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【第37回】エホバの証人輸血拒否事件判決 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

ビートたけし(当時)主演ドラマ

限定的なパターナリスティックな制約に関連して、注目すべき判例があります。エホバの証人輸血拒否事件(最判平12.2.29)とよばれるものです。

かつて、交通事故にあった息子の輸血を拒否した事件をモデルとした、たけしさんが演じたドラマがありました(TBS『説得――エホバの証人と輸血拒否事件』1993年3月22日放送)。1985年、神奈川県で10歳の子供が交通事故にあい、病院へ搬送されたのですが、エホバの証人の信者であったことから輸血を行わずに亡くなったという事件を題材にした、ノンフィクションライターの大泉実成(1988年・現代書館)原作による、病院側の説得と、父親の葛藤などを描いたものです。

この事件を契機に、10歳という少年の輸血を拒否するという意思を尊重すべきかなどが議論になり、医療サイドでもガイドラインなどが設けられるようになります。

これから取り上げる最高裁判例は、1992年に起きた、信者本人が輸血拒否のかたい意思をもっていたというケースです。

事件の概要

事案は原告が裁判の途中で亡くなったり、相手も医師や病院であったり、請求内容も債務不履行責任や不法行為責任を追及したりとかなり複雑なのですが、次のような例に簡略化して紹介します。

患者はエホバの証人の信者で、宗教上の信念から、いかなる場合であったとしても輸血を拒むかたい意思を持っていました。病院の医師にそのことを伝えたのですが、その病院では、患者がエホバの証人の信者であった場合、患者の意思を尊重して、できる限り輸血をしないこととするけれども、ほかに救命手段がない事態になってしまった場合には承諾なしに輸血する、という方針を採用していました。ところが、患者にこの方針を説明しないで、手術を行ったというものです。

この手術で腫瘍を摘出した際に、約2245ミリリットルの出血があったので輸血をしないと命が危ないとして輸血をしたのです。

この患者が、説明をせずに手術を行い、輸血を行ったことを理由に、民法の不法行為であるとして損害賠償を医師に求めたというものです。

医療側、患者側それぞれの主張

どちらにも言い分があるように思われます。

一方で、医療の側からみれば、患者の命を救う治療法を選択したにもかかわらず、損害賠償を求められるなんて、ということでしょう。適切な医療行為を行ったにもかかわらず、不法行為責任の追及なんて、無茶な主張にも思えるかもしれません。

他方でこの患者と家族は、輸血をしないで手術をすることを求めて、医療機関を探し、エホバの証人の信者の間では知られている、輸血を伴わないで手術をした経験があるという医師から治療を受けようとしてこの病院に入院しています。そして、この病院の医師たちに、自分は輸血を受けることができないことも伝えています。患者側からすれば、にもかかわらず、ということになるわけです。

裁判所はどのような判断をしたか

控訴審は、輸血に関して説明をしなかったことについて、不法行為に基づく損害賠償を認めました。医師の側からは、不法行為責任が成立することを不服として、患者の遺族からは、損害賠償額が低すぎることが不服であるとして、それぞれ上告、附帯上告がされました。

最高裁は、上告、附帯上告ともに棄却しました。原判決のまま、ということになります。そして、「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければ」ならないとしました。そして、説明がなかったことによって、輸血を伴う可能性のある本件手術を受けるか否かの意思決定をする権利を奪ったものだとしたのです。

この事案は、命にかかわる「輸血を伴う医療行為を拒否する意思決定をする権利」が、救命のためのパターナリズム的介入よりも優先する場合があることを認めたものです。この権利を、憲法上の権利であるとか、憲法13条から導かれるといったわけではありませんが、名誉権のときにも、最高裁は、「人格権としての名誉権」という言い回しをしていますから、幸福追求権の議論とは親和性があるものといえます。

尊厳死や安楽死のように、ほぼ不可避に目前に迫っている生命の終わりに際しての、残りの生き方の選択という局面よりもさらに前の段階でも、生命についての自己決定を尊重するものと評価できます。

慎重であるべきパターナリスティックな制約

エホバの証人の教義については、さまざまな評価がありうるところです。しかし、この裁判を教訓に、インフォームド・コンセントということが医療界でもよりいっそう意識されることになったことは過小評価すべきではないと思います。人権に関する訴えが、単なるマイノリティーの利益の実現だけではなく、そのことによって、社会全体に重要な価値を広める契機になったことも見逃せない点です。

これまで、命にかかわる問題について、検討してきましたが、パターナリズムと自己決定権にはいわば緊張関係があり、自己決定権を優先すべき場合もあるのだ、ということが理解できたかと思います。言い換えると、パターナリスティックな制約は無制限ではなく慎重であるべき、というのが最高裁も含めて、ここのところの憲法の議論のすう勢だといえます。

ところが、これが未成年者の問題になると、パターナリズムに対して無警戒というか、ルーズな議論が横行しているように思われますし、社会運動でも、「子どもの人権」を標榜しているにもかかわらず、(すべてがそうだというわけではありませんが)、その内容はパターナリズムそのもので、未成年者の人権制約を主張しているケースもあることには注意が必要だと思います。


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