備忘録12. みんなちがって みんないい

先日、週刊新潮(2024年2月1号)に掲載されている横尾忠則氏のコラムを読んだ。彼は、「ヒマなら教養や知識を身につけるために本を読め」という一般的な風潮がイヤらしい。「ヒマなときには、読書をするより、ボヤーッとして頭を空っぽにしていたい。ボヤーッとする時間が、最も創造的に豊かな時間! 」だそうだ。アーティストの彼らしい発言である。

ヒマなときには、読書をするかしないかは、人によって違うだろう。教養や知識を得たいか、創造的に生きたいか?それも人によって違う。その是非について、議論するつもりはない。ただ、私を含めて、多くの人々が、日々あくせくして、読書をしたり、インターネットを検索したりして、知識や情報を頭に詰め込んでいる。学校に通っている子ども達も、日々学校で知識を詰め込んでいる。一時期詰め込み教育への反省などがあったが、入試制度などを見ていると、反省などどこ服で、知識偏重が横行している。ネット情報の氾濫への批判と、一般に人々のインターネット依存も同様である。私たちはありとあらゆる物を頭に詰め込んで生きている。横尾氏のコラムは、そのことへの反省というより、別の生き方があるのだなぁという感慨を抱かせてくれた。

私は、本が好きな方だが、読む本は偏っていると思う。ネットで、今読むべき本などが紹介されるが、そうした本を読んでもなんの感慨も抱けないが、旅先でふらっと入った本屋で買った小さな本にのめり込んだりする。山口県長門市に旅をしたとき、「金子みすゞ記念館」に入った。展示されていた 1つ1つの詩を味わい、その独自の世界に魅了された。金子みすゞの詩「私と小鳥と鈴と」にある『みんなちがって みんないい』という感性は、なんともうらやましい。山口市には、「山頭火ふるさと館」や「中原中也記念館」もあるが、私は彼らの尖った作品には私には感情移入しにくい。同じ尖るのであれば、「茨木のり子」の作品の方を読みたい。

本の話になってしまったが、横尾忠則氏のコラムを読んで、最初に感じたのは、人の多様性の在り方だ。「一生懸命本を読まなくても、ボヤーッとしている方が良い。」という彼の見解は、なにもソファーに寝転がって、カウチポテトをしながら、ボーッとテレビを見ていて、体重やコレステロール値が大変になってしまっている私たちのことを言っているのではない。彼が、一人の芸術家として、一人の人間として生きていくうえで、非常に重要なかつ必要な態度なのである。人にとって、重要なことは違うし、生き方も様々だ。

私は、マスコミでしばしば語られる「ギフテッド」という言葉が嫌いである。「ギフテッド」の人は、その天才的な知能を称えているようで、実は激しく差別している。彼らは、数学や絵画など一つの項目では天才的であるが、他の項目では一般の人の傾向とは異なっている。同じように「発達障害」という言葉も好きではない。「発達障害」の人は、多くの項目では一般の人と変わらないのに、ある項目では他の人々より劣っている。どちらも、マジョリティからの逸脱を理由に差別するために作られた言葉である。どちらに所属する人も、世の中に沢山いる人々のバリエーションの一つに過ぎないし、その境界は明瞭ではない。

日本は、先進国の中でも年少人口が最も少なく、将来の労働人口不足は確実である。しかも、外国人労働者の受け入れに消極的で、排他的でさえある。日本人は、明らかに絶滅確定人種である。絶滅が確定しているのに、日本では、外国人労働者だけではなく、学校で、職場で、家庭で、多くの場面で、不寛容に遭遇する。普通でない。ただそれだけで。私は、この問題に倫理を持ち出すつもりはない。ただ、来たるべき未来を想像したとき、確実にやってくるであろう新たな差別社会に備えて、せめて弱い物同士が仲良く手を携えて、暮らすことはできないか?と考えているだけである。区別して差別して小さな世界に閉じこもるよりも、人々を区別・差別する言葉をなくして、多くの人々と明るく楽しく生きる方法を模索したいなと思うのである。そう考えたとき、早逝した金子みすゞの言葉『みんなちがって みんないい』に、私は頼りたくなるのである。