しだと五分遅れでアルバイトがあと五人来ると言う。店長は父に向かってしきりに頭を下げている。母はベテラン作業員に付きまとい掃除を進める。光は母に言う。
「お母さん、業者さんの邪魔になるからじっとして」
光にチラリとキツめの目線を送ると母はフンっとシカトを決め込んで、(掃除のことなら私の方が上手なのよ)と言わんばかりに箒を構えて掃いていく。それを見た光も母の手際の良さには確かに驚いた。新居にはこの後電気工事の人達が来る手筈となっている。店長は申し訳なさそうではあるが、そこで甘えを見せることは一切無くしっかりと謝罪し、値引きをして先に帰った。積み荷の確認を済ませると、引っ越し職人と両親と光は三台の車で新居を目指した。約束の時間は午前十時で、電気工事の職人達を十分ほど待たせる結果となった。到着した引っ越し職人の緊張をほぐす様に朗らかな笑顔で父が言う。
「凄かねー。人間やれば出来るとよ」
ここに嫌面をした人は一人も居ない。九州の人達は柔らかく暖かい。そこに丁度ベッドを運ぶトラックが到着した。トラックから降りると早速家具の運搬を専門とする男二人が寝室にベッドの設置を始める。引っ越し職人は積み荷を降ろすと光から受け取りのサインを貰う。その足で光を連れてトラックに忘れ物が無いかと見直すと、爽やかに挨拶を済ませて帰った。黙々と作業を進める電気屋さんの職人が手際よく腕を光らせている。中々お目に掛からないそういった職人技をそばで眺めているのは気分が良い。慣れた手付きで壁に穴を開ける。新しい建物に躊躇することなく、道具を使い熟し作業を進める専門職の男たちは、本当にカッコいい。これはいわゆる職場マジックだ。
「鈴木さん、こちらにサインをお願いします」
光はお待たせしてすみませんでしたと伝えながらサインをした。全ての職人達が帰ると、ちょうどお昼時になっていた。段ボールをぼーっと眺めて自炊はとても出来そうに無いなと突っ立っていると、父はそこに居合わせた工務店の若社長ご夫婦をランチに誘っている。話しの流れで五人で近所の定食屋に行く事になった。  「こっちの地震は大したことなかったとね?」
「はい、揺れてビックリはしましたけど、大丈夫です!」
「そら良かったねー。家らへんはもうブルーシートだらけよ。道路もひっくり返って捲れとる」
「へー、それは本当に大変でしたねえ~」
父は他愛ない話しの中にギャグを盛り込んで、若いご夫婦から爆笑を掴んで喜んでいる。斜め向かいに座った光は、最近父が良く眠れていない事に気が付いた。それは誰にでもわかるほど父の目が赤く充血していたからだった。腹ごしらえが済むと、若社長ご夫妻とは現地で解散した。新居に戻ると、光は休むことなくすぐに「キッチン」と書かれた段ボールを開き、お茶の道具を探して準備する。やることは他にも沢山あったのでそれを母に托し、とりあえずお煎茶を淹れて貰う。その間に来客用の寝具を準備する。雰囲気的に疲れた父を手持ち無沙汰にするのも何か気が引けるので、歩の為に揃えた仏具の設置を任せた。光は寝具にシーツと枕カバーを掛けると、和室の隅にそっと並べた。
「お茶~、淹れたよぉー」
ふわふわした母の言葉を合図にようやく休憩を挟む。他の家具の到着は遅れているので、テーブルはまだ無い。諦めた様な顔をして三人はお煎茶を啜ると、父は真新しい畳にゴロンと横になった。母が父を布団の方へ誘導する。父は促されるままに布団に横たわると、すぐに眠りに落ちた。光には父のいびきが心地よく子守歌の様に胸に響く。ぼんやりしてウトウトとしていると母が包んだタオルを頭の下に入れてくる。九州文化の量の多い定食がもたらす満腹感に、光も眠ってしまった。
ハッと目を覚ますと、外は薄暗く夕方になっていた。母も父の隣で眠っている。光は歩が生きていた頃の思考の癖で二人のお夕飯の心配をし、車に乗り近所のスーパーへと向かって食料を調達した。買い物を済ませて自宅に戻ると母が起きてきた。
「あ〜いたた。久しぶりにこぎゃーんに眠っとった」
母は大丈夫だと言いながら、実際は被災して疲れが溜まっていた事を、やっと自覚したようだった。それに光は少しほっとした。
「二人とも大丈夫大丈夫って言うけど、あんな大地震、怖くない人なんて居ないよ。で、お父さんの足、浮腫んでるの気付いた?お母さん仕事が大変なのは分かるけど、ご飯くらいきちんと作ってあげなよ」
「だってお父さんが別に良いって言うし…」
「あー、もーお父さん可哀想。疲れてるのってお母さんだけじゃないよ。そりゃ私も大変だけど、困ったときはお互いさまで、今日は少し休んで帰ってよ。歩さんも居なくなって二人まで病気なんかしたら流石に耐えられないよ。わたし、今晩お夕飯作るから、テレビでも見て晩酌していいよ」
気の毒そうに母は言った。
「うーん、良かっだろか…。…んーあんたがそぎゃん言うとなら、そやんしょうかね。ごめんね〜。ありがとう。」
全く親の心子知らず。光を見守り黙って身を引いた母が缶ビールをプシュっと開けると、父のいびきがピタリと止まった。
「おおお、こやん寝ると思わんだったねー」
長めの昼寝から目覚めた父が和室から出てきた。
光は初めて使うキッチンで、マンションから持ってきたぬか床に手を入れる。優しく底の方からしっかりとかき回し、取り出したきゅうりと昆布をサッと水で洗う。濡れた手をキッチンペーパーで拭くと、湿ったその紙で甕の内側に付いたぬかを綺麗にふき取る。昆布は細切りに、きゅうりは程よい厚さにスライスし、皿に盛りつける。テーブルの代わりに空いた段ボールを並べて大きな布を掛けた。父は冷奴が好きなので、生姜を下ろして鰹節をふりかけて、お醤油を添えて出す。しばらく二人にはそれをあてに飲んでもらう。サッと水に通した椎茸とししとうに軽く塩をふり、予熱した魚焼きグリルで塩サバと一緒に焼く。フライパンに胡麻を入れ、中火にかける。同時進行で買って来たお茄子を角切りにして水にさらす。しめじをサッと水で流して石突を切り落とす。炒った胡麻から香りがしたら、盛り付けに使う鉢にひとたび移す。そのままサラダ油を引いて、四等分に切った豚バラ肉を炒める。水切りしたお茄子はキッチンペーパーで水気をふき取りフライパンへ入れる。お茄子全体に油が回った事を見届けてから、下処理の済んだしめじを入れる。お味噌と酒とみりんを合わせたら、今夜は特別に黒糖を使う。わずかに煙の上がった魚焼きグリルから、椎茸とししとうを取り出す。時間差で焼き色のついた塩サバを盛り付ける。お大根は買い忘れた。フライパンの中身に軽く焦げ目を付けると、溶いておいた調味料で味を付ける。それを小さじに少し取り、フーっと冷まして口に運ぶ。まだボヤっとした味を確認すると、さっきの鉢から炒り胡麻をフライパンに戻し、少し煮詰める。美味しいと思った所で火を止める。フライパンの中身を鉢に移し替え、菜箸で盛り直す。今夜の献立は時短レシピの大堂、豚肉とお茄子の味噌炒めと焼き魚とぬか漬けと冷奴だ。
「お味噌汁作るの忘れたけど、要る?」
「いらーん」
二人の声はしっかりとハモった。飲ん兵だけに、とりあえずビールと焼酎があれば良いそうだ。母は言った。
「光もおいで」
「うん」
父のご飯をお茶碗によそい、冷やして置いた缶ビールを持って席に着く。父は炊きたてのご飯の上で、崩した冷奴を乗せて少しずつ食べ進めるのが好きだ。しばらくの間一人で過ごしていた光には、テレビを眺めながらの団欒に身の心も暖かく感じた。ぐっすりと昼寝を済ませた父は上機嫌だった。お酒に調子付いた勢いでカラオケのある店に行こうと言い出したが、あいにく光の新居の界隈に、その様な気の利いた店は無い。あったかも知れないが、まだその店には言ったことが無い。ご飯を食べ終えた光は真新しいバスルームに向かい、お風呂の椅子と洗面器、石鹸とシャンプーとトリートメントを用意した。お湯を張ると、父に先に入るよう勧めた。
「お前が一番に入らんでよかとか?」
「うん。私そういうの気にならんけん、どぎゃんでんよか。お父さん先に入りなっせ」
「そぎゃんや、ありがとう。悪かねー」
少し申し訳なさそうな父が先に風呂へ向かうと、母はたったの一泊のお泊りに、不釣り合いなサイズのキャリーバックを車から出してきた。コロコロと動く度にガシャガシャ、ギシギシと鳴っている。
「何それ?金塊でも持ってきたの?」
しらけた顔で母は言う。
「は?基礎化粧品たい。あんたも使う?」
いかにもご満悦な表情を浮かべ、高価そうなキャップで閉められた瓶に入ったいくつもの液体にクリームを、ズラリと床に広げていく。
「わたしやんなーい。ねー、毎晩そんなに沢山顔に塗るの?大変ね~」
子どものいない光は(母親ってお手入れが好きな生き物なのだろうか)と思う。だけど、二人居る祖母はどちらもお手入れに無頓着な方だが、そんなに酷いお肌では無かった。だから光はお手入れ最強説を特に信じていないし、ハッキリ言ってめんどくさい。
母の入浴後に光もお湯に浸かる。「はああ〜〜」っとため息が漏れる。(頼んでも居ないのに、気を利かせた二人が手伝いに来てくれて、今日は本当に助かった)と思いながら、浴槽の縁に足を出して、腰を沈めた湯船でプカプカと過ごす。信じられない速さで今日も一日が終わろうとしている。明日はお風呂のスポンジを買いに行かなきゃなと思い、栓を抜いて湯船を後にする。パジャマに着替えリビングに戻ると、二人は布団に入っていた。「おやすみ」と声を掛けて歩いて寝室へ向かう光は、おやすみって言える相手が居る事の尊さを、初めて肌で感じた。
