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【第21回】新しい人権 名誉権 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

権利の衝突?

名誉権やプライバシー権に基づいて、出版物の差止請求がされた、という案件については、表現の自由が大事だと考える人でも、それは仕方がないかな、と思われる方もいるのではないでしょうか。

表現の自由といえども、他人の権利を侵害しない範囲で認められるはずですし、公共の福祉で検討したように、表現の自由という人権と、名誉権やプライバシー権という人権が衝突し、その調整が必要な局面です。

ここでは、2つのことが問題となります。まずは、①名誉権やプライバシー権という規定は憲法に規定がないのですが、これが人権と言えるかという問題、②あくまでも調整、ということであって、表現の自由が常に優越する、あるいは劣後する、ということではなく、どのような条件で折り合いをつけるか、という問題です。

新しい?人権

名誉権やプライバシー権という言葉は聞いたことがあると思いますが、日本国憲法の人権規定のどこを探しても、このような言葉は出てきません。

しかし、以前お話ししたとおり、「人権」というのは、時代や社会の進展とともに、主張され、それまで規定されていなかった人権が「発見」されることは大いにありうることです。

そこで、このように憲法の人権カタログに存在しないものであっても、人権として認めるべき概念については、第13条の「生命、自由及び幸福を追求する権利」に含まれる、と考えられています。その意味で、第13条は包括的基本権と言われることがあります。

第13条はあらゆる人権条項を包括している、ということは、個々の人権条項に該当するものがなかったときには、第13条で保障されるかどうかの問題となります。あたかも第21条のときに第2項の検閲にあたらないとしても第1項から導かれる事前抑制の原則的禁止に触れないか、という形で問題になったのと同様です。

名誉権、プライバシー権という言葉自体は、皆さんが生まれる前からあったものかもしれませんが、日本国憲法の人権条項の観点からすると、「新しい人権」ということになります。

「人権」としての名誉権

それにしても、プライバシー権はともかく、名誉権が「新しい人権」だということには違和感を覚える人も少なくないと思います。だって、昔から名誉毀損罪(刑法第230条第1項)があるではないか、と。

しかし、世界的に見ても、名誉毀損罪というのは、個人の人権を守るという観点から犯罪化されたのではなく、治安犯罪として、刑法でいうところの国家的法益あるいは社会的法益保護のためのものだったという歴史があります。

身分制の時代には、王様や貴族には、名誉はあったかもしれませんが、庶民、平民には毀損されるべき名誉というものはなかったわけです。

日本でも、自由民権運動が全国に広がった時代、1875年に讒謗律、新聞紙条例の公布、出版条例の改正により、政府批判の言論を封じようとしたことが、高校の日本史の教科書にも出てきます。

大学受験の頃、日本史選択の友人が、「ザンボウリツ、読めても書けない讒謗律」と言っていたのを覚えています。単語のインパクトは強いのですが、残念ながら、日本史の教科書では讒謗律が何なのか、ということについてはよくわかりません。かろうじて、「新詳日本史」(浜島書店)の230頁の豆知識のコーナーに、「讒謗律」の「讒」は、讒毀、「謗」は誹謗のことで、どちらも人の悪口を言うこととあります。

カンのいい方はもうお分かりかと思います。讒謗律というのはつまり、主として政府関係者、権力者に対する名誉毀損であり、これが新聞、出版に対する規制と合わせて行われた、ということです。

明治13年に旧刑法が成立するのですが、第358条に「悪事醜行ヲ摘発シ人ヲ誹毀シタル者ハ事実ノ有無ヲ問ハス」と讒謗律を受け継いだ規定が置かれました。

全体主義国家は、マスメディアなどを使って、反体制派の人物について悪印象を与える情報を意図的に流して人格を蹂躙したことがありますが、現代でも、元文部官僚が政府を批判した途端に、悪いうわさがメディアに流れたことがありました。

このような歴史的背景から、名誉毀損罪において保護される利益は、名誉権という個人の人権なのだ、と強調する意味があるわけです。

これが侵害された場合には、私法である民法の世界では、不法行為(民法第709条)が成立し、また、侵害されそうな場合には(限定的ですが)差止請求ができる場合がある、と考えられるのです。

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