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「文学=言葉」は世界を変える力を持つか

 出版社は「今こそ文学を」とか「言葉の力」などと宣伝する。しかし、その反対に文学の力は弱まっている。もう文学に興味のある人間はほとんどいない。

 文学を政治にたどり着く為のステップに使ったり、文学を「作家」という職業になる為の手段とする。あるいは違う分野で成功できなかったり、中途半端な立ち位置の人間が、出版社から勧められて、小説を書き、それを「文学」と称する。そんな事ばかりが行われている。
 
 先日、読んだ芥川賞作家へのインタビューでは、インタビュアーが、今流行りの「AI」や、またつい最近起こったばかりの「災害」と無理矢理に関係づけようとしていた。このインタビュアーは、文学にも作品の中身にも興味がないのだろう。しかしこのインタビュアーに対する苛立ちの声を私は全く聞かなかった。
 
 また、「作家になりたくてなった人へのインタビュー」という形で、新人賞を取った作家についてのインタビューも私は読んだ。その記事では、作品の内容にはほとんど触れず、ただ「作家になる事ができた」という点だけを取り上げていた。作品というのはどうでもいいらしい。
 
 もはや「文学」というのは時代遅れらしい。もう誰も興味を持っていない。何せ、「文学」に携わっている人々、玄人である人々が興味がないのだから、誰も興味がないと言ってもいいだろう。時代の状況はそんな風になっている。
 
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 元々、日本近代文学は一部のインテリが狭い界隈で行っていたものだった。志賀直哉や太宰治のように親が金持ちの場合は、親の金を濫費する形で文学を行い、親が金持ちでない場合は、死ぬのを覚悟でやるしかなかった。自殺したり、肺結核で死んでみたり、といった近代作家の運命は偶然ではない。文学はそもそも儲からなかったし、好きな人間が勝手にやるものだった。
 
 今や、「文学」は一部のインテリが狭い範囲内で行うものではない。芥川賞を取ると、大々的にテレビニュースで放映されるし、映画の原作になったりする。もちろん、これは文学に限った事ではなく、それまでは狭い領域で行われた事は、社会の水平化に伴い、一般に大きく開放された。
 
 文学がもし「商品」なら、文学が世界に解放される事によりその「質」も上がっただろう。私はAmazonで商品を買う時、家電製品や日用品に関してはランキングを参考にする。そこでは、多くの人が使って「良い」と思うものが実際「良い」確率が高いからだ。しかし芸術に関してはそうは行かない。芸術とはランキングで決める事ができない世界だ。というのは、そこでは観客にも質が求められるからだ。
 
 全てが接続され、水平化し、少しでも意味あるものは、メディアに取り上げられ消費される。小規模なコミュニティにおいても、その価値観において、より上位にあるのはいつも「メディア」という現代版の"神"である。誰しもがこの神に向かって上昇しようとする。そしてこの神は、多数の人々に開かれており、人々の欲望と常に一致しようとする。そしてそれ以外の全ては何の価値もないと宣言する。
 
 文学というのが言葉の力だと考えると、言葉の力は、ごく一部の小さな界隈でのみ強烈な力を持ってきた。更には、作家の孤独の中で言葉の力は熟成されてきた。しかし今や全てが開かれており、全てが世界に流れ出していくので、文学=言葉の力は、それ自体、自らの中に閉じこもって力を溜める事ができない。
 
 薄い、軽い言葉が緩やかに世界に流れ出て、なおかつ、メディアと結びつけば、現実的な政治力を持つ事も可能だ。もう文学をする場がどこにもない。というより、文学をする意味自体がない。今、文学をする意味があるとすれば、「芥川賞作家」を経由してタレントになるとか、政治家になるとか、そんな事にしか意味がない。
 
 言葉は世界を変えない。言葉には何の力もない。あるいは逆に言えば、言葉は、かつての日本近代文学のように、無力ではなくなった。それはメディアと結びつき、大衆に流れ込んでいき、言葉は力を持つようになった。言葉は現実的、政治的な力を持つ事が可能になった。それ故に、言葉は現実的な力、政治的な力に支配されるものとなった。
 