(そうか、歩さんは居ないんだ。明日からはこっちで一人暮らしだ)現実に引き戻され、真新しいベッドに横になる。買い付けの時の担当女性一押し商品、全米で売り上げ一位のマットレスの寝心地の良さに、また少し胸が痛む。クイーンの広いベッドが光の身体を包み込む。「はああー、極楽ぅ〜」一人で呟くといつの間にか眠っていた。
天窓から夜明けと共に僅かに太陽光が差しはじめて光は目を覚ました。大きないびきをかく母と、それにも負けない父のいびきの合唱が、とても微笑ましく感じる変わった朝だった。それにしても、これはちょっと眠れないなと光は身体を起こす。しょうがないので朝食でも作って彼等が起きるのを待つことにした。サニーレタスを洗い水分をふき取る。四等分に切ったカニカマを裂いて、ボウルに入れる。レタスをちぎりボウルの中で、胡麻ドレッシングと合える。これは祖母がよく作ってくれたサラダだった。フライパンを熱して、一度に三つのハムエッグを焼く。こんがり焼いたトーストにバターを乗せておくと、食べる頃に伸ばしやすくなっていて美味しい。光の好物だ。目玉焼きの焼けるジュウジュウという音と香ばしいトーストの香りに、二人が起きて来た。光はまだボーっとした二人に「おはよー」と声を掛けてお紅茶を淹れた。家の中に誰かが居る朝は何か楽しい。一枚のプレートにトーストとサラダとハムエッグを乗せ、洗ったミニトマトを添えると、オープンサンドの出来上がりだ。名前だけ聞くと凄そうだけど、普通のよくある朝ごはんを囲み、テレビの前に座って父の好みの女子アナが出るニュースを眺めた。
「本当に助かったよ。手伝ってくれてありがとうね。地震でどうにもならない時はいつでもおいで。そっちよりもマシだから」
「あら本当。今日は一度も揺れで目を覚まさんだったねー」
「えー?軽く揺れてたけど、お母さんのとこの揺れが激しいけん気付かなかったんじゃない?でも二人とも凄いいびきで地震とかの騒ぎじゃなかったよ?交互にゴー!って鳴らし合ってたもん」
笑いながら話す光に、二人は互いにどっちのいびきが大きいかで盛り上がっている。食事を終えた光は、空いた皿を持ってキッチンに置くと、段ボールを開いてそそくさと作業を進めた。急がないと四十九日の法要が待っている。法要の当日に住職さんが帰った後は、生前歩が楽しみにしていた新築祝いをやる予定になっている。父と母はしばらく気ままにのんびりと過ごすと、帰り支度を始めている。  「ひかるぅー、お母さん達そろそろ帰るけ〜ん」
「うん。本当にありがとう。久しぶりに沢山笑ったー」
父は朗らかに笑いながら言った。
「お前もなんかあったらいつでも帰ってきなっせ。家のカラオケでバッチリ演歌ば聴かせてやるけんな、お父さんの美声で」
「うん!ありがとう。楽しみにしてる!」
「ならねー。また四十九日ねー」
庭先で二人を見送った後に家の中に入ると、妙に静けさが増す。でも、それも束の間だった。両親が帰ると作業が思う様に進まない。集中力の限界が来ていた。光は、ティーパックのハーブティーを淹れてひと休みする事にした。お座布団がまだ届いていないので、仏壇の前に、人をダメにすると言われている大きなビーズクッションを置いた。一人で過ごすのが久しぶりな感じもするし、常に一人で居る気もするし、訳の分からない事になっているなーと独りごちる。
「今日はダメだ。」
はっきりと声に出しそう呟くと、気が済むまでぼんやりして過ごす事に決めた。不思議とお仏壇の前に座っていると、一時間経っても二時間経っても飽きる事が無い。心は安らいでいる。向こうの方で、携帯が鳴っている音がする。着信は理絵だ。
光が竹内理絵と出逢ったのは十六歳の頃だった。当時の光は友達に唆され、母への反抗期も重なり、進路を決める大事な時期に悩みが絶えることはなく、願書の提出が間に合わずに高校への進学が出来なかった。友達が高校へ通う中で、日中考える時間だけは沢山あった光は、将来についてどうするかを真剣に考えていた。夕方駅前の公園に行くと学校が終わった友達がたむろしている。ある日、近所のショッピングモールにヘアピンを買いに行った。同じ中学だった話したことも無い女子から、突然「ヒッキー!」と声を掛けられた。彼女の隣に居た理絵は、多少引き気味の光の表情を見逃さない。その、典型的な高校デビュー女子はそれを恥じることも無く理絵に光を紹介する。進学したばかりの高校の制服を着た理絵は、灰色のブレザーの上に紺色のボックスコートを羽織り、開いた襟元からピンクのマフラーを覗かせる。丈の短いプリーツスカートに、ルーズソックスの似合う彼女はひんやりとした冷めた目で、高校デビュー女子を眺める。そして光に視線を戻す。  
「お前、何て名前?」  
「ひかる。そっちは?何て呼べばいい?」  
「りえで良いよ」  
その日から光は地元の友達と離れて、ほとんどの空いた時間を理絵と過ごしていた。出逢った日に理絵は言った。  
「ねえ、田沢真由実って知ってる?」  
「うん、なんで?」  
「光の友達にアソコに拳が入って、肘まで入るガバガバの子が居て、それをヒッキーから聞いたー。って学校で言ってたけど、あれ、本当にお前が言ったん?」  
「うっわー。それひどいね。なんか色々ややこしいし」  
「やっぱ嘘なんだ。そーだと思ったんだよねー。物理的に無理だもん」  
諦めた様な顔をして深いため息を吐いた後、理絵は続ける。  
「私決めた。高校辞める」  
その、「高校辞める」と言うフレーズは耳にタコが出来るほど聞いた当時に、潔く辞めてきたのは理絵一人だけだった。
電話口の理絵はもどかしい程揺れた声で弔いの言葉を述べると、お線香をあげに行くと言う。理絵もまた被災者なのに優しい。電話を切った後に、メールで「家具が届く土曜日以降ならいつでも」と返事をすると、「日曜日に行くね」と返事をくれた。携帯を置いて再びぼんやりと外を眺めていると、お隣の敷地に盛ってある土を、野良猫が懸命に掘っている。野良猫の視線は鋭く、しっかりと光を見つめながら背骨を丸めて身を縮め始めた。(えっ?)っと思うと野良猫は力強く踏ん張りポロっ、ポロっと排便する。(うんちしに来たー!)目を疑う光は思わず笑った後に、子どもでもないのにうんこネタで笑う私って何だろう?と不思議に思った。その一瞬で身体の緊張が解けた。最愛のパートナーの死、役所の手続きで夫が戸籍欄から除籍され度々認識する未亡人、大地震、引っ越し、法事、来客。少しも休む事が出来ずに過ごす光を、孤独が作り出した重くて大きい見えない鎖が、全身を雁字搦めに縛っていた。その強い孤独感がもたらした鎖がスルッと外れ落ち、金縛りが解けたようにフワッと肩を軽くする。外は日が落ちてきている。もう夕方になっていた。(そっか、理絵が来るんだ。ご飯食べなきゃ)そう思い立ち、すっかり忘れていた食事を摂る事にした。
数日後、予定の時間に家具の運搬業者がやって来た。和室に置こうと思っていたテーブルの重さに気が滅入る。それが、光が一人で頑張っても動かす事の出来ない重さだと分かったのは、業者の男が二人がかりで天板を箱から出していた姿を見た時だった。光はちょっと聞いてみた。
「その重そうなテーブルをもし一人で動かしたいと思ったら、どうしますか?」
「…。出来ないですね」
「ですよねー」
沈黙した後、身体に良くないしキリがないので、この類の事柄を考えるのは止めた。書類に鈴木とサインを済ませ、業者さんが帰ったあと、届いたばかりのソファーに座りオットマンに足を掛けた。家具の納入をウッドデッキから運び入れたので、網戸にしたままの窓から心地よい春風が抜けていく。椅子がもたらす緩やかな精神の解放に、家具とリラックスには密接な関係があると知った。そして、やっぱり家具ってちゃんと選ばないとダメなんだと心底納得した。これは中々の新発見だった。
翌日の昼前に理絵がやって来た。子どもを二人抱えた理絵は、どう言葉を掛けていいのか分からない様子で車を降り、中々光と目を合わせない。まっすぐ理絵を見て光は言った。
「来てくれてありがとう。上がって」
戸惑いを隠せない理絵は、中に入るとお仏壇に向かってお線香を上げている。リンを鳴らし静かに手を合わせる。連れてきた二人の小さな息子が、理絵の後ろで正座して合掌し母の真似をしている。全力で甘える弟に兄が向ける優しい眼差しが、何とも清らかな空気を運んで来る。光は冷蔵庫から麦茶と人数分のグラスを用意した。おもてなしをしなくても良い間柄となると、来客とは気楽なものだ。無邪気な子ども達が新築の家の中を走り回る。わんぱくな男の子二人が、話す光と理絵の間を駆け抜ける。理絵は申し訳なさそうにしている。光が気にしなくて良いと言っても、彼女に声が届いていない。光の痛みを理絵もひしと感じているのだろう。キス魔の弟が新しいソファーにキスをする。光は  
「おばちゃんもまだチューしてないんだよ。ほら、こっちにおいで…」  
抱っこしてあげると言いかけると、理絵の身体がビクッと動いた。しまった!と言わんばかりの表情が分かりやすい。  
「もー理絵、気ぃ使い過ぎだって」  
「だって新築だし家具新品だし。子ども二人とも元気だし、傷とか心配になるたーい」  
「いーじゃん。家なんだから、住んでたら傷ぐらい付くっしょ」  
