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思考は自由でなければならない

 私は普段、実生活をしている。端的に言うと、労働をしている。
 
 人は学生生活を終えて社会に出ると、自分が世界という名の大きな機械を動かすためのほんの小さな歯車に過ぎない事を知る。自分が極めて限定された小さな存在である事を思い知る。
 
 普通の人間はその事にそれほど不満を抱かない。あるいは彼らも内心ではその事に不満を抱いているのかもしれない。自分という存在を中心に、全宇宙が転回しない事を心の中では嘆いているのかもしれない。
 
 私は毎日のように夢を見る。眠りが浅い人間なのだ。私の精神は絶えず覚醒しようとしている。夢の中では、必ず「私中心」の世界が繰り広げられる。悪夢であろうとそうでなかろうと、夢の世界は私という存在を中心に転回しているが、夢の中では私はその事に疑問を抱かない。
 
 目が覚めると、(ああ、ここが現実か)と思う。誰も私の事は気にしていない。私は世界の歯車の一つであり、仕事に行かなければすぐに電話がかかってくる。仕方ない。私は自らが世界の一部である事を理性的には納得しつつも、心の奥底では、私という自我によって世界を整序したいと願っている。
 
 我々が社会に出て、全体の中の部分である、というのは仕方のない現実である。自分が会社の社長や有名なタレントになれば状況は変わるだろうか? もちろん、変わらない。変わったように見せかける、そうした見せかけがほんの僅かの間、続く程度だ。
 
 何一つまともに決定できない我が国の総理大臣を見ていると、彼が無数のしがらみの中で生きているのがよくわかる。岸田総理は、自分に決定力がないのをよくわかっているのだろう。総理大臣という肩書を持っているにも関わらず、実際には無数の蜘蛛の糸によって絡め取られて身動きが取れない。しかし彼に権力を供給するのはその無数の蜘蛛の糸であるから、これを鬱陶しいと思っても一刀両断できない。
 
 現実とはそんな風にして、無数の諸関係の競合で動いており、どれだけ威張ろうが、謙虚に見せかけようが、どうしようもない現実としてそこにある。もしこれらの関係を否定したければ、自らの生そのものをも否定する気概を持たなければならない。現実の諸関係とはそれぞれの利益の錯綜であり、利益とは生や、生に伴う欲望の成就がその本源にある。自らの生を否定するほどの気概を持たなければ、現実における諸関係を一太刀で断ち切る事はできない。
 
 現実とはそのようなものだが、思考は現実とは違う。そして思考は言葉によって、生み出される。
 
 言葉は強烈な抽象力を持っている。「宇宙」という一つの言葉を考えてみたまえ。「社会」という一つの言葉を考えてみたまえ。そこに以下に多くの要素が凝集されて、たった一言で表されているか。
 
 「宇宙」や「社会」は膨大なものだが、言葉はそれをたった一句の内に、瞬時の内に表してしまう。こうした言葉を操って、観念的な織り糸である種の工作物を作る事……そうした人を、「行為」を人生の至上価値としている人間が侮蔑するのは、ある意味当然と言える。言葉というものの持つ観念的な力があまりにも強すぎるがゆえに、現実の諸関係の中でもがく一個人にはそれらは全て嘘という印象を与えてもおかしくはないからだ。
 
 だが、私のような人間にとって、言葉や思考といったものは、現実によって毀損された精神を補うために必要なものだ。だから、私はほとんど利益などないのに延々とこうして、ネットの片隅でぶつくさと呟いているのだ…。
 
 現実において私は川の上でゆらゆらと揺れる木の葉の一枚に過ぎない。世界はほんの一捻りで私を押しつぶす事ができるし、押しつぶしたところで、その行為を合法化し、正義の名の元に私の存在の倫理性それ自体を抹消する事すら可能だ。私は無力であり、取り替え可能な小さな歯車に過ぎない。
 
