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人間は自然の一部に過ぎない

 人間は自然の一部に過ぎない。
 何気なく動画を色々見ていると、そんな一文を目にした。なんということはない、どこにでもありがちな啓蒙的で少し意識が高そうな雰囲気を醸し出す文章だ。人間も自然の一部なのだから、人間という単一の種が自然をむやみに破壊して搾取するようなことはあってはいけない。人間以外の動物もいたわらなければならない。人間が、多くの動物の命を手にかけることで生活を営めることを知らなければならない。毎日豊かな森林は伐採されている。愚かな人間たちは何も知らないのに、日々の生活に罪悪感も抱かない。私たちは現在地球規模で行われている自然破壊について、もっと調べ考えなければいけない。一人一人がもっと現在の状況に目を向ければ大きな流れになり云々。温暖化がこのままで進めば大変なことに云々。私たちは牛肉と豚肉をたくさん食べているが、一頭の家畜を育てるのにどれだけの穀物を消費するか云々。化石燃料発電がいかに遅れているか云々。原子力発電の危険性について云々。そういえば砂の消費量もすごくて云々。水と食糧について真面目に考えなければ云々。挙げていけばきりがない。人間も自然の一部であることを忘れて、これまでと同じように文明化、都市化を進めていけば大変なことになると警笛を鳴らす人たちはたくさんいる。

 いつもこの手の主張に触れると自分は違和感を抱く。人間が自然の一部であると言いながら、道徳的に生きることをやたらに強調してくるからだ。自然を破壊してはいけない、もう少し節約しなければならない、謙虚にならなければいけない、などなど。二十世紀までと同じような生き方をしていると人類は早々に滅亡してしまう。自然の怒りに触れてしまう。そんなことを言いたげな内容が多い。道徳的であるということ自体が、自然の摂理から遊離した極めて人間的で都会的な在り様ではないのか(こういう考え方はあまりに幼稚な性悪説かもしれないが)。人間も自然の一部だと主張するときは、もう少し慎重になった方がいい。何が自然であるかなんて当の人間にもおそらくわかっていないのだから。いつの間にか私たちは、都会と自然を対立する構図で捉えることに慣れすぎてしまっている。

 十五(十六?)~二十世紀の間に起こった人類史における大きな飛躍は、確かに自然の循環を乱すものではあった。急速な文明化、都市化によって自然界は乱され、動植物の多くの種が絶滅し、四十六億年の歴史を持つ地球の姿が大きく変わったのは事実だ。アングロサクソンが中心となり西欧から始まった大躍進は、人類史は言うに及ばず地球史においても大きな分岐点になったのかもしれない。英語を話す白人のやることは様々な面で常軌を逸していた。彼らが成し遂げた偉業と悪業は、日本人には到底達することのできないものだ。科学革命と産業革命は、人間にも人間以外の生物たちにも、大きな影響を及ぼした。滅ぼされて存在を消された生き物たちは多くいる。たかが数百年で地球上の人間の数は増えすぎてしまった。地球史の長さに比べればほんの短期間で人間という種が肥大化し、地球には大きな消えない傷が残った。人類がこの後隕石や地殻変動で滅んだとしても、人類が残した人工物がすべて消え去るとは思えない。人間が頭の中で考えて作り出した様々な建築物や機械の残骸は残り続けそうだ。

 人間も自然の一部だ。それは正しい。しかし、自然が何なのかと言われるとよくわからない。自然の一部に過ぎなかった人間という種が思わぬ暴走を始めて地球上で増え続け、その他の種を滅ぼし、地球の姿を変えていっている。人間のせいで地球上はやたらに直線を目にする世界になってしまった。自然は曲線を、人間は直線を作るという。直線に支配された都市社会は、やはり自然から遊離した人間的な社会ということになるのか。だが、この考えはやはり怪しい。自然の一部である人間が作り出した世界は、やはり自然の一部であると考えなければいけないだろう。都会と自然の断絶性にばかり目を向けるのではなく、連続性について考えることが今後重要になってくる。