「そうだけど…」  
無邪気な子どもたちに囲まれて、久しぶりの再会に、少しぎこちなくふんわりとした時間には、つっこみ所が満載で面白い。昼時になったのでそうめんを囲んで食べていると、動物園に行きたいとせがむ息子に根負けし、理絵一家は嵐の様に去って行った。  
お仏壇に「竹内」と書かれたご霊前が置いてある。お座布団に正座した光が話しかける。  
「良かったね、歩さん」  
また静かな時間が戻って来た。そういえばこの新しい家に越してから、光の不眠症は治っていた。虫や鳥の声がいつも聞こえている。綺麗な音色に耳を傾けると安らぎが訪れる。仮住まいのマンションも、その前に住んでいた都内でも、コオロギや鈴虫の合唱を、声量の大きな状態で聴くことは出来ない。雨の日には屋根が音を立てている。その時までなぜか静寂は無音の中にあるものだと思っていたけれど、そうではなかった。自然の中に溶け込んで、初めて静寂に触れることが出来る事を知る。また、正面に向かって話しかける。  
「越してきて良かったね〜」  
もちろん返事は無いけれど、遺影の歩はいつもより笑っているように思えてならなかった。光の好物を知る理絵が、わざわざ買って来てくれた霧島ハムのボロナソーセージでお夕飯にする。美味しい。食べ終えると手早く洗い物を済ませ、ソファーにドーンと横になる。組んだ手を枕代わりに頭に敷いて天井の梁を眺めていると、テレビから懐かしい音楽が流れている。天井の低い部屋はブラインドが閉まっている。黄色い一人掛けのお洒落なソファーに、赤いダボっとしたハイネックのセーターを着て掛けていたソファーから身を起こし、全身でリズムを刻んでいる。音楽から当時の淡い思い出が蘇る。
中学を卒業するかしないかの頃、光が信頼を寄せていた男友達と公園で二人きりになったことがあった。久保田直は喧嘩が強かった。負けた話しを一度も聞いたことが無い。
「ねー、くぼちゃんって喧嘩一度も負けた事ないじゃん。なんでなの?」
「オレ、負けるわけないもん」
ボーっと見つめる光の視線がその後を知りたがっている。直は続ける。
「その瞬間、相手を殺すと思って掛かる事かな。死ぬ気で行く事。でー、そこに誰か友達を一人は必ず連れて行く。喧嘩の相手が死んでしまいそうになると、友達なら怪我をしてでも絶対止めてくれる。友達の言った言葉なら、怒った自分を抑える事が出来る。それが秘訣かなー」
男性特有の率直さであっさりと話す直に、光は彼の喧嘩のシーンを思い返す。いつも笑いながら「はい、ヒッキー」と、光の好きな武者返しという和菓子を差し出す、優しい直のあの変貌っぷりに納得し、「そっかー」と返事をした。急に思い出した若かりし記憶の回想に思わず言った。
「おーっ。懐かしいなー」
最近の光は、一人暮らしに良くありがちな独り言が日に日に増えている。そうだった。光にはずっと変わらない友達が居た事を思い出すと、辛い現実をなんとかやり過ごそうと思えた。光が人生における選択の時に、考える基準はいつもここにあった。中々居ない硬派な友達を失う様な事は、絶対やらない。嫌な目にあっても、私には帰れる場所があるから、やり返したりしない。自分が幸せに暮らしていけるものさし。そんな決意をして地元を離れた十六歳の記憶を、しっかりと思い出した夜だった。それからしばらくの間やる気を取り戻した光は、届いた荷物や仮暮らしのマンションから運んできた段ボールを開いて、あるべき場所に移す。その作業も箱から出した品物を吟味して、使いやすく考慮したり出来るまでのゆとりは全く湧いて来なかった。本来ならこれはどこにしよう?こっちの方がいいかなー?とゆっくり時間を掛けて納得して並べ進める。そんな乙女の楽しみは諦めて、二週間後に迫る四十九日と新築祝いで、お披露目する事を最優先に物事を進めていく。見栄えばっかりを気にして使い勝手が良くないなんて、とてもフラストレーションの溜まる作業ではあるが、家族やこれから親しくするご近所さんに、お見苦しい姿を見せて心配を掛ける訳にも行かず、致し方ない。
朝早く、トラックに乗った二人の庭師がやって来た。早起きの光はもう部屋着に着替えていた。挨拶に来た庭師の歳は、同じくらいか少し上に見えた。落ち着きを感じる。遅れて助手席から降りたもう一人の庭師の風貌はチャラ男だ。パーマの掛かった髪をアシンメトリーに、色は茶髪。作業着は腰パン。ウエストからボクサーパンツの幅の広いゴムが見えている。身体は細め、顔はそこそこイケメンだ。何かの冗談かと思ったが、彼は歩くとチャラ、チャラと音を立てている。信じられない。チャラ男の任務は芝を切って並べる事の様だ。それを把握すると光はお煎茶とお茶請けを盆に乗せ、二人の元へ運んだ。
「朝早くからご苦労様です。今日はどうぞよろしくお願いいたします」
「あ、すみません、わざわざ。ほら、お前の分も用意してあるぞ」
「あー…。ありがとうございまーす」
お茶請けに出した塩昆布は、チャラ男にはまだ早すぎた様だ。
「こういうのが一番お茶に合いますよね」
「それはどうも、ありがとうございます。私は中に居ますので、終わったらここに置いておいてください」
作業中もペチャクチャと喋るチャラ男は、どうしても黙って仕事が出来ない様子だが、落ち着いた庭師は定期的に相槌を打ちながら、集中し黙々と庭造りを進める。しばらくしてふと外を見ると、少しずつお庭が整ってゆく。単なる石が苔やオレンジの砂利と並ぶとカッコいい。箱庭に山から用意したヤマモミジを植え替えると、部屋の中で小窓から揺れる緑葉が顔を出す。昨日までの我が家に暖かさが足りていなかった事がわかる。景色が部屋の一部になると、絵を掛けなくていい。芝がある程度敷き詰められると、そこから湿度を感じる。渇いていた自宅が呼吸を始めたようだ。夕方、作業を終えた庭師が挨拶に来た。
「終わりました。しばらく根っこが根付くまでは毎日朝晩芝に水をたっぷりと与えてください」
「はい、分かりました。どうもありがとうございました。」
光は二人の乗ったトラックが走り出す前に一度呼び止めて、再度お礼と共に柿ピーを渡した。彼らを見送ると出来上がったお庭を眺めた。そこが我が家である自覚は無く、他人事のように「素敵だな」と思い自宅へ入って行く。
四十九日の前日から、両親と二番目の兄夫婦が泊まりで手伝いに来た。何も言わなくてもこんな時に家族は本当にありがたい。仕出し屋さんに連絡を入れたり、手配していた泊り客用の布団の受け取りなど、雑務はまだまだ沢山ある。梅雨の前で沢山の虫が出る時期に、父は虫退治用のスプレーの買い出しに行く。兄は生後二か月の子どもをあやし、母と義姉は掃除や来客用のお茶請けを用意している。それぞれが準備に追われていた。翌朝長男の義姉が法要の二時間前に到着した。その後歩の親族が到着する。
「あ、どうもー、こんにちはー。ねー光ちゃん、はいこれ」
光が別の部屋で喪服に着替えていると、長男の義姉のナオミが挨拶をしながら入って来た。差し出した手土産のお菓子を見てしまった!と思った。
「香典返しと引っ越し祝いのお返し、買ってない…。あー…。忘れてた…」  「だったら光さん、住職さんに渡す分なら私達のを使って」
歩のご姉妹の千代さんと三代さんは、光が葬儀の時に気が動転して閉められなかった名古屋帯を、今日は締められるのかと後ろで見守っていた。光に用意した手土産を渡し、さりげなくサポートしてくれる。
「すみません、ありがとうございます」
光は、明日みんなが帰った後に、デパートでお返しを二種類手配する事に決めた。
騒がしい法事の中、住職さんは約束の時間通りに到着した。その場しのぎではあるが、なんとか無事に終える事が出来た。出来る限りの精いっぱい。光の知る限り、法事とはいつもこんな調子だ。今も昔も変わらない。
時間差で工務店のご家族が到着する。鈴木家の親族は関東、近畿、四国、九州とそれぞれバラバラで、一度に集まるのも難しい。ハードスケジュールではあるが、生前の歩の思いを叶えたい一心で、みんながここに集まった。宴会に慣れた父は、わざわざ遠方まで来てくださってありがとうございますと接待する。ちょっとしたアメリカンファミリー感に、多少の恥ずかしさを抱いているのは鈴木家の方で、工務店一家の方々は少しも気にしていない。やはり、九州の人は暖かい。そうしてお弔いを終えると明日は月曜日で仕事があるからと順に帰ってゆく。
49日の法要と新築祝いの混じった楽しい宴が終わると、遠方より来ていただいた歩のご姉妹と一晩を過ごす。変な時間に仕出し屋さんの料理を食べたので、三人は残り物を少しずつ突いた。
「歩さん、キノコ嫌いだったでしょう?」
先だった夫が一番親しくしていた次女の三代さんが言うと光は驚いた。
「え?普通に食べていましたよ?椎茸とか」
「えー?本当―?」
「はい。美味しい美味しいって言ってました。嫌いだったんだ」
長女の千代さんが厳しくも優しい眼差しで話す。
「光さんのご実家も被災して大変だったでしょう?」
「はい、半壊って言ってました。」
「誰でも痛みは抱えて生きている。だから、気を落とさずにしっかりと生きるのよ。先に死んじゃった歩さんなんてぶっ飛ばしちゃえ!」
千代さんに笑顔でそう言われると、光の涙は溢れだした。
「これからどうするの?」
「私、作家になりたいのでしばらく小説を書いてみようかなと思っています」  「え?…そんな事で生活出来るの?」
