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「スピン」という雑誌

雨の月曜日、久しぶりに書店に寄った。山の雑誌でも買おうかと思ったのだが、総合雑誌コーナーに河出書房新社の新雑誌「スピン」を見つけたので手に取った。発売前に1万部重版したというので気になっていた。税込330円と激安。早速買い求め、近くの居酒屋でハムカツを齧りながら読んでみた。

スピンとは本のノドから出ている布紐のこと。栞とも言う。恩田陸が命名したそうで巻頭言も恩田が書いている。紙の本を象徴するパーツが雑誌名とは気が利いている。それにしても執筆陣に知った名前がほとんどいない。文芸シーンから遠ざかっている証左だろう。そもそも文芸雑誌を新刊書店で買うこと自体、レアな体験だ。読んでいても体がムズムズする(笑)。今さら読書家なぞになれないが、そうありたいという気持ちにはさせてくれそうな雑誌ではある。カウントダウン方式で16号の限定発刊、発売日に書店に行くルーティンを続けて、最後までキャッチアップしたい。

ビールをちびちび飲みながら読むのだが、小説だけはどうにも頭に入ってこない。そういう脳でなくなっているのだろう。大学のゼミであれだけ読んだというのに今は評論やエッセイばかりだ。行きつけのバーでも某直木賞作家を薦められて短編集を買ってはみたものの食指が伸びない。というか、かつてはそのバーで一人で本を読んでばかりいた。ここ数年、常連客と急速に親しくなりのんびり本を読ませてもらえず、本が読める店をほかに作らないといけなくなっていた。昨日行った店はただの居酒屋だが、バーでしゃれこむのとは違って意外と落ち着けた。

「スピン」を読んで思うのは、(このnoteもそうだが)書きたい人がゴマンといるんだなということ。出版不況と呼ばれて20年が経つが、毎日こうしてあらゆる本が誕生し、書店の棚で読者に手に取られるのを待っている。書きたい人(著者)がいて、届けたい人(出版者)がいて、読みたい人(読者)がいる。また洋紙店、デザイナー、印刷所、製本所、トラック、取次倉庫、書店といった業界・業種がこの出版文化を支えている。

ちなみにわが日本製紙石巻工場は日本屈指の出版用紙生産工場だ。アルトクリームマックス、オペラクリームHO、B7(ビーセブン)など。今の会社でもよく使う紙ばかり。出版社は石巻に足を向けて寝られない。震災で打撃を受けた石巻工場が復活再生するまでを書いたノンフィクションが佐々涼子『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』である。

これだけSNSが発達・普及したのだからそこで発信すればよいのに、まだ文字を紙に印刷して配布することへのコダワリが根深く残っている。今回もっともこだわっているのは河出書房新社かもしれない。編集と刊行という出版者の業態維持、存在理由を誇示したいのかもしれない。この業界にいた者として一定程度は賛同するけれども、それが永続するとも思えない。「紙の本」をノスタルジックに語り始めた時点で、自己否定が始まっているのではないだろうか。バーや居酒屋でグラスを片手に読むデバイスが、紙か液晶かの違いにボク自身がこだわることは、おそらくないだろう。

そう言いながら、古い音楽をCDやサブスクでなく、アナログレコードやカセットテープで楽しんでいる自分はどうなのか?と突っ込みたくもなる。これからの短い余生を、本と音楽のどちらと長く付き合うかといえば後者だろうから、そこへのこだわりにも妥当性があると思っている。本はどちらでもよい(笑)。見つけたら、買う。紙でもデジタルでも。それしかない気がする。

石巻の新居に構築中のオーディオシステム(すべてジャンク品)

もっと言えば、ボクが世の中に何か伝えたいことがあったとしても、それは紙媒体ではないということ。SNSでじゅうぶんだ。こんなくだらない内容に、上記のような手間暇をかける意味など何ひとつない。「これって、紙の本で読まなきゃいけないこと?」と嘆きたくなる本が世の中に多すぎやしませんか? とかく紙の本は手間暇がかかる。聡明な読者に「紙の本は業界を食わせていくために存在している」という疑念(真実?)を持たれないよう、出版に携わる人たちは自らの企画を日夜検証していくしかないだろう。