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メディアの上にしか存在しない人間

 先日、サッカーのアジアカップがテレビでやっていた。以前は私もサッカー日本代表が勝ったか負けたかで熱狂していたが、今の自分からすると他人事にしか感じなかった。
 
 例えば、サッカー日本代表の監督の采配が悪くて(そう感じられて)、チームが敗北すると、ファンは怒り狂う。まるで、自分自身が敗北したのは、誰か他の人のせいであるかのように。以前は私も同じように憤っていたし、今だって、その気になれば憤る事ができる。
 
 しかし考えてもみて欲しいが、どうして「他人」が行うゲームにこんなに熱狂するのだろうか。アジアカップを見ながら私が考えたのが、人々はそもそも「自分」というものを完全に失っており、失った自分を補填する為に、画面越しの誰彼に「自分」を代理してもらっているのではないか、という事だった。
 
 考えてもみて欲しいのだが、仮に自分自身のしている事、自分の人生に熱狂しているのなら、画面越しの他人の姿にそんなに熱狂しなくても良いはずだ。自分というものに集中しているのであれば、サッカー日本代表が勝とうか負けようが、それほど気にならないはずだ。
 
 だが、我々のうち、「自分自身の人生に熱中しているから他人のゲームに興味はない」と心から言える人がどれくらいいるだろうか。我々はテレビタレントのスキャンダルを好んで取り上げ、あれこれと言いたがる。擁護したり、批判したり。どうして、その人は、我々にとってそんなに大切なのだろうか。
 
 というのは、我々は、そもそも我々自身を失っているからだと私は思う。少なくとも、私は自らを省みて、そう感じる。私は存在しない。そして確実なのは、その感覚だけだ。
 
 ※
 近代はデカルトの「我思う故に我あり」という単純な思考から出発した。主体の産出、絶対に確実な真理から事を始める事。理性と主体という近代のメインキャラクターがここからスタートした。
 
 ところが、今や、繁茂する「我」が溢れてしまって、私は世界のどこにも自分を見出す事ができない。「私は存在しない」。今や、この感覚しかなくなってしまった。
 
 代わりに存在するのは、「我」が多数集合して、一つの塊となり、これが支持し、賛美する少数の選ばれし人々、彼らだけが「存在」するという事になった。
 
 ところが、実際には彼らもまた透明な存在に過ぎない。彼らもやはり「自分」はない。彼らは固まった大衆の傀儡として、指示通りに運動しているに過ぎない。人々は自らの欲望を結晶化した空虚を礼賛、崇拝しているのだ。
 
 この空虚な構造で、人々はただ自分を得ようとして、多数者からの「フォロー」や「いいね」を得ようと四苦八苦する。彼らはそうして失われた自分、多数者の中に飲み込まれて消えた自分を再獲得できると思っている。
 
 ところが、彼らがそれを成し遂げると、もはやそこに自分が望んでいたものは存在せず、あるのはただ人々の視線によって作り上げられた「自分」というロボットでしかない。
 
 こうした事を認識できない「タレント」というのも存在する。彼らは「自分」が売れっ子になったと勘違いする。彼らは「自分」が大衆から望まれて、崇拝されていると勘違いする。こうしたタレントは調子に乗ってしまい、ロボットとしての役割を逸脱して、やりすぎてしまうので、大衆のおもちゃである資格をいつしかなくしてしまう。
 
 大衆が望んでいるのは「その人」なんかではない。大衆は人間に興味を持っていない。人間の中の深い内実、内面、人生の航路、そういうものに興味を持っていない。彼らはただ、自分達の欲望を結晶化する道具としてのロボットを必要としているに過ぎない。
 
 人々が望んでいるのは、画面の上で踊っているその人の「イメージ」でしかない。イメージは実在ではない。虚像だ。そしてこの虚像が、実像になろうと努力すれば途端にその人間は用済み、おもちゃたる資格を失う。
 
 ※
 画面の上の虚像を我々が必死にあれこれと言いたがるのは、そうする事によって、「世界性」に参与しようとするからだ。失われた個別性をそこで復活させようとしているのだ。
 
 そもそもで言えば、人が生きるには、適切な共同体が必要となる。その共同体の成員である事で、人は自らの充実を感じられるし、自分自身が世界の一部であると感じられる。
 
 もちろん、この共同体は同時に、束縛でもある。というか、我々はそういう共同体を束縛と感じて、ひたすらそういう共同体を廃棄し続けた。より自由に、より平等に、というわけだ。
 
 その結果として我々は全員、孤独になった。原子論的個人となって、市場をさまよう一個の「労働力」となった。一人の人間は、ほとんど無でしかない。
 
 この無は世界のほんの片隅で弱く、縮こまっている。しかし便利な事に、ありがたい事に、相互発信できる、インターネットというメディアができたのだった。これによって卑小な個人も、世界全体の陰謀がどうであるとか、世間を騒がすタレントがどうであるとか、要するに「でかい事」が言えるようになったわけだ。
 
 最初に言った「世界性」とはそういう意味だ。これから世界がもっとグローバルになり、もっと人間が自由になり、国境を越えてどこにでも行って、誰とでも会える、そういう「自由」が今以上に実現すれば、我々ひとりひとりはもっと卑小で、もっと無意味で、孤独な存在となるだろう。
 