「はい。私は別に贅沢が好きなわけでもないし、普通に暮らしていれば食べて行けます。足りない時は働きます」
「パートをやりながらの方が良いんじゃないの?」
「期間を決めた方が良いわよ」
二人は真剣に心配してくれる。夫を失ってから人が見せる瞬間に嘘や本当、善意と悪意をはっきりと見分けられるようになった。と言うよりも、これほど分かりやすい事なのに、どうして今まで気が付かなかったのだろうと、光は考える様になっていた。お夕飯を終えてお風呂の支度をする。お二人がいくら旅に慣れているとはいえ、当然お疲れになっているだろうと、早めに布団を敷いて寝床の用意を済ませ、挨拶をして寝室へ戻る。
朝、いつもの様に朝食を作っていると二人が起きてきた。ぬか漬けを切り、納豆と卵を一緒に溶き、水にさらした刻んだねぎの水気を切り合わせると、しばらく置いて馴染ませる。砂糖と塩で味付けた卵焼きに、じゃがいものお味噌汁、半熟の焼きたらこ。「歩スペシャルです。」と光は食卓へ並べる。それを見た二人は驚いていた。彼の好物が、こんなに質素だとは思いもよらなかったそうだ。最愛の兄を失い悲しみを隠し切れない顔をした光を見た三代さんは、子どもの頃の話しを聞かせた。
「家はね、中学の頃に父と母が仕事で福井に行っていたの。その日は私がお弁当の当番だったんだけど、朝寝坊しちゃったの。それで、お兄ちゃん!どうしよう、寝坊しちゃった!って泣きついたら、ソーセージをタンタンタン!って切って焼いて、ぬか漬けをトントントン!って切って、ご飯と一緒にお弁当箱に入れたの。今でも忘れないわ」
歩の素顔が垣間見えるエピソードに懐かしそうな顔で光が笑う。
「本当にいいお話しですね。歩さん、出逢った当時から言ってましたよ。僕の妹たちはみんなとてもいい子なんだって」
「えー本当―?」
「はい。歩さんが兄だなんて、うらやましいです」
その言葉を聞いて不思議そうな顔をした千代さんが語り掛ける。
「あなたにもとても立派なお兄さんが居るじゃない。二人も」
「えー、うちの兄はそんな感じじゃなかったです。三人で分けなさいって貰ったお年玉だって二人で分けちゃうし、美味しそうなぶどうを貰っても、お前は父ちゃんにいつも依怙贔屓されてるからあげない言って、縁側を走りながら全部食べちゃうし」
千代さんと三代さんは笑っている。千代さんが言う。
「光さんはまだ恋の中に居るからそう思うのよ」
「そうなんですか?」
「うん」
しばらく沈黙した後に三代さんが続ける。
「そう言えばお兄ちゃんに三代、遊びに行くぞって誘われて、汽車に乗って高知に行ったの。その時なんてお兄ちゃん、お金持って無かったのよ。三代、貸しとけって。それ、返してもらってないわ」
じんわりと来る三代さんの優しい笑いのセンスに、光はプッとふきだした。そして思い出したように言った。
「え?高知県ですか?歩さん、日本で行った事のない県は高知県だけだって言ってました。何でそこだけ行かないの?って聞いたら、一つ残しておいた方が良いじゃんって、とってもカッコいい事言ってたのに。でも、行った事あったんですね」
「行ったわよ、私と」
なんだか可笑しくなってきて笑った。
「光さん、昔のパチンコって知ってる?こうして玉を一つずつ弾いていくの。それでまだ学生の時に、お兄ちゃんがお友達と一緒に連れてってあげるって言うから行ったの。その時に三代、いいか。玉が入っても大きな声を出しちゃいけないよ。って言ったんだけど、玉が入ったら入ったー!って叫んじゃったの」
歩がまだ元気な頃に、二人で写真の整理をしたことがあった。小さい頃の家族写真は何度も歩と見て話しを聞いていたので、光にはまだ可憐な少女の三代さんが、「入ったー」とはしゃぐ姿の想像がしっかりと付いて大笑いした。ふと思い出したように光が続ける。
「あ、そのお友達ってけんちゃんじゃないですか?」
「よく分かったわね、そうよ。彼のお宅とは家族ぐるみで仲が良かったのよ」  「その人のお話しなら良く聞いています。中華屋さんのご子息で、ご両親が作った蟹チャーハンがとても美味しかったそうで、もう一度食べたいって何度も言ってました」
千代さんと三代さんの話す懐かしい記憶が、彼を想って泣くことばかりで笑うことを忘れていた事を光に気付かせる。一見派手好きな歩だったが、生真面目で誠実だと光は知っていた。「いつかけんちゃんに逢わせてくれたら、何が入っていたのかを聞いて再現してみるね」と意気込んでいた頃を思い返すと、食べさせてあげられなかった思い出の蟹チャーハンが、叶わなかった現実として光を苦しめる。そうしているうちに、泣いて過ごすのではなく、同じ状況に居ても心が暖まる事もあると、光はまたひとつ気が付いた。  
「お二人が歩さんのご姉妹で本当に良かったと思っています。遠くから何度も足をお運び頂いて、本当にありがとうございました」  
光がそれを伝えると、二人は優しい顔で笑った。  
九州の暑さにぬか漬けから怪しい酸味を感じ取った三代さんが、「炒りぬかを足すと良いわよ」とアドバイスをする。それに光はとても喜んだ。光の家族にはぬか床を所有する人が一人も居ない。妹から見る兄とはどこの家も変わらないものかもしれないと、姉の居ない光には新たに強い味方が出来た様な気持ちになって、帰りの荷造りを済ませた二人を空港まで送った。


新しいご近所さんと連絡を取るために、光はラインでアカウントを作ると、すぐに優からもうすぐ誕生日だよとメッセージが届いた。彼女は二十歳だ。あどけない表情にチラリと見せる頑固さを持つ。素直で可愛い女の子に育ったことが嬉しい。二十歳と言えばお酒の解禁だ。お酒に秘められた力は、ガールからレディーへと向かう為には欠かせない。光は優の二十歳のお祝いをする事にした。
九州に住んでいると盛んな文化は焼酎だ。熊本は米、宮崎鹿児島は芋、奄美大島の黒糖焼酎は飲みやすく、ロックで飲むと簡単に一本空いてしまう。光がまだ保育園に通っている頃の冬、お風呂の時間に父と湯船で肩まで浸かって五十秒数えるのが日課だった。数え終えると、脱衣所で身体を拭いてもらう。熱めのお湯でピンクに染まった肌から湯気が出る。お風呂上りに、ポカポカの身体で裸のまま走ってこたつへ向かうと、コップになみなみと水が入っている。表面張力で地平線の様にカーブを描いた飲み物がとても美味しそうで、堪らず勢いよく飲み干すと、それは祖父の芋焼酎だった。そのまま後ろに倒れた時のトラウマで、焼酎はあまり得意ではなかった。光は歩と出逢ったその日に教わったウイスキーを好んで飲んでいた。グレンフィデックの十二年だ。これを優に仕込もうなどとは思っていない。ただ、酒好きとしては、自分の席に好みの酒が置いてあると気分が良い。と、言いたいところだが、これが中々田舎には置いていない事が多い。仕方がなく違うお酒を飲んでいると、翌日二日酔いした時に後悔する。せめて自分の好きな美味しいお酒が飲みたかった等と考えてしまう。世界で一番売れているウイスキーにしては、日本での知名度はまだまだ低い。
光は酒に酔っている時に、何度か危ない目にあった事がある。連れの男に勧められたカクテルに薬を盛られたこともある。まだまだ無垢で無防備な優に下手に酒を教えるのは少し不安が過る。ハッと閃いた光は、隆の店に行こうと思い付いた。宇土小学校の通りを市役所を背に真っ直ぐ進むと左手に隆の店がある。元々は親父さんが営む精肉店で、隣の店舗には焼肉店も構えている。この辺りでは美味しい肉と馬刺しを食べさせる店で有名だ。その店を継いだ隆が食事時の時間を終えると、バンブーと店名を変えてバーの店主も兼任する。同級生には馴染みの店だったが、十六歳から距離を取っていた光は、店には一度も行ったことが無かった。
グーグルで検索するとホームページが出た。電話番号を調べ、店に電話を入れる。
「はい、松本です」
電話口の懐かしい声は隆のお母さんだった。一瞬間違えて自宅に掛けたかな?と思ったが、すぐに別にどちらでも良いのかと開き直り、話しを進める事にした。
「こんばんは、ご無沙汰をしています。鈴木と申しますが、小学と中学と隆君の友人であだ名がヒッキーと言いますが…」
「あー!ご無沙汰しています。ちょっと待っててね、隆に代わるね」
お母さんは思い出した様な明るい声を出して、嬉しそうに保留を押す。隆のお母さんはとても愛らしいのが特徴だ。
「もしもーし、おー、ヒッキーどやんした?元気にしとるとー?」
「おー松もっちゃん。私?うん、元気元気!ごめんね突然電話して。あのね、今度従妹の二十歳のお祝いをしたいんだけど、松もっちゃんの店でやって良いかなーって思って電話したよ。彼女をお酒デビューさせるから、ちゃんと知ってる人のお店が良いんだよねー」
「おー、もちろんいーばい。いや、逆にありがとう。で、東京に行ったって聞いてたけど、帰って来たと?」
「うん。最近こっちに移住してきた」
光があ!っと思うと電話口でも隆には伝わった。突然無事に夫の納骨が済みましたなんて、とても言えない。何の事だか分からなくても、聞かない方が良い事を察した隆がのんきな声で続けた。
「で、ヒッキー。いつするとー?」
「えっとー、再来週の金曜日。空いてるかな?でね、お祝いだからシャンパン入れたいんだけど何がある?」
「シャンパン?あるけど、なんか好きな銘柄があるなら置いとくよー」
きちんと話すのは十六年ぶりだと言うのに、話しが早くてとても気持ちが良い。隆が続ける。
