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空港

 私は空港職員をしている。年齢は56才だ。

 私が空港職員を志すきっかけになったのは、二十代の頃、当時付き合っていた彼と一緒に行った海外旅行だった。もっとも、私の旅行は、旅立ちの空港でほとんど終わっていたと言った方がいいだろう。

 私達は空港に行った。私は空港で、夕日を見た。大きな通路を歩いている時、滑走路の向こうで輝く夕日を見た。つまらない事に思われるかもしれないが、私はその風景にひどく感動した。彼は、じっと夕日を見つめている私に「何してるんだ、急がないと」と言った。私は「ちょっと待って、一分だけ待って」と言った。そうして一分間、夕日を眺め続けた。

 夕日はガラス窓の向こうだったが、灼熱に燃えて沈んでいくそれは、確実に私の中の何かを打った。あるいは、滑走路を飛んでいく飛行機の存在も琴線に触れたのかもしれなかった。それは、どこかへ向かって旅立っていき、そして二度と戻らない(私にはそのように感じられた)何かと、一日、空を照らす役目を終えて、地平線の向こうに震えて沈んでいく太陽とのコラボレーションだった。その風景は、私に、全てのものはいずれは終わるのだという当たり前の事実と、また、同時に人はいつでもやり直せるのだという矛盾した真実を教えた。いや、それは私が勝手にその風景から読み取っただけ事実で、実際には私が望んだようなものは風景の中にはなかったのかもしれない。…多分、そうなのだろう。たまたま、私の中の人生の時期が、風景と独特な形で共鳴したにすぎなかったのかもしれない。ただ私がその風景にひどく感動した事、それだけは確かだった。

 「早く、行くぞ」

 彼に手を引っ張られて、私は歩き出した。歩き出した時には、私はもう既に彼の事も、旅行の事も考えていなかった。私はあの風景をどうやって自分の中に保持すればいいのか、そればかりを考えていた。

 旅行から帰ってくると、私はそれまでやっていた仕事をやめた。空港職員になる為に英語の勉強を始めた。一年後には私は、空港職員になっていた。彼とも別れていた。

 私は、感激した風景のある空港で働き出した。はじめは色々な事に苦労して、これは間違えたかな、と反省した。人間関係や、仕事の辛さといったありきたりな事だ。しかしそれも次第に馴れてきた。馴れてくると、倦怠がやってくる。それでも、私は空港職員を続けた。仕事が辛い時も、仕事に飽きてきた時にも、私の心の中にあったのはあの夕日の風景だった。

 実際には、最初に見た時のような感動が私に再びやってくる事はなかった。確かに、私は毎日、滑走路の果ての夕日を見た。飛行機が彼方に去っていく果てにある、燃え盛る太陽を見た。それでも、それはあの時の感動には遠く及ばなかった。私はその事に特に驚きはしなかった。というよりも、あの時の風景の残り香のようなものとして、私は毎日自分が見る風景を捉えていた。大切な事は気づかないうちに始まっていて、知らぬ間に終わってしまっている。私はその事を嘆きはしなかった。自分が働きたいと思った場所で働いている事を、夢が叶った、嬉しいと、喜びもしなかった。自分の上を流れていく倦怠や労苦とは別に、私の魂は何か自分があるべき場所、いるべき場所にいるという感じを得ていた。…それはただの錯覚だったのかもしれないけれど、私はそれ以上に素晴らしい錯覚を自分は持つ事はできないだろう、とぼんやり感じていた。私にとってあの夕日の風景はやはり、大切な何かだったのだ。

 空港職員になって、年収は半分になった。以前働いていた会社は、給料は良かったし、待遇も悪くなかった。私が以前の職をやめて空港職員になったと聞いて、両親は怒っていた。以前の会社は、父の口利きで入った所だったからだ。それでも私の頑固さに負けて、やがて二人は何も言わなくなった。私は、夕日の件は黙っていた。変人扱いされて終わりだろうと思っていたからだ。

 私はそこで働いた。しばらくして、上司の男性と恋に落ちて、やがて結婚した。子供ができて、産休を取って、育児に専念した。

 私が育児に専念している間に、夫が浮気をした。私は驚いた。普段は優しく、過不足なく家庭生活をしているように見えていた夫が浮気をした事に。浮気相手は私と一緒に働いているアルバイトの女の子だった。浮気がバレると、その子はさっさと仕事をやめてしまった。夫は私に平謝りした。私は、別れようかと思った。…私が育児に専念している時に、浮気するなんて許せないと本気で憤っていた。

