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高天神城(匂坂牛之助)と長篠城(鳥居強右衛門)

天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)5月16日 武田勝頼、鳥居強右衛門を磔刑に処す。

 天正2年の遠江国高天神城攻めと天正3年の三河国長篠城攻めは、どちらも徳川家康と武田勝頼との戦いですが、大きな違いがあります。

 ──織田信長が加勢したか、しないか。

 三河国長篠城攻めでは、織田信長が加勢して武田軍を倒しましたが、遠江国高天神城攻めでは、遅れました。織田信長が援軍要請を受けたのが6月5日で、6月14日に出陣し、6月17日に吉田に到着しました。6月19日に、遠江国の浜名湖の南端の開口部「今切」まで来た時、「6月18日に高天神城が落ちた」と連絡が来たそうです。浜松城から徳川家康が来て出陣の礼を述べると、織田信長は、兵糧代として黄金を詰めた革の袋を2個贈ると引き返し、6月21日に岐阜に着いたそうです。

 この高天神城攻めの時、援軍(後詰)要請の使者を務めたのが、忍者の匂坂牛之助(向坂加賀半之助光行とも)でした。(高天神城の「伊賀曲輪」には、十数人の忍者がいたようです。)徳川家康は彼に「出陣する。必要な時は青田山で狼煙をあげよ」と言って返したそうです。その後、何度も青田山で狼煙をあげましたが、徳川家康は出陣しませんでした。出陣しても兵数差で負けることが明らかであり、織田信長を待っていたのです。高天神城の城主の小笠原氏助は、徳川家康に見捨てられたとして、城兵の助命を条件に開城しました。城兵は、武田につく者と、徳川につく者に分かれました。徳川についた匂坂牛之助は浜松城に呼ばれました。褒美がもらえるものと思って登城すると、「武田方のスパイ」だとして切腹を命じられました。徳川家康は「出陣すると言った覚えは無い」と主張し、「言った」とする匂坂牛之助を殺害して口封じを図ったようです。

 翌天正3年(1575年)の5月14日、長篠城では軍議が開かれ、徳川家康へ援軍の催促の使者(一説に織田軍が来ているかどうかを見に行く使者)を送ろうということに決まりました。しかし、去年の匂坂牛之助の事があるので、誰も申し出なかったそうです。その時、城主の奥平信昌が「では、『私が切腹し、開城するので、城兵の命を助けて欲しい』と武田方に提案してみよう」と言うと、「私でよければ」と申し出たのが雑兵の鳥居強右衛門でした。以後は皆さんよくご存知でしょう。(学者によっては、雑兵は軍議に参加できないので、架空の創作話だとしています。個人的には、軍議に参加していた武将が「家臣に適任者がいます」と言い、軍議の場に鳥居強右衛門を呼んだのではないかと思います。あるいは、鳥居強右衛門は雑兵ではなく、匂坂牛之助のように忍者であったので、命令されたのでしょう。)


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