「あ、ヒッキーたい、京香にライン繋いでもらってよ。で、置いといて欲しい酒があるなら画像送ってー。俺、分からんやつも多いけん」
「うん、分かったありがとうー。いやー話が早くて気持ちいいね、松もっちゃん。じゃあ、人数とか時間もそっちに送るねー」
「分かったー。ならねー。ありがとー」
光は幼馴染の京香にそれを伝え、隆のラインを登録する。そして、楽天から引っ張ったグレンフィデックの十二年の画像と、ヴーヴクリコのイエローラベルの画像を、隆のトークに張り付けた。隆は、開いたホタテに挟まる年老いた爺さんが、恥じらいながら胸と股間を隠して「りょー貝柱」と言っているスタンプで返事をした。ラインを閉じると昔と何も変わらないやり取りに微笑んでほっこりとする。予約した日に隆と会うのも、同窓会で軽く話した以来で、十代の頃飽きもせずに毎日顔を合わせ遊んだ頃ぶりの再会と等しい。しばらく主婦に専念していた光は、友達の素晴らしさに、改めて胸を打たれる思いがした。
優は最近失恋をしていた。年の離れた男に騙されていた事を、家族だけが気付いていた。見兼ねた優の母親が強引に別れさせた。光もまた失恋と近いところに居るので、流石に私一人じゃ無理かもと不安に思い、女友達に助っ人を頼んだ。女が失恋した時は女子会に限る。下川美月は独特の感性の持ち主で、光はいつも彼女に笑わされる。いつかのお正月には、未年に雪で作ったウサギの写真付き年賀状を送ってきて、添えたコメントが「厄払いに行かなくちゃ」だった。友達にしか分からない微笑みを、彼女の無意識がしっかりと届ける。
待ち合わせた三人は店の外で合流し、バンブーに入る。いらっしゃいと声を掛けた隆に、従妹の優を紹介する。そのまま隆と光は、右手のカウンターで少し話している。美月が優を連れてテーブルに案内し、座る。嬉しい事にまだ焼き肉が食べられる時間だった。盛り合わせの肉と野菜を注文し、シャンパンの栓を抜く。美月は車だから飲めない。優はママに飲むなと止められていると言う。光も良く知る叔母は下戸だ。それでもかまわなかった。お酒のデビューとは大抵そんなものかなと思う。初めから浴びるように飲んで吐いてしまったら、誰でもお酒が嫌いになるだろう。グレンフィデックの十二年は次回キープする事にしてもらった。これは粋な隆の提案だった。真っ直ぐと澄んだ眼差しで優が聞く。
「ねえ光ちゃん。なんで私がだまされてると思うと?」
「んー、騙されてる人って、止めて半年くらい経ったら騙されてたんだって気付くもんじゃない?ねえ、美月―」
「うん。私も騙されてたことあるよ、普通に」
「何それ私聞いてない!そんなことあったの?」
「うん。昔千葉に居た話ししなかったっけ?」
「あ、知ってるー、そうだったんだあ」
優と光は黙って耳を傾ける。でも美月独特のリズムはいつも通りを発揮する。  「ねー、肉焼かんとー?もー私がやるー」
それは当然の事ながら、美月の中では終わった恋の話しなので、そんな男の話しは今更どうでも良い様子だった。ただ、目の前に熱した網があって美味しそうな肉が並んでいるのに、チビチビとしか焼かない二人が信じられないという様子だ。隆がサービスと言って厚切りのベーコンを置いていく。中々見られない分厚いそれを見た光と優は声を揃えて、「美味しそー」と呟き目を光らせた。美月がさすが身内だねーと笑う。三人で他愛のない話しをして、美月に焼いてもらった焼き肉を頬張る。厄年を終えた三十三歳と二十歳のジェネレーションギャップと、昔あった珍事件で話しは尽きる事は無い。盛り上がる女子会に気が付くと、店はほぼ満席になっていた。カウンターに座る三人組の男性客の一人が、光たちをチラチラと見ている。あまりお行儀の良さそうでないその男が残りの二人を引き連れて、グラスを片手に隣のテーブルに移動してくる。美月と優はその流れには全く気が付いていない。隆が何食わぬ顔をして間に大きな衝立を挟んだ。二十歳になったばかりの従妹を連れた光は、話しの相槌を打ちつつも内心で「あー、ここの店に来て良かったー」と胸を撫で下ろす。焼き肉を囲んでシャンパンも飲んだしお腹もいっぱいだし、これからカラオケにでも行くかと隆にお会計をしてもらう。勘定を支払う時に、熊本復興に向けて頑張っているんだと、なんとなく感じた。今度の祭りでは、直と馬追いの練習もやると話していた。優は飲めなかったシャンパンのボトルを写真に撮り、嬉しそうにスマホを眺めている。美月が優を良い子だねと褒める。安心感の中で(やっぱりこの店を選んで正解だった)となんだか誇らしく思う光は、優と上機嫌で美月の車に乗る。隆の作り出す店の雰囲気に酔った二人と一緒に、シャンパンのもたらす心地好く気怠いの酔いの中で、光は数年ぶりの夜遊びに出発した。  

岡田小百合と出逢ったのは七年前の事だった。慣れ親しんだ熊本に暮らす光は、人生の中で一番大きな選択をし、二十五歳の四月に上京した。その小百合に自覚は全く無かったが、銀座の煌びやかな並木通りの七、八丁目に立っているベテランの黒服連中に、この人を知らない人が居ない程名の知れたホステスだった。当時の光は全てを捨てて銀座のホステスになるために上京した。光の両親は小学生の頃に離婚していた。その父が癌に侵された事を知った光は、昔負った事故で身体が不自由な父に代わり、働いて仕送りをしようと決めていた。疼痛に苦しむ父をホスピスに入れたいと思っての一大決心だった。家族にも友達にも、この話しは誰にもしたことが無かった。光には自分を取り巻く現実が、昔図書室で読んだ哀れなおしんと重なって、こっ恥ずかしくて仕方がなかった。入店したその日の開店前、ソファーに並ぶヘルプ達に紛れた光に小百合はすぐに声を掛けた。  
「光ちゃん?あなた、こっちに誰か親戚の方とかいるの?」  
「いません」
小百合はたったの一言を話す、光の西郷隆盛を思わせる九州のイントネーションの強さについ笑う。
「フフフ…。笑ってしまってごめんね。でも、凄い勇気だわ。あなた、その辺に居る子達とは違うものね。」
「はい!苦労は買ってでもしろって言いますし」
厚かましくもある屈託のないその小生意気さに、堪える事の出来ない笑みが小百合を襲う。お扇子を広げて懸命に隠しながら、物腰の柔らかな言葉と声で、小百合はもう一度優しく話しかける。
「フフフフフ…。もう、嫌ね。度々笑ってごめんね。携帯、交換しよっか。銀座にはノルマがあるからね。同伴、誘うね」
「ありがとうございます!」
光は直感で、誠実な小百合さんには嘘が通用しないと思った。もちろん他にもお姉さんやチーママは居たけれど、尊敬できる所を微塵も見付けられなかった。それには随分惑わされて困ったが、銀座で学んだ僅かな時間に、世の中にはお店のトイレットペーパーを盗んで帰る人や、「おはようございます」と挨拶をする黒服に「死ね」と挨拶を返すイケスカない人が沢山いる事を知った。短い銀座時代には無数の出会いがあったが、一生忘れられない出逢いをしたのは片手で数えられる程に少なかった。
光が歩と結婚した頃、時間を作って三人で草津温泉へ旅行に行こうと約束していた。しかし、闘病生活の中に居たので願いも空しく叶わなかった。歩の訃報を知らせた時にお弔いと励ましの言葉を貰い、夏にあの約束を果たそうねと受話器を下ろした。それから数か月が過ぎて、死別は夫婦である以上、どちらかが経験しなくてはならないものだと納得しようとしている頃だった。久しぶりにラインで連絡を取り合い、せっかくの温泉旅だからと、二人とも女子の日を外して行こうと日取りを決めた。出発の前の晩に旅の支度をする。翌朝身支度を済ませると、忘れ物が無いか確認する。車に乗り込み、数年ぶりに空港へと車を走らせた。助手席に誰も乗せずに荷物と旅に出るのは、何か車が軽く感じて、走りが中々安定しなかった。駐車場に車を止める時も、いつもの様に一度で決められず、バックで何度も切り替える。小百合とは高崎駅で待ち合わせている。一人旅に出かける感覚は、未亡人の光にとって真新しく新鮮であるけれど、いつも隣に居た彼が居ないという現実は、否応なしにチクチクと痛みが胸に刺さる。旅好きの京香に教わってLCCで取ったチケットなので、ちょっと小さな旅客機に乗車する。客室乗務員は苛立っている事が見て取れた。初めての体験だったけれど、彼女たちと目を合わせる事は止めておいた。音楽を聴こうとヘッドホンを探したが置いていない。機内で飲むりんごジュースがお気に入りなのだけれど、この調子だときっとこれも望めないのだろうと少し残念に思っていると、ドリンクのサービスはLCCにも健在だった。光はりんごジュースを飲み干すと、アイポッドで音楽を聴きながら着陸を待った。
羽田に着陸した飛行機から降りると、のんびりと歩く人が途端に少なくなる。光はリムジンバスの乗り場に向かって、ゆっくりと歩いていた。高崎駅行きのバスの時間にはゆとりがある。急ぎ足の乗客を眺めながら、都内に住んでいた頃は、私もこうだったんだろうなと更にゆっくりと真っ直ぐ歩く。そんな事を考えながら歩いていると、無意識にハイヤーの乗り場に向かっていた。ぼんやりした光は、一瞬現実と妄想が混じり合う感覚に陥った。歩が待たせておいたハイヤーに颯爽と乗っていく。ハッとして我に返りすぐに間違いに気が付くと、乗り場には一台のハイヤーも停まっていない。悲しすぎて幻覚を見たのかと、そんな自分に疲れを感じながら、リムジンバスのチケットを買いに踵を返した。小百合さんとの群馬での温泉旅は二度目だった。バスにゆらゆらと揺られながら小百合さんと遥さんと3人で行った女子旅の伊香保温泉も楽しかったなあとぼんやりと景色を眺めていた。
