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芸術に必要なもの ーーミケランジェロ「ピエタ」についてーー

 ミケランジェロの「ピエタ(サン・ピエトロのピエタ)」は傑作として知られている。私も死ぬまでに一度見てみたいと思っているが、おそらく私が目の当たりにする事はないだろう。
 
 「ピエタ」は、聖母マリアが死んだキリストの遺体を抱えている姿の彫刻だ。実際に見てもらえればわかるが、マリアは不自然なほどに巨大に作られている。これはおそらく聖母マリアの母性愛の包容力を表現する為だったのだろう。
 
 ミケランジェロ本人は六才の時に、母を亡くしている。私はこの事が彼の心に傷を与え、彼はそこから、母性愛を求め続けた人生を送ったのではないかと考えている。
 
 …こうした観点を拡大すると、「ミケランジェロはマザコンだった」というような言い方になる。ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチもマザコンだったという説もある。
 
 もちろん、「〇〇はマザコンだった」というのは現代人の言い方に過ぎない。過去のある天才がマザコンだと知ってがっかりした、というような人間も現代にはいるだろう。そういう場合、過去の天才の心情の在り方に対して「マザコンかそうでないか」というような貧しい発想しかできない、現代人の立場を嘆くべきであって、「マザコン」である当の天才について嘆くべきではない。私はそう思う。
 
 「ピエタ」に目を戻すと、マリアは穏やかに目を閉じている。この安らいだ表情はレオナルド・ダ・ヴィンチや、ラファエロの絵画にも見られる。女性的なものの優しさ、包容力といった情念と、宗教的な神々しさとが交わった表情だと私は考えている。
 
 ルネサンスという時期は周知の通り、人間性が解放された時代だった。とはいえ、実際には、人間性といったものははっきり意識されていたわけではなく、ルネサンスの時代には相変わらずキリスト教が社会の中心軸としてあった。
 
 ルネサンスの絵画や彫刻では、人間の肉体性、肉感性といったものが強調されている。「ピエタ」のキリストの痩せた体は、生々しいリアリティを持った形象だ。その姿を包み込むように母のマリアはキリストを手に抱いている。
 
 マリアは、息子の遺骸を抱いているが、彼女の表情は穏やかで、安らいでいるように見える。これには宗教的な結論があるのかもしれないが、私は自分の考えを書いておきたい。
 
 マリアがキリストを抱きながら、母としての苦痛、悲惨に顔を引きつらせていないのは、彼女はリアルな女性でありながら同時に、女性の持つ優しさ、愛、包容力といったものを無限に、精神の方向に拡張され、それ故に、マリアはキリストを抱きながら穏やかであるのだろう。マリアはキリストが死の後に救われるのを「知って」おり、また、彼女自身がキリストの遺骸を抱いて、彼を「救う」存在でもあるのだろう。
 
 「ピエタ」に見られる美しい調和とは、リアリティのある人間的な遺骸、つまりキリストの傷ついた肉体がリアリスティックに彫刻されているという事、そして、それを抱きかかえるマリアは、現実の母であると共に、我が子を救う神的なものを付与された存在ーーそういう、現実性と理想性とが見事に融合している姿に求められる。
 
 これを作者であるミケランジェロの立場から眺めてみよう。現代の我々から考える時、ミケランジェロはただの「マザコン」かもしれないが、それは現代の我々がそのように極めて貧しい観念的道具しか持っていないからだ。
 ミケランジェロ自身は、母を恋い求める自らの激情をあのように美しい形に昇華してみせた。要するに、彼こそは芸術家であったのであり、彼は、自らの中に、他の誰彼も平気で持っているような感情を、宗教的モチーフに託して美しく作り上げたのだった。
 
 ここで強調しておきたいのは、「ピエタ」は片方には肉感的、官能的な表現を持っているという事、しかし同時に、もう片方においては宗教的な、神的な要素を持っているという事である。宗教的、とここでいう事は、人間精神の無限なものへの憧れ、とでもいうように解してもらいたい。
 
 肉感的、官能的といった事柄は、純粋な宗教性からすれば堕落でしかない。ただ、芸術というものを中心に考えるなら、こうした官能性を抜きにして芸術創作は不可能だ。
 
 神に捧げる音楽を作ったバッハの場合を考えてみよう。バッハの音楽は神に捧げられており、神が気にいるような美しい作品でなければならなかった。しかし、この事は同時に、音楽それ自体が美しい官能性を持っているという事であり、神なしに、ただ音楽に陶酔する事も可能であるという、後世の堕落の可能性も含んでいた。要するバッハにしろ、ミケランジェロにしろ、彼らは時代的には、前代の宗教性と、後代の堕落(肉感性)が、危ういバランスで融合してた偉大な芸術家だった。
 
 実際、現在の我々は神の事は忘れてバッハを聴く。バッハの音楽にうっとりする事ができる。しかし、うっとりする事、陶酔する事だけが目的となった音楽においては、現代の流行の音楽のように、早いテンポ、機械的なリズムで、内容を一切抜きにしてただ感覚を麻痺させ、瞬間的に官能を味わわせるだけのものになってしまう。
 
 最近の日本ではAV女優が人気らしい。AV女優がアイドルのような人気を持っていて、スターのような扱いをされている。もちろん、これは「神」というような理想が完全に抜け落ちて、官能性だけが主になった現代人の心性をよく表している事柄だ。これら全ての現象は間違いなく低俗なものであるが、とはいえ、芸術の構成にはこうした低俗なものも必要である。しかし、低俗なものだけでもやはり芸術は作れない。
 
 肉体的な官能性、それ自体が「神」となった現代のような時代は間違いなく堕落した時代であり、このような時代の芸術は低俗であり、そもそも芸術の名に値しない。とはいえ、宗教的な心性があまりにも強い時代において、偶像崇拝は徹底的に禁止され、神性は、人間の肉体性とは全く違うものであって、それを人間的に描く事は許されない、という時代においてもまた、やはり芸術作品は現れ得ない。
 
 芸術は神的なものと人間的なものとの狭間に現れる。そういう意味では、例えば、現代のアーティスト、ミシェル・ウエルベックとか、ミヒャエル・ハネケのような人は、神性の喪失を辿り、人間の無力さを描く事で逆説的に神的なものへと至ろうとしている努力であると見る事ができる。
 
 とはいえ、それら優れたアーティストにおいても、やはり過去の、神的なものと人間的なものとが調和していた時代のような作品を作るのは難しい。それらはもう過去のものであり、今生きている我々が、過去の良かった部分だけを取ってくるのは不可能だ。現在は、肉感的な官能性だけが絶対視されている時代でおり、こういう時代には「芸術」はそもそも難しい。
 
 しかし低俗なものを偉大なものだと履き違えるという錯視が、我々の生の低俗性を救ってくれると人々によって信じられている場合には、芸術というものが全然存在しない世界においても、芸術を称する作品が乱立する事はありうるだろう。それは聖女が売春婦に取り替えられる時代である。とはいえ、この文章で強調して書いたように、売春婦と聖女とが芸術の創造には『共に』必要なのである。芸術というのはそういう宿命を抱いている。

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