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わたしに対する畏れはどこにあるのか:聖書をめぐる旅 8/12

8/12(金)
 今朝の札幌は雨上がりの朝です。
聖書通読も、本日と明日をもって1巡となります。
非常に感慨深いものがあると同時に、大切なことに気付かされます。


マラキ書1章
 
2わたしはあなたたちを愛してきたと
主は言われる。
しかし、あなたたちは言う
どのように愛を示してくださったのか、と。
6子は父を、僕は主人を敬うものだ。
しかし、わたしが父であるなら
わたしに対する尊敬はどこにあるのか。
わたしが主人であるなら
わたしに対する畏れはどこにあるのかと
万軍の主はあなたたちに言われる。
わたしの名を軽んずる祭司たちよ
あなたたちは言う
我々はどのようにして御名を軽んじましたか、と。
14群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると誓いながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。

マラキ書2章

1祭司たちよ、今あなたたちにこの命令が下される。 2もし、あなたたちがこれを聞かず、心に留めず、わたしの名に栄光を帰さないなら、と万軍の主は言われる。わたしはあなたたちに呪いを送り、祝福を呪いに変える。いや既に呪いに変えてしまった。これを心に留める者があなたたちの間に一人もいなかったからだ。
14あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。
16わたしは離婚を憎むと
イスラエルの神、主は言われる。
離婚する人は、不法でその上着を覆っていると
万軍の主は言われる。
あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。
あなたたちは裏切ってはならない。
17あなたたちは、自分の語る言葉によって
主を疲れさせている。
それなのに、あなたたちは言う
どのように疲れさせたのですか、と。
あなたたちが
悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか
主は彼らを喜ばれるとか
裁きの神はどこにおられるのか、などと
言うことによってである。

 マラキ書で特徴的なのは「どうしてですか?」「何故ですか?」と神様への問いが多いことです。
1章では、神様と民の関係を父と子の関係に例えています。
2章では、祭司の道を踏み外し祝福が呪いに代えられていること、夫婦の関係がないがしろにされ、主を疲れさせていると。
 私が注目したのは「主への畏れ」です。
これは、怖がることではなく、畏敬に近いことです。
エデンの園で、アダムとエバが罪をおかしたのは、悪魔に騙されて、神様の言葉よりも悪魔の言葉を上にしたことが発端です。
私たちの祈りが聞かれないのは、神様よりも自分たちを上にして、自分の欲求を神様にしてくださいと語っていることにあると思います。神様は、アラジンの魔法のランプの妖精のような存在ではありません。
 創造主なる神様への畏敬の念というのは、目の曇った私にはなかなか理解できませんでした。ただ、イエス様の十字架の意味を知った時に、自分が神様の前にひざまずくしかない存在であることを確認しました。
今日、キリスト者としての歩みは、自分の罪を認め、イエス様を心の王座にお迎えしますという祈りからスタートします。
これらは、神様への畏れ、畏敬の念を表すこと、神様を本来の位置についていただくことだと思います。
箴言1章7節には「主を畏れることは知恵の初め。」とあり、マルコ1章3節では、イエス様は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とイザヤ書の言葉で語っています。


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