昼過ぎに高崎駅に着くと、待ち合わせに十分ほど時間が出来たので、小腹を満たそうと駅の中のパン屋さんに入った。オレンジジュースとたまごパンを二つ買い、小百合の待つ駐車場を目指した。光を見つけた小百合は、こっちだよと手を振っている。
「すみません、もしかしてパン買ってたから少しお待たせしました?」
「ううん、違うの。ごめんね、私も遅くなってしまって」
「そんな、約束の時間は予定の通りだし謝らないでください」
「まあ、それもそうね。どうぞ、乗って。運転まだまだ下手だけど、頑張るから」
「あ、はい。疲れたら変わってくださいね。私も山道なら父に仕込まれて得意ですから」
二人の初めてのドライブは、小百合の運転で走り出した。
「あら、熊本の山道?群馬とどっちが深いのかしら?」
「多分いい勝負です。でも、こんなに人の多い栄えた駅は無いですけど」
「あら、そう?一度行ってみなきゃね」
「はい、時間にゆとりが出来たらいつでもいらしてください。楽しみに待ってますから」
「ありがとう。それにしても鈴木さん、良く看取ったわね。愛だわ、光ちゃん。私、看護師の仕事してるじゃない?だから、自宅に連れてって一人で看取ったって聞いて、凄いなって。大抵の人は病院に戻ってくるのよ。それなのに…」
ハンドルをギュッと強く握り、小百合は涙を浮かべている。「小百合さん、前見えてますか?その話しは後にしましょう。事故ったら温泉入れなくなっちゃう」  「ああ、ごめんね。もう、田舎のおばちゃんになって長いから、涙もろいのよね」
優しいからだと言う光に小百合は暖かな笑みを浮かべて運転している。久しぶりの再会にはしゃいでしまう二人の話しは、温泉街へ到着するまで尽きる事は無かった。
宿に着くと仲居さん達が並んで頭を下げている。光にはどれが女将なのか分からない。車を停めた小百合が受け答えをする。
「本日二人で宿泊の岡田と言います」
小百合は群馬県出身なので、この界隈には詳しい。チェックインを済ませ鍵を受け取ると、二人は借りてきた浴衣に着替え、ぶらぶらと散歩がてらお湯に浸かりに行く。この街は硫黄の香りが漂う。湯気の立つ街並みの全てが美しく、霧がかるその場所には何か神々しさを感じる。温泉の脱衣所で帯を解き脱ぎながら小百合は言う。
「この後宿で食事をしてお部屋に戻って着替えたら、夜遊びに行きましょ」  「はい!良いですね。考えただけで楽しいですね〜」
小百合はそうね、と答えると二人は、キャイキャイと騒ぎながら扉を開ける。そこには年季の入った木で出来た浴槽の縁で、オバちゃんが一人休んでいた。騒がしくてすみませんと声を掛けると、良いのよ、どこから来たのと優しい声で語りかける。疲れた顔をしているし、怒られるかなと思ったオバちゃんともすぐに打ち解けた。小百合は県民で光は九州からだと伝えると、オバちゃんの新婚旅行は九州巡りだったよと話す。何十年も前から阿蘇のカルデラは素晴らしかったと話すオバちゃんに、地元愛の強い光は誇らしく思った。先に出たオバちゃんの後も、違うオバちゃんがまたいい人。温泉の力かな?とも思ったけれど、それは違う。群馬女性の持つ白くて清く柔らかさを想わせる肌質に気質は、赤城山から吹く冷たい風から生まれるのではないのか、九州ではあまり見掛けない。光はもしも男だったら群馬女性の虜になるんだろうなと話すと、小百合は九州の人の強さと優しさだって中々のものよと返した。単純な光は嬉しそうに笑うと小百合は真っ直ぐに見据えて、
「光ちゃんってなんかやっぱり感性と言うか、感受性が凄いわね」
と言った。光は上手く回答できなかった。
お湯から上がり、浴衣の帯を締める。気持ち良かったと話しながらぶらぶらと歩いて部屋に戻ると、銀座時代の話しや歩の写真を眺めて、しばらく泣いたり笑ったりして過ごした。食事の時間が来たけれど、二人は妙な時間にたまごパンを食べていたので余り進まない。そもそも温泉宿の食事は少し多すぎる。食事とビールでお腹が膨れた二人は、明日の朝の水が無いから、コンビニに買いに行こうと外へ出た。小百合が家から用意してきた二本ずつの缶酎ハイとハイボールと梅酒ソーダは、チェックインした時に冷蔵庫に冷やして置いた。二人は呑兵衛だからか、いつでもどこでもアルコールは大きい方の五百の缶を選ぶ。夏を少し過ぎて肌寒い夜道を歩くと、程よく酔いが回ってくる。調子が出てきた二人は、路地の向こうにうっすらと見える赤ちょうちんに目を光らせる。
「小百合さん、私、あの店からビームを感じます。熱燗が飲みたい!」
「あら、いいわね。ちょっと寒いし。私もあのお店の暖簾には何か惹かれるわ。入ってみましょ」
勢いに任せて暖簾を潜ると、店のカウンターは満席だった。光は言う。
「こんばんは。二人ですけど空いていますか?テーブルでもお座敷でも構いません」
痩せていて顔色の悪い愛想のない店員が、左手で示しながらどうぞと返事をする。歳は四十半ばといった所だろう。小百合は(え?こんな人で大丈夫かしら)と戸惑っていたが、光は気にしない。お座敷に座ると光の好みを伝えてお燗をぬるめに付けて貰う。お通しはタコときゅうりとわかめの酢味噌和えに、マカロニサラダだった。座敷にマジックで書いた大きな張り紙がある。そこには「お酒を飲まない方はお断り」とキッパリ書いてある。ラッキーだ。食事は入らないがお酒なら入る。
リーマンショックの後、嘘のように銀座のクラブは干上がった。今が辞め時だと悟った小百合は、サッと銀座の仕事を辞めて群馬へ戻った。光と小百合が出逢ってしばらく経った頃の話しだ。さよなら会を二人でやろうと、銀座で修業を積んだ大将が営む食事処で待ち合わせた。その店は日暮里にある。その時も女子会は盛り上がり、二軒目でバーへと梯子した。どちらも小百合の行きつけの店で、信頼している者同士の行きつけは、好みが似るのかどの店も店内がとても居心地良い。光も強いと言われるが、小百合も酒には強かった。大体においてバーには時計が置いていない。今が何時なのか分からずに、そろそろ帰ろうと外に出ると、冬の夜が明け始めていた。タクシーを拾って帰ろうと思ったら、すでに始発が何本も出ている始末だ。夕方の五時に店を予約していて、光が自宅に帰りついたのは朝の八時頃。七時過ぎに解散してその間、チェイサーもペリエも頼まずに、二人は休む間もなく飲んでいた。ただ楽しくて、次の日はもちろんのびていたが、特に辛くなかった事だけは覚えている。当時は二人とも若くて健康的だった。
お座敷に座ると、おつまみに焼き物をいくつか焼いてもらう。小百合がお通しは光にあげると言うので、光の回りには小鉢が沢山並ぶ。明日の朝の予定を考えると、日本酒まっしぐらで過ごすのは少し危険だと思った光は、小百合に違うお酒にしないかと持ち掛ける。光ちゃんのチョイスでいいわと小百合が言うので、スパークリングワインをフルボトルで頼んだ。凄いもの頼むわねと小百合は言ったが、光の知る小百合はいつもシャンパンを飲んでいるイメージしかなかった。それを伝えると、それもそうだったわねと思い直した様だ。カウンターに目をやると、ミョウガの酢漬けと書いてある。大きな瓶に入った赤い液体に浸かる沢山のミョウガが、スパークリングワインに合いそうだ。恐らく赤梅酢に付けた物だろう。それをあてに飲んでいるとボトルはすぐに空になった。温泉街の雰囲気が二人にどんどん酒を勧める。もう一本追加してそれを半分ほど飲んで、二人はお会計をして店を出た。するとあの意地悪そうな店員のオバちゃんが、「残ったスパークリングワイン、部屋で飲むならどーぞ」と少し乱暴な口ぶりで言った。ありがとうございますとお礼を伝え、酔っ払いの光は酒瓶を片手に、ふらふらと宿へ向かって歩いていく。後輩を連れている事もあって、酔っていてもしっかりとしている小百合は、途中のコンビニで目的の水を手に入れた。旅館に着くとお帰りなさいと迎えてくれる。二人は上機嫌で部屋へと戻った。そして部屋でまた宴会を始める。持ち帰った瓶が空になり、部屋で冷やして置いたお酒も無くなったので、漸く諦めのついた二人は眠る事にした。その時間が何時だったのかは二人とも知らない。翌朝の朝食は、恐らく食べられないだろうと想定していたので付けてない。予想通りに迎えた二日酔いに、時間のギリギリまで二人は、大の字で寝ころんだままダラダラとして過ごした。会話のほとんどが「やっぱり九州の人ってお酒が強いのね」とか「いや、小百合さんつよい」とか「毎晩父と大五郎でチビチビ鍛えてるからかしら?」とか「全然眠れなかった」とか「え?寝息が聞こえてましたよ」とか、本当にどうでも良い話しを何度も繰り返すほど、内心たった一晩で「飲んだなー」と互いに思っていた。忘れ物が無いかしっかり確認すると、フロントの側の売店で名物と書かれた黒糖の温泉まんじゅうを手に入れ、荷物にならない様に郵送で送る手配をした。チェックアウトを済ませ旅館を出ると、ランチに予定していた水沢うどんを食べる為に、車を走らせた。小百合は学生時代を終えてから、ずっと都内で暮らしていた。その為車の免許を取得してはいたものの、ほとんどの期間がペーパードライバーだった。都民から群馬県民になって、初めて車を移動に使うようになった。
