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余寒の京都旅「平野神社」一.西鳥居と南門


悲しき哉

またしてもインフルエンサー系の車椅子ユーザーと企業の間で騒動が勃発してしまいました。三年前にコラムニスト伊是名夏子さんがJR東日本と一悶着を起こし、そして今回は中嶋涼子さんのSNS告発投稿でイオンシネマシアタス調布が謝罪する事態となりました。いい方向に社会福祉が進んでほしいのに炎上という形で大きく広がってしまって本当に残念でなりません。


年寄り笑うな行く道じゃ

これはもちろん車椅子利用にも当てはまる言葉です。2024年4月1日から改正障害者差別解消法の施行により障害のある人への合理的配慮の提供が企業や店舗などの事業者に義務づけられることになります。我が地元の京阪電車では鉄道駅バリアフリー料金制度を活用し、枚方市駅などでバリアフリー設備の整備を加速させています。これからは"みんなでみんなを支え合う"ことが日常になる社会へ進むことになります。

中嶋涼子さんのポストを拝見しました。これまで普通に利用してきたサービスなのに突然ダメと言われたら、車椅子とか関係なしにそりゃ誰だって大きなショックを受けますよ。突き放すような言い方をされたのなら今の時代SNSで告発されますわな。イオンは日本有数の大企業であり、介助規定をきちんと定めていなかったことは大きな問題です。もし介助中に怪我をさせたらどう責任を取るつもりだったのでしょう。軽はずみの移動介助はイオン側の落ち度であり謝罪は妥当だと感じました。

一方、中嶋さんの落ち度を申すならば危機意識ですね。館内での緊急事態を彼女は果たして想定していたのでしょうか。速やかに避難出来るよう合理的配慮で作られたのが車椅子スペースのはずです。通常通りの利用であれば避難訓練をしているスタッフの介助により即刻避難できることでしょう。しかし今回のケースは明らかに想定外の利用をされています。スキー場のコース外を滑るようなものです。避難誘導は十中八九後回しにされるでしょうね。逃げ遅れても完全に自己責任だと見られますよ。気の向くままに映画館へ入って好きな席で映画を鑑賞したい。気持ちわかります。でも自由には必ず責任が伴います。

全てが明らかになったわけではありませんが平和的な解決へ導くことはいくらでもできたはずです。国家間はもちろんのこと、個人間においても争いで得をする者は誰もいません。ほとんどが痛み分けに終わります。なぜ介助サービスを突如受けられなくなったのか。じっくり話し合えば少なくとも不快感を覚えることはなかったでしょうし、次回以降も快くイオンシネマシアタス調布で映画を楽しむことができたと思われます。SNSで正義の主張をしたことでイオンから改善と謝罪の言葉を得ることは出来ましたが、今後は馴染みの映画館に行けなくなり周囲の目は確実に厳しくなります。これって果たして喜ばしいことでしょうか。

少しマクロ視点の話をしますが、景気が良ければこんな騒動はそもそも起きませんでした。経営が厳しくて、人件費を切り詰めなければならなくて、最初は善意で快く引き受けたけれども限界だからと、他の映画館へ行くことが最善だと説明したら、その人はインフルエンサーでSNSを使って名指しで非難され、謝罪に追い込まれてたってのが映画館側の大まかなあらすじになります。全設備をバリアフリー化する余裕は今のところどの企業にもありません。不景気って悪循環の塊ですよ。不幸しか産み出しません。

今まではほとんどのサービスが健常者向けでした。でもこれからはみんなが気持ちよく利用できるよう変えていくべきですし、消費者は自分のエゴを押し付けないよう企業側の事情をちゃんと汲み取るべきです。カスハラが社会問題になっています。労働者は消費者であり消費者は労働者であることを決して忘れてはいけません。前述しましたが、京阪電車の運賃体系が新しくなったようにみんなで分け合えばそこまで重い負担にはなりません。本来は税金がそのシステムであるはずなのですがね…。私は政治に関わらない身ですのでその先は皆様にお任せします。

武器を使わなくたって戦争は戦争です。話し合いができるなら話し合いで解決したほうが絶対にいい。平和が一番だよっていう枕話でした。では旅の続きに参りますね。


へいを見てピン💡ときたあなたは間違いなく京都ツウです。


こちらは筋塀すじべいと呼ばれる囲いになります。

古来の日本建築における土塀の一種で、定規筋じょうぎすじと呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀になります。元々は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の土塀の壁面に、その証として五本の定規筋を引いたのが始まりで、そこから定規筋の数が寺の格式を示すようになり、五本線は最高格式を表すものとなりました。