 小説はただの小説ではなくなった。それは作家になる為の手段となり、自分を世界に売り込む為の手段となった。言葉が世界に対して影響力を持つのが可能になった為に、人々はもはや言葉それ自体で構築された世界に対して一切の興味を持たなくなった。言葉は手段としての力を持つようになった。それによって、言葉は言葉のみによって構成されるフィクションの強度を失った。
 
 今ではエンターテインメント作品の方が遥かにフィクションとしての強度が高い。しかしそれは大衆の好悪に沿う形のみでの強度であって、それ自体の強い力があるわけではない。エンターテインメントは、自立した形式を持っているように人々には見えているだろうが、それを可能にしているのは、作り手が人々の欲望をいつも顧慮しており、それに沿う形でのみ、フィクションが作られているというに過ぎない。
 
 言葉それ自体によって一つの"世界"を構築するという野望は、言葉が現実的な世界と融合し、現実世界の影響を直接に受けるものとなって、消えてしまった。もう言葉それ自体の自立した世界を作る必要はない。言葉は現実を変える為の手段に過ぎないからだ。
 
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 こうして文学というのは消えた。しかし、文学に携わって商売をしている人間がそれがまだあるような振りをする。
 
 文学それ自体が消えても、「文学」という看板を必要としている人々はまだそれなりにいる。それ故、彼らはその看板自体が文学であるかのような宣伝をする。文学を商品化する。家電製品と同じようなものにしていき、それによって一般に文学を広めている、と言う。もちろん、ここでは他の多くのジャンルで行われているような希薄化が行われているに過ぎない。
 
 もはや文学は世界を変革する力を持たない。そもそも、ある文学作品が世界を変える力を秘めるのは、文学が、そもそも世界を変える力を持たない、全く持たないという自覚から起こってくる。逆説的だが、そのように思う。
 
 ダンテが中世全体を彼の「神曲」に収めたのは、彼がフィレンツェの街から追放されたが故に可能だった。彼が現実的に政治家として成功していたなら、彼は決して「神曲」を書かなかったに違いない。
 
 言葉というのは所詮、言葉に過ぎない。ただのフィクションに過ぎない。無力な、黒いインクの連なりに過ぎない。豊かな現実に比べれば、色褪せたただの染みに過ぎない。
 
 だが、言葉がその力を発揮するのは、言葉が全く現実に影響を及ぼす事が不可能であると知られてから後なのだ。言葉は現実から追放される。詩人は世界から捨てられる。だからこそ、詩人は自らの中にあるもの仕方なく、言葉の中に全て注ぎ入れる。もはや現実にはどんな開放口もないから、言葉の中に立て籠もる他ないのだ。
 
 そのようにして作られた言葉だけが、真の意味での言葉の力を持つ。そのような言葉だけが、真に世界を変革する力を持つ。というのは、そのような言葉によって作られた構造物は、世界から疎外され、世界に抗して作られたものであるがゆえに、世界を超越する可能性を秘めているからだ。
 
 現在のように絶えずトレンドを追いかけ、現実的な影響力を競い、他者との関係性の中に完全に解消されてしまう作品群は、現実の一部にはめ込まれて、時間と共に流れていくだけだ。それらの言葉は、現実の中で小さな力を発揮するが故に、現実を超越する力を持たない。
 
 現実を越える力を持つのは現実から疎外され、更にその場所で自らを定立し、現実を越えようとした言葉だけだ。そうした言葉は現在の社会では全く居場所がない。この社会では全ての言葉は社会性を持ち、世界に流れ込んでしまう。それ故に言葉は自らの実質を失う。
 
 世界は全て繋がっており、全くどこにも間隙がないので、世界から追放されるなにものもない。それ故に言葉は世界の一部として絶えず解消され、言葉は世界の論理の一部となり、世界全体を視野に収めるような自らの場所をどこにも持つ事ができない。

 言葉の力は現実と接続する事によって意味あるものとされているので、言葉それ自体によって世界を越えようという欲望はそもそも発生しない。そんな事より、言葉によって世界と癒着して、世界と自己を作品抜きで一体化させる方が、遥かに心地が良いのだ。

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