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若者に異常に媚びる社会

 以前から感じていたし、私以外も指摘している事だが、どうしてこの社会は「若者」を異常に尊重するのだろうか。
 
 テレビニュースでは「渋谷の若者に聞いてみる」という映像を当たり前のように流している。渋谷の若者に聞いたから何なのだ、とこっちは思うが、「渋谷の若者」は特別らしい。
 
 若者の異常な尊重というのは、若者の方でも気づいていて、恐ろしく無知で愚かな若者が自信満々だったりする。彼らは自分達でも、自分達の優越性に気づいている。
 
 若者の中でも特に尊重されているのは綺麗な女の子で、この社会ではそうした女の子が一番尊重されている。とはいえ、そうした存在は花がすぐに萎れてしまうように、一時的な「華」であるのも事実で、そうは長く続かない。若くて頭の切れる女子などは、そういう自分の状況を利用して、若いうちに最大の利得を得ようと努力している。
 
 「老害」という言葉が流行っている。確かに、人口比で言えば中高年の数が若者よりも多いので、彼らが社会の主要な位置を未だに占めており、若者が思うように社会に進出できないという状況があるだろう。それはわかるが、それにしてもあまりにもストレートに「老害」という言葉が言われすぎているように私には思われる。
 
 困った事には、年を取った人間も、それ相応の年輪というか、人生経験とか、独自の価値観とか、要するに年齢を重ねた事によって現れてくる人間的な厚み、そういうものを感じさせる人はほとんどいない。極端な話、この世界においては中高年も老人もみな若者なのだ。みんなが若者ならば、本当に若くて、元気があって、見た目がいい若者を称賛しておくのが吉であろう。若者は、妙な話、若者社会の代表なのだ。
 
 どうして、人はまともに年を取る事が不可能になったのだろうか。私のまわりを見ても、権威を振りかざす「大人」は沢山いるが、権威に見合うだけの人間的成熟や、見識の深さを見せてくれる人はほとんどいない。どうしてこんな事になっているのだろうか。
 
 理由ははっきりとはわからない。なので、思いつく事を書いてみる。一つには社会の変化があまりにも速い、ある知識や経験を蓄積しても、次の世代にはもう意味がなくなっているという事。昔のように、三代続いて同じような生活をする、という事がなくなり、親と子、子とその子供では、生きる環境が素早く変化していく。
 
 それ故に、親が得た人生経験や豊富な知識が、次の世代ではもう活かす事ができない。インターネットやパソコンの知識について考えれば、わかりやすいだろう。
 
 世界の変化はあまりにも目まぐるしく、速いので、ついていくのは用意ではない。若者は、それに自然についていく。というのは、彼らが生育する環境それ自体が勝手に、社会のリアルタイムな在り方を表しており、彼らはそれを自然に吸収するからだ。
 
 人というのは、青春期に過ごした環境や物の見方に固執するらしい。老齢期になると、もう青春期の自分の考え方や認識が古くなっているにも関わらず、未だにそれに固執しようとする。もう自分の在り方は古びたものになっているのに、今更全てを変えられない。逆に考えれば、若者は若くて新しいのではなく、ただ古びる手前にいるだけ、とも考えられる。
 
 こうした社会においては成熟も成長もない。時間的な成熟というものが考えられない。親の言っている事は子供には通用せず、かえって親は、新しい社会環境について子供から教えられなければならない。スマートフォンの使い方を教わる親などはその好例だろう。
 
 大人が大人ではない社会においては、若者が社会の代表になる。しかし若者は、すぐに若者ではなくなるので、テレビタレントのように次々と取り替えられる。ただそれだけの事だ。どっちにしろ、まともに時間的成熟を積み重ねた人間はどこにも見つからない。
 
 ※
 「若者に異常に媚びる社会」というタイトルで書いたのに、それを肯定するような内容になってしまった。まあいい。このまま話を続けてみよう。
 
 私自身は、自分の若い頃はとてつもなく愚かだったと思っている。しかし、若者が愚かでなければ、その後に賢くなる事もできないから、正当に「愚か」だったとは思っている。
 
 変に聞こえるだろうが、私は若者は全員愚かだと思う。おそらくこう言うと、「東大生はどうなのか?」とか「藤井聡太はどうなのか?」とか言う人が現れるのだろうが、もちろんそれらの人もひっくるめて愚かである。というか、若者は愚かではなければならない。若者が愚かさをくぐり抜けずに、大人になる事は、最悪の若者の過ごし方ではないかと私は考えている。
 
 それでは「若者は愚か」とはどういう事か。簡単に言えば「知らない」という事である。世界の事も、人生の事も、知らない。にもかかわらず、知識を頭に詰め込んで「知っている」ように思う。これが「愚か」だと思う。
 
 それでは、愚かな若者は年をとって、賢くなるのか。全ての愚かな若者が賢くなるわけではないが、一部の人は賢くなると私は思う。
 
 では、どのように賢くなるか? 私はこんな風に考える。愚かな若者は、年を取り、様々な経験をする。根本的に言えば経験の経験をする。単に、恋愛や仕事や友情や犯罪を経験する、と言いたいわけではない。それらは表面的な事柄に過ぎない。人は「時間」を経験する。事物に対する自己自身が存在している状態を知る。それが私が言いたい「経験」というものだ。
 
 人はそうして年を取る。人生とはこういうものであったか、と思う。しかし、これは他人には容易に伝えられない。恋愛について、仕事について、武勇伝、色々な知識、様々な事を他人にいくらでも語れるだろう。しかし、自分が経験の経験をした、つまり時間を経験したというのは、他人には伝わらない。
 