 はるか昔から、人間は自然を搾取し収奪して、動物たちを家畜化してきた。土を耕し富を蓄え始めたころから、階層のある社会を形成し、集団同士での争いを激化させていった。人間は長らく自然を破壊し、争いをくり返し、男尊女卑の社会で生きてきた。近代に入り、科学と産業という大きな力を手に入れたために、これまでと同じでは人間社会は継続できないのではないかという懸念が生じてきた。人間は自然の一部であることを受け入れよう。それ自体には賛同するが、その後に続くのは、自然を大切にし、人間以外の生き物も大切にし、戦争をやめ、性や人種による差別をなくそうみたいな文章だったりする。だが、これらの正しい言説は、自然界から存分に搾取できる、衣食住が満たされた贅沢な都市社会でのみ成り立つのではないか。人権思想も、自由や平等の概念も、近代的な都市社会の中でのみ可能な話なのではないか。自然から多くの命を奪うことでしか、近代的な人権思想は維持できないのだとしたら。

 人間以外の動植物の命を奪い続けることで、人間は人間に優しくできるようになった。自然から絶え間なく搾取する火力発電のシステムが出来上がり、人間はこれまでにない豊かさを手に入れた。腹が満たされて、清潔な環境が用意されれば、心はある程度穏やかになっていく。人間は中世までとは違い、見知らぬ他者にも優しくなれる余裕を身に着け始めた。多くの犠牲を踏み台にしながら、自然から隔離された都市社会で、人間は徐々に自由で平等な社会を形成していった。市民革命が起こり、自由、平等、博愛の理念が唄われ、今日に至るまで人権思想は進歩し続けている。その一方で、人間以外の生き物たちの命は無慈悲に搾取され続ける。動植物の命を犠牲にしながら、高らかに人権宣言はなされ、平和の歌は紡がれる。

 科学技術を手に入れてしまったために、人間と人間社会が本来持っている自然な特性が批判されるようになったのではないか。もともと人間は容赦なく自然を破壊し、戦争をし、男は粗暴であり女は子供を産むのが当たり前だった。中世までは科学技術を持たなかったから別段それで困ることはなかった。だが、あまりにも大きな力を手に入れたために、精神の改善が迫られている。そう考えると、人間は自然の一部であるなどと簡単に口にしていいのか私にはよくわからない。最近の数百年で地球上で大量繁殖したのは人間だけではない。おそらく犬、猫、牛、豚あたりも数倍に増えているだろう。これらの動物たちは人間にとって必要だったからだ。愛玩するために、美味い肉を食うために。

 人間は自然の一部にすぎないが、かなり特殊な生き物であることは確かだ。言葉を使い、優れた道具を使い、服を着たりする。具体例を書き出せばいくらでもある。人間が自然の一部だと聞くと嫌な気分になるのは、驕る人間に対する戒めのような響きを感じるからだ。そのような言説を訴える当の本人が、実は人間が特殊な生き物だという驕りを、根底では払拭できていない。複雑化する都市も、最先端のAI機器も、高度な数学理論も、すべては自然の一部だと居直ればいいのに。人間の手が加わっていない物質的なものは自然であり、人間によって大いに加工された精神の産物は反自然であるという決めつけがあるのかもしれない。まあ確かに精神自体が、自然から遊離しており自然に反するという考えもあるだろう。だが、そのような手垢のついた思想から脱却する見方があっても良い。

 この数百年は絶えず成長し続ける時代であり、私たちは成長が当たり前の環境で長らく暮らしてきた。成長を前提とした社会で、人間は希望を抱いたり絶望に陥ったりしてきた。大戦争の時代も、革命の時代も、華やかなバブルの時代も、偉大な文学が生まれた時代も、ずっと成長していた。二十一世紀は成長が終わり、長い停滞の時代がやってくると私は思う。だが、その予想に反して、二十一世紀も二十世紀以前と変わらず成長の時代が続くのであれば、もはや人間は人間でいられなくなるだろう。