 しかし思考は、私の押さえつけられた精神を解放してくれる。思考、言葉、精神、といったものは"絶対的に"自由でなければならない。それはあらゆるものを顧慮していてはならない。あらゆる現実的な絆から解き放たれて、自由に宇宙を思考しなければならない。
 
 そしてその思考があらゆる現実的な党派性を毀損しようとも、思考は自らの独立性と、理性が自らに課す地道な歩みに則って、どこまでも歩いていかなければならない。どこまでも。精神とは絶対的に自分自身でなければならないし、肉体としての自己、現実的な自己を乗り越えて、より先に歩いていかなければならない。
 
 思考や思惟が自由でなければならないのは、人間が不自由な存在だからである。人間は不自由な存在であるからこそ、もっとも自由な存在である精神は自らの可能性を絶対的に延長し、その最果てまで行かなければならない。そしてカントが見たように、その最果てにおいて自らの可能性の限界が見えたとしても、その限界、限界の限界にまでたどり着かなければならない。
 
 思考や精神はそういうものであるし、それ以上に、そういうものであらなければならないと私は思う。自由というのはとどのつまりそういう事ではないか。自由とは、肉体や現実の不自由を精神が越えていく事であり、精神が自ら精神になる事だ。
 
 ところが現実に目にする、言葉や思考の端くれはその反対のものばかりだ。精神は精神とも呼べず、言ってみれば、自らの自由を行使する事を怖れて、比喩的に言えば、宇宙を単独で飛行する飛行船である事を怖れて、すぐに現実の諸関係のあれこれと絆を結ぼうとする。彼らは遠くまで行く事をおそれ身近な所に着陸し、他者と群れようとする。
 
 自分というものが限定的な存在であるなら、思考も精神もすぐに自らを限定し、同じ党派性の誰彼とつるもうとする。それによってインターネット上では、思考という名の現実が溢れ出し、どこを見ても閉塞感しか感じない。だがこの閉塞感は、同じ世界に閉じこもっている人々と相和する事によって開かれると彼らには信じられている。
 
 精神が精神である為には、自己の肉体や地球の係累を引きちぎって「宇宙」へと到達しなければならない。ブラフマンとアートマンの統一、プラトンのイデア論、カントの物自体といった思想は、それが精神の自由を証して余りあるからこそ崇高なのだろう。それらは現実的な諸関係の構造と癒着している事に価値があるのではない。それらが素晴らしいのは、それらが現実を越えて、精神や思考が己自身となった時、我々が常識としている世界を越えた、より大きな世界、つまりここで言う「宇宙」と合一したからこそ、偉大なのだと思う。
 
 精神や思考はそのように徹底的に自由でなければならない。それに対してあまりに卑小で、小さな思考が溢れすぎている。そして、ある一つの思考というのが全く孤立しており、他者との関係を欠いていても、それが「宇宙」に到達している限り、それは全世界と豊かな、有機的な関係を築いているのだ。その反対に、卑小な思考がどれだけ他人の「いいね」や「フォロー」を集めても極小的な、部分的で、虚しい思考であるに過ぎない。
 
 思考は自らを言語を通じて、宇宙的なものとして表れてくるが、その声を聞く事のできる人はあまりに少ない。多数の人々はそれよりも卑小な自分を卑小なまま高めてくれそうな「インフルエンサー」や「タレント」といった人々にすがりつく。だがそうした人達はどれだけ数を集めようと、「宇宙」に到達する事のない、極めて部分的な存在に過ぎない。
 
 思考が「宇宙」を到達する為には、彼が自らの小さな脳髄に引きこもる事が必要だ。このミクロな領域への圧縮こそが、思考の宇宙性獲得のバネとなる。精神が自らになる為には、世界から剥がれ落ちた自己が必要となる。
 
 彼は世界から剥がれ落ち、世界を失う。だが、この剥離された自己の中に、失われた世界はもう一度、大きな形を取って、具現化された精神という形で"復活"する。それは思考という名で呼ばれている行為であり、思考の中で世界は再び力強く蘇る。そのように形作られた世界こそが、思考が本来持つ宇宙性を十全に発揮するのだ。

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