ということで、やってまいりました平野神社。

式内社(名神大社)で二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で現在は神社本庁の別表神社。五本線が示す通り大変格式の高い神社でございます。


平野神社
平安遷都に伴って、奈良の平城京からこの地に移された神社で、祭神として、今木神いまきのかみ久度神くどのかみ古開神ふるあきのかみ比賣神ひめのかみの四柱をまつっている。平安時代中期には、伊勢、賀茂(上賀茂・下鴨)、石清水、松尾に次ぐ名社に数えられた。
桜の名所として名高く、古くから各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約五十種、約四百本の桜が植えられており、「平野の夜桜」として親しまれている。早咲きの品種は三月中旬、遅咲きの品種は四月二十日ごろに咲くといわれ、約一箇月間花見ができる。
歴代の朝廷に大変厚く崇敬され、律令の施行細目を定める「延喜式えんぎしき』で皇太子御親祭とされたほか、源氏や平氏をはじめ諸氏の氏神としてもあがめられた。
本殿(重要文化財)は、寛永年間1624年~1644年に建築されたもので、春日造かすがづくりの四殿を並べ、二殿ずつが「合の間」で連結されており、「平野造ひらのづくり」又は「比翼春日造ひよくかすがづくり」と呼ばれている。南門は、1651年に御所の旧門を下賜かしされたもので、1943年に現在の大鳥居の位置から移築された。
985年に花山天皇が桜をお手植えされてことにちなみ、毎年四月十日には桜祭が行われ、多くの人でにぎわう。

京都市

夜桜で有名な観光名所でありますが、大河ドラマでお馴染みの花山天皇も平野神社に痕跡を残していらっしゃったんですね。荘園整理令といった政策面から女遊びまで歴代屈指の活動的な天皇であられました。右大臣兼家もそりゃ策謀を張り巡らしますよ。もう少し後の時代に生まれていれば後白河法皇並みの院政を敷いて暴れまくったでしょうね。

実は私、恥ずかしながら平野神社のことを京都検定で勉強するまで全然知らなくて初めての参拝になります。


駒札で気になる箇所がありました。"岩"清水八幡宮と書かれていたんです。そういえばわら天神宮の駒札にも白塗で訂正されていましたよね。おそらく昭和の頃に岩から石に表記が変わったのでしょう。

なぜそうなったのか気になったのでインターネットで調べてみました。隈なく探しましたが全然見つかりませんでした。まぁ真相がわかったところで単純な理由の気が致します。


撮影した時期は二月初旬。

もちろん桜の花は咲いておりません。っていうか桜の名所であることは知っていましたが、想像を遥かに超えた光景が眼前に広がっていました。桜の木こんなにあんの!?


わたくし大阪造幣局"桜の通り抜け"を体験したことはあります。もしかしてそれよりもスゴいのでは。調べてみたら造幣局の桜は約140種と圧倒的でしたが、本数は平野神社のほうが60本ほど多かったです。道理で凄いはずですね。

ご覧の通り葉もない状態ではありましたが、少し脳内イメージを膨らませてみました。満開の桜の花が咲き誇り花びら舞い散る中優雅に歩く私。こういう愉しみ方もアリですね。


思いつきの参拝だったので全く予習をしていません。平野神社で知っている事と言えば"夜桜"と"上七社の一つ"と"平野造"くらいです。

きっと南側にも入口があるに違いない。辺りを見渡しつつ歩いていたところ門を発見しました。


両側の提灯に描かれている模様は桜の神紋ですね。


南門
この門は、記録に「1651年御門を建つ。禁裏の旧門を申請ふ。」とあって、御所の御門を下賜いただいた。もと表参道の正面(現東鳥居)にあったが、1942年南門としてここへ移設した。

平野神社

平野神社の本殿は東面になっているんですね。なので表参道は南ではなく東側になります。私が通った西大路通沿いの西鳥居は本殿の真裏なので裏参道ですかね。

元は御所の御門ということで大変価値がありますが、多くの参拝者を受け入れるには若干狭くそれゆえに南門として移築されたのでしょうね。


桜が並ぶ南側から平野造の本殿見れないかな?

これが限界でした。ですよねー。


今回はここまで。次回も引き続き平野神社の境内を歩いていきます。



今回の参拝スポット


追記

note公式マガジンに記事が掲載されました。ありがとうございます。


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