 しかし私は離婚しなかった。どうしてだろう。私は彼を許したのだろうか。それとも娘の事を考えたのだろうか。単に私が臆病だったのだろうか。…いや、いずれでもない。私は、どこか、彼への諦念のようなものを持っていた。夫は優しく、また、浮気ができる程度に女を騙せて、仕事もそこそこにできる好人物であったけれど、しかしそれ以上のものは決して持たない人だった。私はそこが気に入っていたのかもしれない。

 浮気されて以降は夫に、強い何かを期待する事はなかった。もともと、男に全てを賭ける女を軽蔑していた事もあったが、浮気されて以降、男はみんなあまり変わらないように見えて、その傾向は強まった。私は彼を許したというより、また一から誰かと関係を作るのを面倒に感じたのだろう。それに、子供を育てる事は私には辛かったけれど、やりがいのある事でもあった。自分では何もできない赤ん坊が少しずつ、言葉を覚え、人を覚え、自立していく姿は私には世界の奇跡のように思えた。こんな素晴らしい事が他にはない気がした。

 その後、子供はもう一人生まれた。私はまた産休を取って子育てに専念した。産休が終われば、私はまた空港職員に戻るつもりだった。

 「どうだ、俺の給料も上がったし、もう職員に戻らなくてもいいんじゃないか? このまま専業主婦になっても、いいんじゃないか。子供の面倒を見るにはそっちの方が好都合だろう」

 二度目の産休中に、夫はそう言った。私は、夫の言葉に逆らう事はあまりなかったが、その時は違った。

 「私は必ず空港に戻ります」

 私は凛とした声で言った。自分でも、あまり聞いた事のない声のトーンだった。夫は面食らったような表情を見せた。夫は、娘二人を良い大学に入れたがっていた。その為には、私が二人について、二人の勉強の進み具合を見た方がいいと考えていたのだった。私は専業主婦になるのを拒否した。私はまたあの空港、あの滑走路の見えるあの通路へと戻るつもりだった。

 時は流れた。娘二人は成長して、上の子は大学を卒業して、IT系の会社に就職した。彼女は婚活パーティーで知り合った相手と結婚した。下の子は大学を卒業したが、就職していない。フリーターをしている。彼氏がいるようだが、この先どうするかは私にもわからない。

 私は娘達が手がかからなくなった頃に、これで一安心とほっとした。二人が学校を卒業して社会に出た時に、ひとつの物語が終わったような気がした。下の子の、大学の卒業式で私は涙したが、それははたして娘を思ってだっただろうか。私はもしかしたら、どこまでも自分勝手な人間なのかもしれない。私はきっと、自分自身のこれまでの労苦を思って涙を流したのだろう。娘は「お母さん、大丈夫?」「お母さん、ほんとにありがとうね」と横でずっと言っていてくれたけど。

 私はそんな風な人生を送っていた。もちろん、こんな風に人生を要約して他人に語るという事はそれほど褒められたものではないのだろう。誰だって自分自身を賢明に生きているし、どんなにつまらない人でも、人生を俯瞰的に眺める事ができれば、色々なでこぼこがあって、それなりに興味深いものであるに違いない。私が、私の人生を特別視するのはただ私が私だから、という以外に理由はない。それをこんな風に語っても仕方ない事だ。

 それでも、私には自分自身について語りたい欲求が生まれてしまうある事柄がある。それは、突然やってきたのだった。下の子が卒業した後、私は胸の一部に硬い部分がある事に気づいた。奇妙に感じられて医者に行ったら、乳癌だと宣告された。

 私は乳癌になっていた。症状としてはかなり進んでいたらしい。両方の乳房に癌は転移していた。わけもわからないまま、検査や投薬など、半年の期間が過ぎた後、私は手術を受ける事にした。両方の乳房を大きく切り取ってしまう手術で、私はその手術を自分にはもうほとんど残っていないと思っていた女としての誇りから、受けたがっていない自分を発見した。それでも、命を助かる為には手術の他ないと言われ、家族からの説得もあり、手術を受けた。