 このあたりは、言う事が非常に難しい。なので、一つの例を出してみよう。私は先日「確信する脳」という脳科学の本を読んだ。そこに非常に面白い事が書いてあった。
 
 著者の母親がもう亡くなりそうになった頃だ。母親は高齢である。著者は、学者なので、知りたい欲望を持って母親に質問する。
 
 「お母さん、あなたはもう十分長い時間生きたでしょう? その長い時間で、何かこう、人生の秘訣とか、人生の本質とか、そういうものを掴んだんじゃないですか? そういうものはわかりましたか? 時間はあったんだから、何かわかったんじゃないですか?」
 
 著者がそう言うと、母親は簡単に答える。
 
 「そんなもの、どうでもいいわ」
 
 著者は執拗に食い下がる。
 
 「…お母さん、適当に答えないで。ちゃんと答えてください、お願いだから」
 
 「…あら、『答え』なら、今言ったじゃない」
 
 母親はそう言ったそうだ。私は、この落語のような問答がひどく気に入った。
 
 説明するのも野暮だが、要するに、この母親は長い時間、人生を生きてみて、「人生の秘訣」とか「人生の意味」なんてものは、実際の人生においては「どうでもいい」という事を学んだのだ。それが彼女の出した「答え」だったわけだ。
 
 だが、この答えに価値があるのは、彼女が長い時間、人生をかけて知ったからこそなのだと私は思う。だからその答えには実感が籠もっており、一つの意味を世界に放散しているのだと思う。
 
 若者は、この答えをおそらく取り違える。賢い(それ故に愚かな)若者ほど、答えを取り違えてしまう。私自身もそんな若者だった。若者は、こんな風に考えるだろう。「なるほど、確かにそうだ。人生の意味なんてどうでもいいんだ。人生はそういうものなんだ!」
 
 だが、若者は間違っている。若者が掴んでいるのはただの正しい解答に過ぎない。学校のテストでは百点かもしれないが、人生という難問の中ではゼロ点だ。彼はまだ人生を十分に生きていない。人生を生きた上で生まれてくる答えと、生きる前に、概念として捕まえた答えとでは、意味内容が違ってくる。
 
 しかしこの意味内容の違いはある程度、自らの中に深さを持った人間しか理解できない。愚かな人間は、愚かな人が出した紙の上だけの答えを正しいものだと思い込む。彼らは言葉の背後にあるものを決して洞察できない。彼らは自分達は正しい答えを握っていると勘違いする。
 
 しかし、この手の概念人間、頭脳人間を説得するのは非常に難しい。彼らの結論としての答えはいつも正しいからだ。正しい答え、あるいは間違った答えの中に人生の様々な経験の重みが眠っていると言っても、彼らには通じない。彼らにとってあらゆる言葉は、テストの○×のように、単なる答え、単なる概念、ただの観念に過ぎないからだ。
 
 ※
 話がズレたが、そんな風に若者は「愚か」であると思う。若者は、何も知らない。が、若者が優秀であったり、人より抜きん出たりする事は可能だ。天才である事すら可能だ。それでも、若者が「賢く」なる事は、私は不可能ではないか、と思う。賢くなるには年齢が、時間が必要だ。時間を感じる事が必要だ。
 
 人生というのは馬鹿馬鹿しいものだ、と言ってみても、人生は素晴らしいと言ってみても、とにかく人生を生きて、生き抜いてから結論を出さなければならない。
 
 そして人生というものが全く唾棄すべき、およそこの世でもっともくだらない、世界のゴミ溜め以下の産物だと、ある人が結論したとしても、その結論はやっぱり、そうした人生を実際に生きてみないと得られない答えであるはずだ。という事は、「人生には何も意味がない」と結論した人が生きた人生も、やっぱり何がしかの意味は存在したのだ。
 
 私は時間というものはそんな風なものであると思っている。「ドン・キホーテ」の主人公は長いあいだ、迷妄に取り憑かれ、死の手前で、一瞬だけ夢から覚める。それまで、彼はずっと夢を見ていた。ずっと、幻想の中をさまよい歩いていた。
 
 物語の最後で彼がその事実に気づき、自らの無知と愚かさに涙を流したとしても、その涙は人生を生き抜いた上でないと得られない涙だ。私はそう思う。「人生に意味はない」という言葉に意味を吹き込むのは、その人間が無意味な何十年という人生をなんとか生き抜いたからなのだ。
 
 そういう意味において、若者は、人生を経験する為の準備をしておかなくてはならないだろう。準備とは何かと言えば、たっぷりとうぬぼれている事、愚かである事、馬鹿であるという事だ。幻想に取り憑かれている事、自分だけは特別だと勘違いする事。そうした事が若者のすべき事ではないかと思う。
 
 若者は大人になるにつれ、自分の全てを破壊されていく。破壊されていく引き算こそが人生だ。だが、全てを差し引いて、最後には自らの死しかなくなった時、彼は自らの人生を振り返って、この引き算の総計が人生の意味だった事を知る。彼はその時「賢く」なったのだ。私はそんな風に考える。
 
 だが、これは上記書いたように、容易に他人には伝わらない真実であるがゆえに、この言葉そのものに到達するにはまた長い時間が必要である。そういうところに、時間の成熟というもの、時間の積み重ねというものがあるのではないだろうか。
 
 現代の社会が若者にやたら媚びているのは、この社会には根底的に「時間」が存在せず「空間」しかないからだ。それ故に、「時間」の欠けた存在である若者をできるだけ持ち上げようとするのだ。
 
 この社会そのものが未成熟社会である。この社会そのものが成長不可能社会である。だから、こうした社会において「成長」するとは、世界の中を逆行するような、奇妙な体験となっていくのではないか。

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