ハネケ 「愛・アムール」 感想


 
 ハネケの「愛・アムール」。アムールは「愛」という意味らしいので、「愛・愛」になる邦題がよくわからないのですが、まあ、それは置いておきます。
 
 ハネケという人は、「ファニーゲーム」という作品が知られており、これは史上最強の胸糞映画と言っていいでしょう。(この映画のレビューは既に書きました) 「ファニーゲーム」は家族がただ惨殺されていく話で、他のレビューで言われている通り、「監督が観客に暴力を振るい続ける映画」と言っていいでしょう。監督の強烈な、半端じゃない悪意というのがあって、それが、一応、現代社会の批判になっている事、形而上的な意味を帯びている事にハネケの作家性があるわけです。普通にエンタメで喜んでいる視聴者からすれば、敵以外の何者でもないような、変わった人です。
 
 ハネケには「ピアニスト」という作品もあって、これは恋愛映画風に見せていますが、実は違います。これは反・恋愛映画とでもいうもので、ラブロマンスの形式を模倣しながら、恋愛のおぞましさをこれでもかと見せる反・恋愛映画です。ハネケには「反」という言葉がよく似合う。人間のおぞましさと醜さをこれでも見せつける事に一種の快感を覚えている、超ド変態、あるいは凄く変わった天才です。
 
 ハネケという作品はそんな人ですが、「白いリボン」では、案外真面目な方に舵を切っており、人間の醜さの告発が、歴史的、政治的文脈と紐付いてきて、いつもの悪意が社会的な意味を持つようになっていて(ハネケにしては真面目な作品だな)という印象を持ちました。
 
 それが更に加速した、つまり、良い方向に行ったというのでしょうか、それが今作「愛・アムール」だと思います。ハネケ自身の経験もあるそうですが、それはここでは置いておきます。
 
 「愛・アムール」は、老人介護の話です。老いた夫婦の奥さんの方が、病気でおかしくなり、手術するのですが、手術は失敗。障害も体に残り、少しずつ意識も曖昧になっていきます。それをまだ一応は元気な旦那さんが介護していく話です。
 
 作品の最後には悲劇的な結末になって、この終わらせ方は「いつものハネケ」なのですが、「愛・アムール」だけは、見終わった後、いつものハネケ映画から受ける印象、『非常に嫌なものを見た』という感じを受けませんでした。これは特筆すべき事と思います。
 
 ハネケにどういう変化があったのかはわかりませんが、ハネケは先に言ったように、「悪意の監督」であり、基本ニヒリズム真っ黒な人です。それが直接現れる所にハネケらしさがありました。良くも悪くもハネケ、という感じです。「愛・アムール」でも、確かに作者の悪意は感じられます。ところが、それは現実に我々に起こりうる悲劇……つまり、老いと死という普遍的な命題に、ギリギリ(本当にギリギリだと思いますが)収まっている。ここははみ出しているという人もいると思いますが、僕は収まっていると感じました。ハネケの悪意が、普遍的な悲劇の構造になんとか収まったので、いつもの悪意の生な露出ではなく、優れた悲劇を見せられたという印象を受けました。
 
 このあたりは議論が別れるポイントでしょうが、僕はそう感じました。最後、旦那さんが奥さんに対してある判断をくだし、ある事をするわけですが、この場面は無類に優れている。悲劇として、文学として、物語として非常に高度で、優れている、偉大な場面であると思います。ハネケもここまで来たのか、という感じなのかもしれず、ハネケはここで軟化したと見る人もいるかもしれません。ここは微妙ですが、僕は現代においてあのような優れた悲劇的作品を作れる人はあんまりいないのではないか、というそれぐらいの印象は持っています。そうして、そういう場面を作り上げるには、ハネケの長いニヒリズムの歴史があった、という風にも感じます。このあたりは見当違いの話をしている可能性もあるのですが、「愛・アムール」はちょっと飛び抜けてクオリティの高い作品だという気もしています。
 
 もう少し付け加えると、「愛・アムール」ではミシェル・ウエルベック風に、現代のバラバラに疎外された家族というのも見事に映し出されています。老夫婦の娘がいるのですが、娘は両親を気にかけている、そこには愛があるし、親子愛もあるのですが、同時にどこか冷淡でバラバラ、こっちはこっち、相手は相手、という雰囲気があります。娘は旦那がいるのですが、旦那との関係も似たようなもので、愛がないわけではないが、どこか何かが欠けているという印象があります。
 
 ミシェル・ウエルベックは「素粒子」でそういう姿を残酷に描いていましたが、こちらでは背景として後退しています。ただ、短い描写にも関わらず、リアリズム的にしっかりした描き方で、作品に奥行きが感じられます。この老夫婦はどんな環境にいるのか、娘はどんな人物、どういう生き方をしてきたのか、そういう奥行きが感じられるような描き方がされています。これも文学的に優れていると思います。
 
 という事で「愛・アムール」は現代の中では圧倒的にクオリティの高い作品だったという印象を持っています。ハネケの露悪性がうまく昇華された作品だった。ただ、やはり現代のアーティストなので、雄大なものというのはないし、そういうものは作りえないのが、この貧しい時代の特徴かと思います。ハネケのような人に出会うと、正直仲間に出会ったような感覚、ハネケはあまりにも露悪に流れているとも感じますが、この馬鹿げた時代で何かをしようとしている人だという感じがします。
 
 現代は大衆と、混乱と、騒擾の世界であり、最低のものが最高として祀り上げられ、最高のものが無視され唾棄される、そういう時代かと思います。このような時代においてもこういう人がいるという事は僕にとってはプラスに感じました。しかし、そのプラスは現代ではマイナスの価値として現れる他ない。このマイナスをプラスに変える作業は、次の、我々ではない時代の人々が担っていくという予感がしています。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?