 コロナ騒動は二十一世紀の前半期に起こった。この騒動は医学的、科学的観点だけではなく、社会学的観点からも考察されるべきだがそのような動きはほとんどない。多くの人文系の学者たちはコロナを怖がって、医学の専門家たちの言いなりになっている。自然からの大量搾取が常態化し、豊かで清潔な空間が提供された都市社会で私たちは長寿を全うすることができている。そのような社会では医療が神格化されていくようだ。近代では、独裁権を持つ王による殺権力に代わって、医療による生権力が支配的になると考えたのはフーコーだ。社会が豊かになり、民主主義と自由主義の思想が大衆にも浸透すると、医療とヒューマニズムに支えられた生権力が増長していく。あまりにも豊かすぎる社会に生きていると、精神も感覚も麻痺していくので、社会を根底から支えている産業は医療であり、医療こそが最も重要なインフラであると錯覚してしまうのかもしれない。二十世紀に平均寿命が大きく伸びたのは、医療よりも食糧事情と上下水道の改善にあるという主張は根強い(このあたりはまだ結論は出ていなさそうだが)。コロナ騒動において、医療機関の主張に従い人流制限やマスク着用やワクチン接種を是とする人々は、近代に生み出された都市化という進歩の物語が今後も継続できると考えているのだろう。一方、反対する人々はそのような物語はもはや限界に来ていると思っているのだろう。双方で何を自然と捉えるか噛み合わないので、いつまでたっても決着はつかなさそうだ。

 人類は様々な動物を家畜化してきたが、同様に自分たちも家畜化してきた。家畜化された動物は、雄が雌化することで性差が縮まっていく(豚は猪のような牙を持たない)。また脳も縮小していく。人類は数万年かけて性差と脳を縮小させてきたので、自分で自分を家畜化させてきたとも言える。そして、ここ数百年で一気に自己家畜化の流れを加速させた。コロナ騒動はこの自己家畜化の加速をさらに続けるか否かという点で分断しているように思われる。二十一世紀は、文明化、都市化、中性化をさらに進めるか、立ち止まるべきかで割れていくだろう。

 人間は常に戦争をしてきた。人間は集団で生活をし、その集団の成員の数は文明の進歩と共に増えていき、戦争も激化していった。昔は、人間は戦争をする特殊な生物だと言われていたが、今ではチンパンジーも集団同士で争い、敵味方に分かれることがわかっている。私たちの足元では蟻がいつも戦争をしている。人間が地球上に誕生する前から、蟻は争っていた。人間は自然の一部であるというとき、それは一体どういうことなのか、やはりよくわからない。

 人間の社会は長らく、貧困と粗暴と不潔と病弱と共にあった。しかし、近代になってこれらの問題からほぼ解放されてしまった。科学技術の発達によって人間社会が大きく変わってしまったので、人間も変わる必要があるが身体の構造自体は変えられない。男女平等の訴えは強まるばかりだが、生まれ持った身体に手を加えてうまくいくほどの技術力を人間は持ち合わせていない。どうしようもなく恵まれた社会で、男女関係の在り方も家族の在り方も変わる必要を迫られているが限度はある。自然から容赦なく搾取することでしか人権思想は成り立たないかもしれないからだ。

 地球上で人口が増え続けることが以前は問題とされてきたが、二十一世紀の中~後期から減少し始めるらしく、それほど危機感を持つ必要はないようだ。人間社会はある程度文明化すると少子化する傾向にある。自由主義、権威主義、民主主義、共産主義などの政体に関わらず、一定の文明レベルに達すると人間は子供を作ることに積極的ではなくなる。別に地球環境のことを考えて子作りを控えたわけではなく、なすがままに任せた結果である。豊かな社会が実現すると、人生に選択肢が増えるので、男女共に無理をして子供を作って家庭を営もうと考えなくなっていくのだが、この流れが上手い具合に地球の人口増加抑制に役立っている。これこそ神の見えざる手というやつなのか。自然から生まれた人間は、自然に対して大きな影響力を発揮する厄介な生物であり謎が多い。

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