 手術そのものは全身麻酔で行われたので、ほとんど実感はない。目が覚めれば胸は小さくなっていた。切開の後も残っていた。

 手術は成功だった。私は安堵して、家族も祝福してくれた。ちょうどその頃、私の母が他界した。母は手術の成功を聞いてから亡くなったので、私はなんとなく義務を果たしたような気をした。親よりも早く死なないという子の義務を。同時期に夫の母も亡くなり、私達一家はてんてこまいだった。こういう事は、まるで神様の意地悪のように重なるものだ。

 私は再び、空港に戻った。いつもの業務をこなした。二度の産休、そして入院から戻ってきた私を職場は温かく迎い入れてくれた。私は彼らに感謝しないわけにはいかなかった。しかし、彼らの顔に疑問符が浮かんでいたのを私は見逃さなかった。彼らの顔にはみんな次のような疑問が記されていた。

 (日垣さんは収入は十分足りているし、お金に困っているわけでもない。大病で苦しんでいるのだから、この仕事をやめていいんじゃないの? どうして、そんなにしがみついているのかしら? 何かどうしてもここで働きたい理由はあるのかな?)

 彼らはみんなそんな風に私を見ていた。実際、業務内容はアルバイト的なもので、私はずっと昇進しなかったし、どうしてもしがみついていないといけない職場ではない。…私は言っても伝わらないと思って、黙っていた。

 私は、癌はすっかり治ったと思っていた。何か悪いものが自分の体にくっついていて、犠牲を払いながら、それを取り除いた。そんなイメージをしていた。

 職場に復帰して半年ほど経った頃、仕事中に具合が悪くなって、途中で休ませてもらった。私は相当な事がないと、仕事を休んだり、早退したりはしない。遅刻した事も一度もなかった。それでもその時は、体の芯が痺れて、動けなくなった。周囲の人はみんな心配した。「大丈夫ですか? 日垣さん、帰った方が良くないですか?」 アルバイトの子はそう言ってくれた。私は首を振って「大丈夫」と言ったけど、結局、帰る事にした。帰るにも一苦労だった。私はタクシーを使って帰った。

 家についても、私は病魔に思いを巡らせなかった。ただの疲れだと思っていた。(私も年を取ったからな。疲れるのは当たり前だ) そんな風に思っていた。それでも、翌日も倦怠感は出なかったので、私は病院に行った。夫が連れ添ってくれた。

 私は体の倦怠感を医者に伝えた。「そうですか」 若い、眼鏡の医者は無機質な感じでそう言った。「これまで、大きな病気にかかったり、手術をした事はありますか?」 私は、半年前に癌の手術を受けた事を話した。その話をすると、わずかに医者の顔が曇ったのがわかった。「そうですか」 その声は、一つ前の同じ言葉とは違う響きがあった。

 私は検査を受ける事になった。後日に受ける大掛かりな検査だった。(もう癌は治ったのだから、そんな大袈裟な検査はいらないのに)と思っていた。だけど、心の中に一抹の不安があったのも確かだった。

 私は検査を受けた。結果から言えば、癌が転移していた。それも、手術の難しい箇所に転移していた。私は聞いていないが、家族の表情を見るに、どうも余命を宣告されたらしい。医者の口ぶりも、晦渋に満ちたものだった。いくつかの治療法が提示されたが、「これで治ります」とは決して言わなかった。ただ可能性があるだけだった。その先には死しか残っていないのだろう。私は、来るべき時が来た、と思った。

 実を言うと、癌が転移したと知らされた時、私はそれほど悲しく思わなかった。辛いとも感じなかった。むしろさっぱりしたというか、晴れ晴れしたというか、ようやく、王手、チェックメイトがかかって、この勝負から卒業できるという気持ちになったほどだった。だけど、その気持ちは私の気持ちの半分に過ぎなくて、もう半分はやはり、生きたい、生き続けたい、と叫んでいた。

 私は考えた。家族会議もした。家族会議の、みんなの悲愴な調子から、私の命はもう長くないのがはっきり伝わってきた。家族四人で一番明るかったのが、私だろう。

 「妙子、これからどうする?」 

 夫は聞いた。

 「もう仕事はやめて、ゆっくり療養した方がいいんじゃないか。うちには、妙子が治療を受けるだけのお金はあるんだし」 

 私は夫の目を見た。

 「お母さん、お願い、もう仕事はやめて、ゆっくりして。私、お母さんを失うのが怖いの。それに、今はいい治療法があるから、きっと癌も治るはずよ」

 長女が言った。次女は私をじっと見ていた。

 「お母さん、私からも、お願い」

 次女は目をうるませていた。

 …きっとこんな会話から、常識のある人は、私が仕事をやめて、じっくりと療養したと思うだろう。だけど、そうではなかった。私はみんなを引かせる、次のような発言をしていた。