 そうなれば、おそらくは日本国内で有名人である事などは何の意味もないカスのようなものでしかなくなり、代わりに世界全体から礼賛する一部の人間だけが神のごとく君臨する事になるだろう。世界中の人々の視線を集めて。
 
 ※
 サッカー日本代表が勝ったか負けたか、お笑いタレントのスキャンダルがどうか。我々がそれを重大な事と認めて、あれこれと言いたがるのは、それだけが我々にとっては存在しているように思われるからだ。
 
 我々は人生において、全く存在していない。それだけが確実だ。存在しようとするやいなや、すぐに他者との比較が視野に入ってくる。どれくらい金を稼いでいるか。どれくらい有名か。どれくらい恋愛をしてきたか。全てが「数値」「量」に還元される。
 
 存在とは量ではなく質だ。ところが、その質が存在しない。100のうちの88が「自らは存在する」と言うのは滑稽だろう。存在するのはただ100という量でしかない。その隣に101が現れれば、さっきまで礼賛されていた100はもうどうでも良くなってしまう。
 
 我々はメディアによって統合し、他者と自分を比較し、自分を卑下したり、あるいは尊大になってみたりする。「イチローが◯才の時には、自分はこんな事しかしていなかった、情けない」などと言う人間がいる。
 
 情けないのは、イチローに比較してその人が「駄目」だからではない。その人が情けないのはイチローと自分を比較するという視野を当たり前のように受け入れてしまっているからだ。自己がないからだ。
 
 ではイチローは存在しているのだろうか? 笑うべき事だろうが、あれだけ神格化されていたイチローは、その「上位互換」である大谷翔平が出てきた事で、影が薄くなってしまった。もうイチローはいらない。次が出てきたから、というわけだ。代わりはいくらでもいるらしい。全てが量であるのであるのなら、いくらでも比較はできるし、いくらでも代わりはいる。野球というのは徹底的に数値化されたスポーツだ。
 
 ※
 最後に私自身について触れておこう。私の「小説家になろう」のフォロワーは178だ。そして一つの記事を投稿すれば、アクセス数はせいぜい百から千といった程度だ。これではとても「存在」しているとは言えない。
 
 存在しているとは膨大なフォロワーがいて、本が書籍化され、またその作品がアニメ化される事を意味する。
 
 しかしそういう人達も次から次へと代わりが出てくるので、すぐにその存在が消失してしまう。この世界で存在するのはどうやら大変な事らしい。
 
 全てが数に変換されるのであれば私の戦闘力は178という事になるだろう。これでは、戦えない。しかし、戦ってどうなるのか。その戦いとは一体、何なのか。
 
 この闘争に勝つために、昔なら「恥かしい」と言われていた事を必死にやる人達が大勢いる。彼らは、ビンチョル・ハンの言い方を借りれば、徹底的に自己を搾取している。自分というものを絞り、そこから出たカスを世界に売り渡そうとしている。
 
 だが、いいではないか。それの何が悪いのだ? …そんな声がどこからともなく聞こえてくる。確かに、そうだ。そもそもで言えば、その人間は私と同じように全然存在していないのだから、存在していない自分をカスカスになるまで搾り取って、絞りカスを人々に買い取ってもらって、金という純粋な数量を手に入れる。それは、決して悪い事ではないだろう。
 
 そもそも存在していないのだから、自分を売っぱらって、金に変える。そして金は商品に変わる。存在するのは商品と金が流通する「世界」だけだ。
 
 「世界」だけが存在して「自分」は存在しない。堪えざる自己主張、主体の強調は今や、世界全体が一つの蠢く主体となった事によって、消失してしまった。あるのは集塊だけだ。あるのは溶解した、巨大なスライムの如き世界という名の物体だけだ。
 
 その一部である"私"は、この世界に存在しているとは全然感じないし、生きているとも思わないし、日々はただスクリーンを眺めるか、自己搾取という名の労働をするか、その両極で分解され、浪費されていく。これを"生"というのは、そもそも生に対して失礼だろう。
 
 さて、そんな私は今日も不在の私を充填する為に、スクリーンを凝視し、画面の中のタレントやアイドルやスポーツ選手や、他のなんやかやに自己の代理をしてもらう。私は熱狂し、声を荒げ、その瞬間だけ微かに自己が回復したかのような幻影を抱く。
 
 だが、画面の電源を落とすと、もう私は自分という"無"と向き合わざるを得なくなる。それで、私の部屋は一日中、どこかしらの電気がついている。私は孤独が好きなのに、自分自身である事に堪えられないのだ。
 
 私は自分の不在を感じない為に、いつも画面を通して世界と関与する。そうして私は少しでも自己があるかのような振りをして、ほんの少しばかり安心して、眠りにつく。
 
 …こうした存在に私は"人生"があるとは思わない。しかし、この存在が人生を行おうとすると、自己を復活させようとすると、人々が合理的にこしらえた巨大な世界機構の中に入っていく事になり、そこで私は私自身の無、無の感覚さえもなくしてしまう事になってしまう。
 
 私は、「自分が存在していない」という感覚すら消してしまわなければならない(そうなるとむしろ自分が"存在"しているかのような感覚になってくる)。
 
 もはやこのような存在は、生きているとすらも言えない。というか、このような非ー存在を何と呼べばいいか、それが私にはわからない。全然、わからない。

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