見出し画像

逆張りという呪縛

いつからそういう性癖がついてしまったのかわからないが、周囲が思いつきそうな選択を避けるようになった。スナックに行ってもカラオケはほかの人が入れない曲ばかり。車を走らせても抜け道ばかり。文字通り「我が道を行く」という自己主張が強い。そういう志向や行動を「逆張り」と称するようになったのは3年ほど前からだろうか。会社の編集部長が会議で使い出した。最初は意味がわからなかったが、使い方を学ぶうちに「オレがよくやってるやつだ」と思うようになった。

逆張り:相場のトレンドに逆らった投資法のこと。 上げ相場の時に売り、値下がりしているときに買うこと。そこから、一般的に唱えられている意見や風潮とは逆の意見を主張することの意にも使われる。

(web情報を適宜編集)

ネットの論壇でいうならネトウヨの常套手段だ。環境や差別などの社会問題にからめて、敢えて保守・守旧の論陣を張り、リベラリズム/センチメンタリズムから一定の距離を置こうとする輩。頭良さそうに思われたくて言っているようだが、ネトウヨの仲間うちに流布する安い思潮に乗っかっているだけの省エネ思考。やつらと同じとは思いたくないが、逆張り志向はあるようだから気をつけたい。逆張りのための逆張りほどアホらしいものはない。オレの逆張りイメージは、たとえばある空間で災害が起きて集団パニックを来たし1箇所の出口に殺到したときに、ほかの出口はないのか探す志向のことである。一人悠々と逃げたいのではなく、「こっちからも逃げられそうだぞ」と指し示したい。…おや、どこかヒロイズム臭いぞ。その意味ではネトウヨマインドに近いのかな(笑)。

本文冒頭、「性癖」と書いたのも逆張りだ。このところなぜか性癖はSEXUALな意味でしか使われなくなった。明らかに誤用だ。性癖や性向にそんな意味はない、そう言いたくて逆張りをする。ああ、なんて厄介なんだろう。何を言いたいのかといえば、山小屋というバーを始めたのも逆張りだったかもしれない、という浅薄な告白である。おそらく内心はもっと違うことをしたい。でもそこには向かえないから別の方向へ進む。「そこ」とはどこか? それがよくわからないのだ。たとえば新聞記者の某先輩は地元夕刊紙の中途採用され「Uターン記者」などとYahoo!ニュースにもなり、月面宙返りよろしく華々しい着地を見せた。ほかにも一人出版社や劇場開設など、東京のキャリアを有効に使って郷里に種を蒔いているのを見るにつけ、オレは何をやってるんだろうとボヤきたくなる。

ただ、そうした戻り方を忌避してきたところもある。震災直後、twitterなどで見受けられたのが、東京にいる被災地出身者が地元の遅々とした歩みに業を煮やして批判するのは見ていて苦々しかった。自分にもそういうところもあった。「オレ様が今すぐ帰れば故郷の復興なんて簡単だ」と救世主気取りの東京人。石巻が嫌いで出て行ったくせに震災がチャンスとばかりに戻んのかよ、と冷ややかに見られていたはずだ。

ボランティアも同様である。震災を自分探しの踏み台にすんなよ、という思いもあった。だがそれはそのまま自分に返ってきた。なんでもいい、体を駆使して働く行為がなによりも尊い。オレは帰れなかった。10歳になる子供を東京に置いて石巻に帰るわけにいかなかった。それでも月に一度は帰るようにした。実家も家族もなくなり、帰る理由が消滅したというのに「だからこそ帰るのだ」と石巻に固執した。アパートを借りて寝具や着替えを置き、更地となった実家跡でぼーっとして、夜になれば居酒屋とスナックを飲み歩き深夜に帰って寝る生活。これが7〜8年続いた。逆張りは疲れる。

それでも、かつて住んでいた門脇の住民と交流するのが楽しかった。南浜にできる追悼公園について考えるワークショップに参加したり、全焼した門脇小学校校舎を震災遺構として保存するか否かを議論したり、門脇や南浜をめぐる集まりには極力参加した。ここはオレの町だ、と誇示したかったのだろう。

ワークショップで追悼公演予定地の南浜を歩く(2014年)


常に孤独だった。みんなと逆の方向に進むのだから当たり前だ。そこを究めた、と言ってもよい。およそ大衆が向かいがちな方向を如実に感じ取り、それを避ける“逆張り”こそが我が道だとさえ思っていた。

タイトルに書いたように、それは忌まわしき呪縛となった。逆張り行動しかできなくなっていた。人が行かないところに行くという選択は、なかなかにつらいものがある。それでも続けた。きっと死ぬまで続けるだろう。逆張り人生。ただどうしても、逆張りはマッチポンプにならざるを得ない。逆を行くという自意識が自明に存しているからだ。震災被災が自作自演のはずはないけれど、どこかでその境遇に酔いしれているフシがある。被災者人生劇場。観客が誰もいないホールで一人芝居をしているのが、震災後のオレだ。

そんなわけで、「山小屋」を始めたのもただの逆張りですよ、というツマラナイ告白になってしまった。一人芝居が観たい人は、山小屋に来てもらえばよい。逆張りというほどでもない、凡庸な居酒屋ですが。