「小百合さん、次のコンビニで停まって貰えますか?わたし、コーヒー飲みたいですー」
「良いわよ。セブンにする?」
「あ、何でもいいです。次にあるやつに寄って欲しいですー」
草津方面から走ると、しばらくして左にセーブオンが見えてきた。
「おお、このコンビニ初めて見た!」
「コーヒー買うのよね、セブンの方が美味しいかも。そっちまで走ろうか?」
「いや、わたしここが良いです。九州にも地域密着型のコンビニがあるんですけど、パンとかおにぎりとか、メジャーなコンビニよりも美味しかったりしますよ!」
言うまでもなく一風変わった光はネームバリューに騙されない。その店で降ろしてもらい店内に入ると、醤油味の唐揚げとカフェラテを求めた。それに釣られた小百合は肉まんを求める。店を出て車に向かう時、光は小百合に運転を変わってくれと願い出た。わざわざ九州から出てきて貰っているのに、それはできないわと恐縮する小百合に、光は私の助手席に座ってみてくださいと言う。
「後で自分の場所に戻してくださいね」
そう言った光は運転席に乗り込むと、エンジンを掛ける前に、一番後ろまで下がっていたシートを、自分の足の長さに合わせた。続けてルームミラーを合わせ、サイドミラーも調節する。シートベルトをカチッと締めると予想外にぶら~んとした。ベルトが緩む様にクリップで止めてある。小百合の運転が安定しない理由はここにある。シートの位置が後ろ過ぎるから、シートベルトも邪魔になる。浮いた背中のままハンドルにしがみつく姿勢になっていた。何事も自分の身の丈に合わせてしまえば、着心地も履き心地も良い物だ。エンジンをかけ、唐揚げを一つ頬張り、カフェラテを流し込む。初めての味はいつだって美味しい。唐揚げももちろん美味しいが、コンビニエンスストアの中で光の好みのコーヒーを出したのは、この店だけだった。走り出すと小百合が言う。
「やっぱり上手いわね、とってもスムーズ」
「はい、父と二人居る兄の助手席で覚えました」
「私も母の運転の助手席に乗ったり、逆もしかりなんだけど、母ったら突然大きな声出したりするから、運転していてビックリしちゃうのよね」
「あーそれうちもですー。うるさいなー。黙って寝てりゃいーのにって思いながら運転してますー」
「アハハ。寝ないわよね、あの生き物」
「うんうん、絶対寝ないー」
女子旅はとても楽しい。光が続ける。
「あの〜余計なお世話かも知れないんですけど、実はですね、小百合さんって長年都内に居たから、もしかしてあんまり運転の上手な人の助手席に乗ってないんじゃないかと思って。それで代わって貰ったんです」
「そうなのかしら?」
「分かりませんけど、一緒に伊香保温泉に行った遥さんにドライブに誘われて、その友達の男の子が車を出したんだけど、海ほたるの駐車場にバックで入れる時に、何度も何度も切り返して。あんまりにも下手くそだったんで、つい後部座席からハンドルを右に全開、そこ少し緩めて~、はい戻してそのまま下がる~。とか言っちゃって、教習所の先生なの?って言われたことがありました」
「フフフ、面白い」
「それだけじゃなくて、マンションの契約の時も、部屋の内覧で営業マンが社用車で現地に案内するんですけど、コインパーキングでゆっくり後ろに下がりながら乗り上げました」
「アハハ!ダサいわね」
「そうなんですよ。もしあんなのが基本だったら、当然上手だって言われている人達のレベルも下がるのかなーって。あ、もちろんプロ級の人も稀には居るだろうけど、何ていうか統計学的に比率が違うのかなって」
「そうね。それはあるかもね」
「わたしは歩さんや父や兄みたいに走り屋みたいなカッチョイイ運転は出来ないけど、タクシードライバー的な運転なら得意です。多分小百合さんも乗ってるだけで身に着くから、ぼんやり景色でも眺めといてください。昨日飲みすぎちゃったし」
「ありがとう。助かるわ」
小百合は肉まんを口にすると、「ドライブ中の肉まんって美味しいわね」と呟いた。食べ終えると少しウトウトとしていた。寝てていいですよと声を掛けた光は、ナビの通りに走り続け、目的地に着くまでの車内には、久しぶりの静寂が訪れた。道路は整備されてはいるが、カーブの続く中々深い山の中を上ったり下りたり走り続けると、立派な店構えの水沢うどん屋が並ぶ。ゆっくりと小百合が目を覚ます。
「光ちゃんありがとう、実は飲み過ぎて少し辛かったけど、休んだら元気になって来たわ」
小百合は水沢うどん街道の深い霧の中に目を凝らし、指をさしてあのお店だよと光に伝える。駐車場に車を入れると、二人は傘をさして道向かいの店舗を目指す。
「小百合さん、群馬って凄いんですね。文豪の人達がここへ来て執筆をしていたんですよね。今立っているこの場所でさえ何かの本で読んだような景色です」
「光ちゃんの書いた小説、出来たら読ませてね。今は仕事と学校があるから読めないけど、私も読んでみたいわ」
「はい!やる気が湧いてきました。頑張ります!」
「ほどほどに休みながら、ね。」
「はーい!」
慣れた手付きでクルクルと畳んだ傘を傘立てにポンと入れると、人影に反応し、自動ドアが開いた。店内はピカピカしていた。昔から在ったものを改装してピカピカなのか、掃除が行き届いているからピカピカなのか、二日酔いの自覚がない光は判断できずにいた。二足入れられる下駄箱に鍵がある。履物をしまい、抜き取ったそれはステンレス製。木札で出来たものならば時代を感じるところだろうが、広く大きな店内に伸びる黒くて艶のある梁には年季を感じる。恐らく古い建物をリフォームしたのだろう。暖かいお煎茶を運んだ店員が注文を取る。メニューを開き、光は人気ナンバーワンとシールの貼られた水沢うどんと薬味と二色のつゆに、この辺りで名産の舞茸を使った天婦羅と、かき揚げに、茹でたごぼうと素揚げした舞茸を合わせ酢で合えた小鉢と、切り干し大根の煮物の小鉢のセットを頼んだ。小百合は流石に食べられないわと、かけうどんを注文する。先に届いたかけうどんのお出汁に、小百合の疲れた内臓が喜んでいる。光は全部美味しいですと言いながら食べ進めるも、二十代の頃の様には食べられない事がとても残念だった。小鉢は二つとも残ったし、舞茸の天婦羅を食べた後に、かき揚げがなかなか口の中にに入っていかなかった。久しぶりの再会の女子旅で、歳も考えずに飲み過ぎた二人は、残してしまって申し訳ないと謝罪しつつ、お会計を終わらせた。「何だかんだと言いながら、共に食が細くなる事を共感できる相手が居るのなら、歳を重ねていくって悪くないですね」と話す光に、小百合は目を細めながら「本当ね」と答えた。
午後の三時に解散しようと高崎駅へと車を走らせる。小百合は国家資格の試験前で猛勉強の真っただ中に時間を作ってくれていた。駅を目指した車の中で、会員はたったの二人だけど温泉同好会を結成しようと決めた。お互いに上手く時間が取れるように落ち着いたら、またどこかのお湯めぐりに行こうねと約束し、車を降りる。荷物を抱えた光は電車で東京を目指して歩き出す。小百合はいつものように改札で光を見送って駅を出た。  

JRに乗った光は、一晩都内で過ごして翌朝の飛行機で帰る事にしていた。列車内でぼんやりと景色を眺めていると、電車の中の群馬県は、都内と何も変わらない様な気がしていた。運転から解放されて電車に揺られ、身軽になった気がしてボーっとしていると、もう上野駅に着いてしまう。忘れ物は無いかと見直して電車を降りる。ここで日比谷線に乗り換えて人形町へ向かう。久しぶりに乗る地下鉄は楽しかった。そうだ、私は乗り物が好きだったんだと忘れていた感覚に触れる。日本橋界隈は歩との思い出で溢れていた。とにかく旅の荷物を下ろそうと、箱崎にあるビジネスホテルを目指して歩いた。箱崎からはリムジンバスが出ているので、ここから羽田に向かうバスに乗ると最短で二十分で羽田に着く。飛行機を使う田舎者には便利な場所だ。理由はそれだけでは無かった。光が都民だった頃、住んでいたマンションがこの側にあったので、この辺りの事なら少し詳しい。都心部のもたらす安心感は、遊びに行こうと思えば、どこでも遊びに行けることだろう。電車に乗れば、どこにだってすぐに行ける。田舎では体験できない、大人の為の大きなアミューズメントパークといった所だ。昨夜飲み過ぎた光はビジネスホテルに入ると、フロントにある荷物置きに鞄を下ろし「こんにちは、鈴木です」と伝えた。端末を操作する女性が答える。
「十七時にチェックインの鈴木光様ですね。こちらに住所とお電話番号とお名前をお願いいたします」手際よく鍵を受け取るつもりでいたが、光が今晩泊まる部屋が喫煙だと聞く。
「ごめんなさい。禁煙のお部屋は空いていないの?」
「はい、ご予約いただいたお部屋が喫煙となっておりまして。大変申し訳ございません」
「あらら。困ったわね。キャンセルするとキャンセル料が必要だもんね」
「いえ、キャンセル料は今回頂かなくても結構です。ただ、多少は感じると思いますが、喫煙のお部屋でも、そこまで匂いが気にならないお部屋もご用意できますが」
お酒が抜けきらない身体で、このチェックインの動作をもう一度やる事を頭の中で思い浮かべた光は即答していた。
「じゃあ、そこにしてください。ごめんなさいね、私が間違えて予約したのに」
