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日曜日と父のおしまい

晴れた日曜日のにおいがする。

季節はいつだったのか。そこまで具体的ではないけれど。

台所からお湯の沸き立つ音と、鍋から湧き立つ湯気のにおい。それから、インスタントラーメンの硬い麺がお湯に落ちる音。菜箸で鍋のふちを叩く音。スリッパの床を擦る音。

居間では座椅子に座った父が新聞で顔を隠している。テレビでは人が将棋と戦っている。「10秒…20秒…」と、女の人が磨かれたステンレスみたいな声を出している。磨いたステンレスに顔を近づけて声を出したら、僕もこんな声になる気がする。

お湯の沸き立つ音が細かくなって、塩ラーメンの匂いがしてくる。ラーメンの丼が軽くぶつかり合って高い音を出している。

窓の外から柔らかい陽射しが差している。窓に目を向けるとそれが目に入って、視界が少しの間、白く狭くなる。

新聞紙が乾いた音を出す。
父が咳払いをする。

子どもの頃、父の背中をみる事があまりなかったように思う。父はいつも座椅子に座っていて、新聞紙で顔を隠していた。

日曜の昼のテレビ画面はずっと将棋で、女の人が機械のように秒数を読み上げていて、母はずっと台所にいて、ひたすら何かを作っていた。

父と何気ない話をした事なんて、ほとんどなかった。僕も父も、お互いに興味がなくって、だからって何も知らないわけでもなかった。

会話の絶えない賑やかな家庭。

そんな家庭に憧れた事もあったけれど、でもそうではなかったからこそ養われた確かな感覚がある。

昔を振り返って思い出されるのは、そこにあった空気や音や、においばかりだ。

接点が少なかったからこそ思い出される父との思い出も幾つかある。

父が死ぬ前にその思い出を整理しようと思っていたけれど、そう思い立ってから、父はあっという間に死んでしまった。

明け方に死んだ父に会えたのはその日の夕方で、父は顔の前で新聞紙を開いてはいなくて、けれど目を閉じていて、無口だった口が少し開いていた。

こんなに間近に父の顔をみたのは初めてのような気がした。

日曜日を思い出す時、思い出の中の日曜日は大抵晴れていた。

そして、父は新聞紙で顔を隠していて、磨かれたステンレスのような女の人が秒数を数えていて、母は台所で静かに菜箸で鍋のふちを叩いていた。

窓から差し込む光は柔らかかったけれど、目に入るとしばらくは、視界が白く狭くなった。

塩ラーメンができて食卓に並び、お互い無言でそれを啜った。

塩ラーメンを食べ終えて、ラーメンの丼をとんと食卓に置き、ふぅと息を吐いて、箸を置いて。

それからゆっくりと目を閉じて、少し口を開けてもう一回息を吐いた。

父の最後は、そんな顔だった。

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