 「ねえ、みんな、お母さんの最後のお願いを聞いて。私…もう知ってるの。私がもう長くない事を。それでね、誰にも死というものはやってくるものだし、それは避けられない事だから、私、最後のわがままを言いたいの。言わせて、お願い。私、最後の死ぬギリギリまで、空港で働き続けたいの。あそこにいたいの。もちろん、体が動かなくなって、邪魔者になったら、おさらばするわ。その時には、諦めて、ゆっくり療養する。だけどそれまで、体が動かなくなるまで、働き続けたいの。あの空港で。あの場所で。私は、働きたいの。…だって、それが生きがいだから」

 「あの場所に何があるって言うんだ? あそこはただの空港だ! 君の業務だって命を賭けてやるようなものじゃない。どうしてそんなにこだわるんだ? あそこに何があるって言うんだ?」

 言われて、私は夕日の風景を思い出した。あそこにはあれがある……だけど、それはとても馬鹿げていて、話せるようなものじゃなかった。

 「お願い。死ぬ前の最後のわがままを聞いて。私、助からないとわかってる。だけど、最後くらいは自分の意志を通したい。体が駄目になって、仕事できなくなったら、すぐに辞めるから。それまでは、あの場所で働きたいの。働き続けたいの。別に何があるわけでもないけど、私はあの場所で、多くの人を見送ってきた。旅立っていく多くの人を。お客さんはみんな、私の事を、あるいはあの空港をただの道具…そうただの道具としか見ないかもしれないけど、私にとっては人生の長い時間を過ごした大切な場所なの。私は、最後くらいはあの場所にいたいの。それに、あそこは風景が綺麗だし…夕日が…だから…そう、だから、私は働きたいの。理由になっていないかもしれないけど、私はあそこに立ち続けたいの。最後の時まで」

 私はそう言った。私が家族にこんな長い話をするなんて、めったにない事だった。家族三人は、私を奇妙な目で見ていた。空気を守れない、ルールを守れない人に対して、私達が投げかける目線だ。それでも、私はめげなかった。私の最後のわがまま。それを私は、貫き通したかった。

 「わかった」

 夫が厳かに言った。諦めた口調だった。

 「わかった。妙子の言う通りにしよう。最後のわがまま。それでいいよ、もう。その代わり、仕事が辛くなったら、すぐに辞めてもらうからな。職場にも迷惑がかかるから」

 「ありがとう」

 私は言った。娘二人は既に泣いていた。次女が泣いて、長女がもらい泣きをしていたらしい。私も危うく泣きそうになって、なんとかこらえた。

 …そんなわけで、私は今日も空港で働いている。

 私は知っている。私の体が少しずつ病魔に蝕まれているのを。幸いにも、痛みはそれほどない。ただ、体が痺れて動けなくなったり、立ちくらみがしたりする事はよくある。顔色が悪い事もある。そういう日は、普段よりも化粧を濃くする。

 同僚は私の事を心配してくれる。「大丈夫ですか?」「代わりましょうか?」 そんな事もよく言われる。でも、最近はそう言われる事も減ってきた。私は、思ったよりもよくやっている。仕事を、よくやっている。なんとか、人並みの業務はこなせている。

 お客様の案内をしていて、急に胸が苦しくなる事がある。体の内側に気持ち悪い虫が這っているような、嫌な鈍い痛みを感じる事がある。体が痺れて、言葉が途切れる事もある。それでも私は仕事をした。私は次第に、痛みや麻痺とうまく付き合えるようになっていた。体の一部に痛みや麻痺があっても、まるでそれを他人事のように扱う事ができ始めた。痛みが私の内側を這っていてもそんなものはまるでこの世に存在しないかのように、お客様に丁寧な案内ができるようになっていた。

 もちろん、こんなものはいつまでも続かないのは私は知っている。医者や家族からは、しょっちゅう、色々な治療を勧められる。こんな風にして働く事は二度とできないようになるけど、おそらくは延命できるであろう、という手術がいつの間にか私に用意されていた。手術が難しい箇所なのに、どうして手術するのか。詳しい事はよく知らない。最先端治療なのか、新しい器具が発明されたのか。私にはわからない。でも、私の決断はいつでも変わらなかった。「ここで働き続ける事ができないなら、私はその治療は受けません」