「いいえ、とんでもない。それではご案内させていただきます」
フロントと同じフロアの部屋を案内されたのは初めてだったけれど、部屋の中に入ってしまえば、特に何も気にならなかった。閉じた簡易荷物置きを広げると、そこに鞄を下ろした。靴を脱ぎ、使い捨てのスリッパの袋を開けて履き替える。靴用のブラシの用意は無かったが、習慣を抑えられずに洋服ブラシを靴にあてる。着ていた物を全て脱ぎ去り、ベッドに放り投げる。用意されていたルームウェアの袋を開けるとそれを羽織り、掛け違えない様に上からボタンを閉じていく。ベッドの上にあるものをハンガーに掛けながらブラシをあてて片していく。鞄の中から歯ブラシとお化粧ポーチを取り出し、浴室に設置する。淡々とリラックスできる環境を整えると、お湯を沸かしてお茶を淹れた。光は一服すると、テレビのリモコンを握ってそのままベッドに倒れる様に身を任せる。そしてズルズルと布団に潜って目を閉じた。この数年間感じた事のない開放感が、この数日再発していた不眠症を取り除く。五分くらい寝たのかなと目を覚ますと、二時間も過ぎていた。冷たいお水が飲みたいと思った光は、コンビニに行こうと着替えると、鍵と財布を握って外へ向かった。ミネラルウォーターを手に入れると、そのまますぐに部屋に戻る。買って来た水をトットットとグラスに注ぎ飲み干した。もう一度ルームウェアに着替えると、今度はグラスに半分注いだ水をナイトテーブルにスタンバイし、テレビを付けた。東京のテレビは面白い。テレビを見終わると、小腹がすいてきた光は、今度は暖かいうどんのお出汁が飲みたいと思い立ち、ホテルの側にあるうどん屋に向かう。ちくわ天の乗ったおうどんを注文した。腹ごなしが終わってホッとして時計を見ると、二十時を指していた。昨日あれだけ飲んだのに、暖かいおうどんでエネルギーをチャージした光は全く懲りていなかった。翌朝の飛行機があるから、絶対二十三時には帰るんだと決めて飲みに出る事にした。頭の中で(どこにしようかなー)と思い巡らす。銀座、六本木、麻布十番、門前仲町、人形町、八丁堀、箱崎…。頭の中で次々と何度か足を運んだ店の店内を再生する。ピンと来た光は、あの店に行こうと決めた。
茅場町の改札を出て、一番出口から地上へ出る。まっすぐ歩いて一つ目の信号を渡りファミリーマートを左折する。橋を渡ると「霊岸島」と書かれた信号を渡らずに右折する。次の信号とのちょうど真ん中あたりに黒い看板が出ている。イタリア語でアンティコと書かれた白い文字が、夜の街に馴染んでいる。光が初めてこの店に訪れたのは、上京して一年ほど経った頃。下に伸びる階段の横に、真新しいシンプルなメニューが置かれている。階段を下りると、蚊取り線香の香りがした。その煙から祖父母と暮らした家を連想しながら、店内のドアを開いた。なんとなく他の店で感じた厭らしさがここには無い。店名のもたらすイメージに微塵もブレが見当たらない。店主の作り出す整ったセンスは美しい。光は黙ってぼんやりと酒を飲むのが好きだった。明るい性格だと子どもの頃から言われていたが、常々明るい人なんていない。ふとぼんやりしようものならば、すぐにどこか悪いの?と聞かれてしまう。相手の心配した口ぶりに、考えもせずに言いたいだけのその言葉に合わせていたら、誰だって疲れるだろう。そこに光への気遣いはなく、自分の心配をしているだけだと知っている人は少ない。話したくて来ているのか、話したくなくて来ているのか。都内と言えど、その難しい判断が出来るバーテンダーは中々少ない。店主の大木洋二はとても無口で、たまに居るのか居ないのかわからない程空気と一体化する。バーの良いところは行きたくなったら行って、帰りたくなったら帰れるところにある。客のそれぞれが自分のタイミングで過ごせる。それは誰にも邪魔にならず、誰の邪魔もしない。酒場だから、酒を飲まなければいけない訳じゃない。ノンアルコールのカクテルだってある。お店の雰囲気もとても重要な要素だと思う。店主の作り出す空間が、それぞれのカラーを出していて面白いなと思う。集まる客も似た者同士。気楽で過ごせる唯一の空間。それが光のバーを好む理由だった。
この辺りを久しぶりに歩いてみると、光には感慨深い。ここに住んでいたのかと、改めて知る思いがした。田舎では見ない人通りと、何車線もある広い道路を走る高級車。いつでも整っている街並み。乾燥した空気。知らないうちに歩きながら東京砂漠を鼻歌で歌っていた。うどん屋から出て、リムジンバスの乗り場を背に真っ直ぐ歩くとアンティコに着いた。路地を曲がったりするつもりで歩いていた光は、一瞬で狐につままれた気分になった。方向音痴は今に始まったことじゃないと開き直り、階段を下りて店の入り口を目指す。蚊取り線香の匂いがする。四年ぶりに訪れたと言うのに、何も変わらない香りに喜びを味わう。古巣に帰る鳥の気分さえする。店内に入るとマスターがいらっしゃいと声を掛ける。いつものようにカウンターに腰を掛ける。
「光ちゃん、久しぶり。何飲んでたっけ?」
「えっとねー、グレンフィディックのロック」
薄いグラスに四角く透き通った氷、シングルのウイスキーが綺麗に収まる。差し出したマスターは無言で見つめる。一言だけ夫を看取ったのと話す。なんとなく、そんな気がしていたと返答を貰う。そのまま何も聞かないし話さない。時間が氷とグレンフィデックを馴染ませる。甘く香しい香りと店の雰囲気が、看病で築き上げた光の緊張と筋肉の強張りを少しずつゆっくり解してゆく。昔のままの癖で、なんとなく触り心地の良い形をしたカウンターを無意識に撫でていると、あの頃よりも少し渇いている。そうか、時間は世界中で平等に過ぎているんだと当たり前の事に気が付いた。店の扉が開いた。四十代前半に見える一人の男性客と光は目が合った。マスターがいらっしゃいと言いながら、客を光の隣の席に誘導する。
「光ちゃん?」
大木洋二の声に男と光が目を合わす。
「うそ。どうしたの?川上さん、お若くなられて!」
「おー光ちゃん!何してんの!何年ぶりー?元気にしてた?」
近所に住まうこの店の常連客同士の懐かしい再会が、光の渇きを潤してゆく。昔誘ってもらったお祭りで、お神輿は担いだのか?とか、この数年どうしていたとか話しが尽きる事が無い。明日の話しになってふと腕時計に目をやると、ちょうど二十三時を指していた。信じられない速さで時が過ぎる。いつの間にか気持ちのいい塩梅に酔っている。
「マスターお会計して」
そう言って勘定を済ませると、川上さんにお礼を伝え、再会を約束し、またねと店を後にする。微量の霧雨の降る中をぶらぶらと歩いて帰り、部屋に戻り、お風呂で浴槽にお湯を張る。湯船の中で歯磨きを済ませ、しばらくぼんやりした後に身体を洗う。上がってルームウェアに着替えるとホカホカした身体で床についた。翌朝はのんびりと目を覚まし、朝食を食べに行く。手際よく荷造りを済ませ最終チェックをする。リムジンバスの時間まで、コーヒーを淹れてテレビを付ける。優しい時間が流れる。それからチェックアウトを済ませると、徒歩一分の距離を歩きリムジンバスのチケットを買って、指示されるまま乗車の準備が整うまで、行列に並んで待つ。走り出したバスの中から景色を眺めると来て良かったと心から思う。この旅で眺めた景色はどれも違う味がした。バスから降りても羽田ではお土産は買わない。温泉宿から送った物が、明日の朝宅急便で届く手筈になっている。来た時のように飛行機に乗り換え、飛び立った機内から空を少しだけ眺めると、手帳を開き、「めげない!」と力強く書き込んだ。機内サービスのりんごジュースを飲み干すと、そのまま眠った。着陸して荷物を抱え、車に乗り換える。何も考えずにとりあえず家に帰る。自宅に戻ると腰を下ろさずに、そのまま荷物を開きお洗濯の仕分けを始める。明日干そうと洗濯機を回して脱水の前で止めておく。流石に疲れを感じた光はお白湯を淹れた。ソファーで一服してはたと気が付く。
「明日やればいいじゃん。」
何もかもに諦めが付いた光は、沸かした風呂でお湯に浸かる。もう今夜は身体は洗わない事にした。パジャマに着替えると、そのままベッドに寝そべり深い眠りに落ちてゆく。
目が覚めたのは午前九時だった。電気を消す事も忘れて熟睡したのが久しぶりで、ちょっと何が起きたのか分からない様な心地がする。それは、歩との死別で日常を無くした光が、新たな日常を手にした瞬間だった。
不意にずっと分からないでいた歩の最期を思い出した。痩せて小さくなった身体で、もう声も出ない歩が、顔の筋肉を動かして見せる。意思と反して動かない唇。どうしても埋まらないクロスワードパズル。そこに厳しさは無く、柔らかく穏やかな表情のまま、そのわずかな筋肉の動きで微笑んでいる事が分かる。「うん」と頷く光の声が聞こえる方に向かって、何かを伝えようと話している。
「人生を楽しみなさい」
あの人の独特な語り口。とてもゆっくりと言葉を紡ぐ癖。簡潔な言葉。穏やかで聞き心地のよい声。あの一瞬にピッタリとハマり、空いた隙間が塞がった。
「ありがとう。頑張るね」
歩が欲しがった天窓に向かって、光は話しかけた。もちろん返事は帰ってこない。ただ暖かな陽ざしが全身を包み込み、ふんわりと柔らかい毛布で守られている様な気さえする、そんな朝だった。  

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