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機械の読者とどう付き合うのか

文学理論の中に読者論というものがある。文学とは作者、作品、読者の三つの要素で成り立っている。しかし多くの場合作者と作品がメインとなり、読者は置き去りのことが多い。読むこととの大事さを語るための理論と言える。他にも演劇なら、脚本、俳優、舞台、観客という基本要素がある。映画も本も実はどこで観るか、読むのかというのはあまり語られないが大事だ。

映画なら映画館で観るのと、配信で観るのとではやはり違う。本でも机にむかって座って読むのと、酔っ払って朗読しながら本を読むのでは体験が違う。旅行中は結構読書が捗るものだ。

 ある時ネットの記事を読んでいて驚いたことがある。SEO対策をして記事を書くのは常識の範疇にあるだろう。検索エンジンに引っかかるようにキーワードなどを散りばめて記事を作っていく手法だ。記事の中にはSEO対策を施すために異常に長いものがあり、記事は人間を読み手に想定していないというものだった。つまりこの記事は検索エンジンに読み込ませ検索上位に誘導するために作られたものだったのだ。人間は読み手に想定されていない。

認識がどういうものであるかいろいろな論があるでしょう。ここでは変容が認識であるとしたい。認識とは精神を変容させるもの、何かを見て認識するとは神経回路がかわり、変わったということが認識だと考える。つまりSEO対策を施した記事は検索エンジンのパラメータを変え検索上位にするために作られている。すなわち機械の変容をそくすために作らた記事のなのだ。

検索エンジンという機械を変容させるために作られた記事は通常の意味で消費はされない。だから商品とも言い難い。しかし変容するという認識はされている。認識するとはすなわち読むことにほかならず、この記事は機械を読者として想定している。すでに書くことの一部は機械を読者としているのだ。

AIは書かれたものを読み込んでいく。AIの中の膨大なパラメーターは読むことで変容する。AIといえば作者の問題がクローズアップされるけれど、それだけではなく読者も変える。機械は記事を読み込み変容させ、認識する。そういう時代になったのだ。人間がもはや相手ではないのかもしれない。この記事の先には何があるのだろうか。

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