 職場の同僚はみんな不思議な目で私を見ている。「どうしてそんなに空港で働く事にこだわるんだろう?」と。彼らは私の病の進行具合をうっすらと噂で聞いている。彼らは私を見る。「どうして? どうして?」 私はそれに答えられない。論理的な、確かな回答をする事ができない。

 休憩時間、椅子に座って、コーヒーをすすりながら、いい加減もうやめようかと思う事がある。体が震えだす事もしばしばで、体が、動く事を拒否している、と思う事がある。もういい加減頑張ったじゃないか、もう家に帰ってゆっくりすればいいじゃないか、何を、一体誰の為にあなたは頑張っているのだ? そんな問いが浮かぶ事もある。

 だけど…その度に、私の頭にはあの夕日の風景が浮かんでくる。あの時、この空港で見た、一つの風景。それが私のまぶたに焼き付いている。それは私を動かす。私は、私自身が夕日になって沈んでいくのを感じる。それでも飛行機は滑走路を離陸し続ける。どこに向かって? 一体、何をしに? …それはくだらない、愚かなカップルのハネムーンの為かもしれない。興味本位の観光客がどこかの遺跡を見学する為かもしれない。あるいは立派な学者が会議に出席するかもしれない。あるいは、あるいは……でも、それら全ては実はどうでもいい事であって、何かが始まる事、始められる事が大切なんだ。私はそう思う。

 夕日は沈み、滑走路からは飛行機が飛び立っていく。その風景が私のまぶたには焼き付いていた。

 昔、ゲーテという詩人は言ったそうだ。自分は死ぬのは怖くない。死ぬ事はまるで、太陽が山の裏に沈むような事で、たとえ太陽が沈んでも太陽が消えたわけじゃない。太陽はまた昇り、世界を照らす。それと同じように、ゲーテという人もまた、太陽のように沈んで、そして再びゲーテとは違う誰か、何かがまた東から昇ってきて、世界を照らす。

 私はゲーテみたいな偉い人のようにそんな事を信じる事はできない。それでも、なんとなく彼が言いたかった事がわかるような気がする。私はただ…夕日が見えるこの空港で働いていたい。死ぬ寸前まで働いていたい。私の願いはただそれだけだ。叶うならば、私が死ぬ日には、まぶたの裏にあの日の風景が蘇って欲しい。私はきっとそう遠くない内に死ぬだろう。夕日が沈むように、ぶるぶると震えて、燃えて、果ててていくだろう。私はもうすぐ死ぬ。それが私にはわかっている。それでも飛行機は離陸し続け、到着し続け、夕日は繰り返し、地平線の裏に沈んでいく。そうして私はそれらを前にして、沈んでいく。私の体内をなにものかが蝕みつつ。私は死ぬ。それで、いいのだと思う。きっと私は幸福な人生を生きた。もし死んで、神様が目の前に現れたら言ってやろう。「私はあの風景を前にして生き続ける事ができたのだから、幸せものです」 神様は、きっと意地悪な奴だから、耳をほじりながらこんな風に言うかもしれない。

 「ふうん。それだけ? それだけか? 君の人生は? たった、それだけなのか? それの何が幸福なんだ?」

 私はそれに対してこんな風に言い返そう。

 「ええ。それだけです。私は愚かな女なので、それだけで十分です。私は十分幸福でした。あの空港で働く事ができて。家族の事も、自分なりにやり遂げました。私の人生はそれだけです。私はたったそれだけで満足な人間なのです」

 神様はきっと私に軽蔑の視線を送るだろう。私は…もう何も言う事ができない。あの世に夕日があるかどうかはわからない。だから、この世で夕日を見飽きるまで見ていよう。だけど…私は思うのだ。どこまで見ても、夕日は見飽きる事がないのだ、と。私は死ぬまでこの風景を見飽きる事はないだろう。死ぬまで。私は、もうすぐ死ぬ。それまでは私は空港職員で居続ける事だろう。願わくば、私の最後の日は空港職員という身分であって欲しい。それが私のささやかな願いだ。それが私のささやかな、最後の願いなのだ。
 

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