他人の良心に潜り込まない

 ドストエフスキー「未成年」の中に、次のような会話がある。若きアルカージイと、父親のヴェルシーロフの会話だ。

 「それをもっと早く言ってくださったら! 今だってなにかすっきりしない言い方ですよ」
 「もしわしがもっとまえに言ってたら、わしたちはただ言い合いになっただけで、きみは毎晩こんなに喜んでわしを迎えてはくれなかったろうさ。いいかな、アルカージイ、およそ早めのありがたい忠告というものはーー要は他人の金をつかって他人の良心の中に入りこむようなものだよ。わしもかなり他人の良心の中へとびこんだが、結局は毛ぎらいされて嘲笑われるのがおちだったよ。いちばんわるいのは、この方法ではなにも達せられないということだよ。どんなに一生けんめいになったところで、誰にも聞いてもらえないで……しまいにはきらわれてしまうだけさ」

 ここでヴェルシーロフの言っている事は、ドストエフスキー本人が実際に体験した事だと私は考えている。理由は、私自身も実際に経験している所なので(ドストエフスキーにもこんな事があったのだろうな)と思うからだ。

 ドストエフスキーは「他人の良心の中に入り込む」という独特の表現をしている。これは「早めの忠告」の意味だ。誰かが間違った道に入り込んでも、一歩先に忠告したりはしない。そういうものは意味がない。ヴェルシーロフはそう言っている。実際、私自身もそうした事を体感してきた。


 例えば、悪い男と付き合っている性格のいい子がいるとする。そういう子に、「あの人はやめた方がいいよ」と言っても、それは悪意としか受け取られない。「何か私に恨みでもあるんですか?」とか「あの人が嫌いなんですか?」とか聞かれるばかりで、忠告は無視される。

 だがこれはやむを得ない事でもある。性格のいい子が、性格の悪い男に引っかかるというのはままあるが、性格のいい子は、自分が性格がいいので、相手の性格の悪い面を見抜けない。男は、女に近づく時、自分の悪い面を隠しているので、一緒になるまではいい人に見える。そういう男に引っかかる女性はいる。

 だが、こういう時に「早めの忠告」をしても仕方がない。ドストエフスキーもそういう事を人生で経験したのだと思う。

 私は思うのだが、ある無知の状態に留まっている人に何かを教えるというのは、至難の業というか、不可能だ。くだらないユーチューバーを熱心に応援している人は沢山いるが、彼らに「それはくだらないよ」と言ったら怒られるだけだ。

 今の社会はそんな状況で、愚劣さが「みんな違ってみんないい」という形で肯定されている。だが、愚劣さも一つの存在である。それは認めなければならない。そういう人を頭ごなしにどやしつけても、あるいは穏やかに諭しても、大した意味はない。

 先の女性の比喩で言えば、その女性は自分の無知を自分の人生で償わなければならない。残酷かもしれないが、私はそんな風に考えている。

 それは今の社会も同じであり、この社会が、民主主義の名の元に、自分達の愚劣さを多数決でもって肯定し、批判されまいといくら防御を張ったとしても、その愚劣さを攻撃するのは、他人の意見や批判ではなく、この社会そのものの行く末である。その道程である。

 人は自らの無知を、自分の人生で償わなければならない。私はそう思う。そうして事後には、苦しんだ人生、辛かった出来事が並ぶ。ごく少数の人はそこから何かを学ぶ。学ぶのはいい事だ、と思う。多分、生命の進歩というのはそんな風にできているのだろう。


 学ぼうとしない人間は、学ばない人生の真理を自分の人生で体感せざるを得ない。欲望のない人間は欲望のある人間に啄まれる。悪意を知らない人間は、悪意ある人間に騙される。悪意を自己批判できない人間は、その悪意により他人を害し、やがて他人達から復讐される。そうした道を辿っていく。


 「早めの忠告」というのは意味がない。それが意味があるのは、すでに自分で自分にある程度の忠告を行えている人に対してだけだ。


 

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