大学院修業休業制度② 復職、修了、現在

大学院での授業がどのような内容であったか、とか、どのような研究をしていたかについては、また改めて書こうと思います。ここでは、17年間、中学校教員を務めて、この制度を使って休職し、修士課程に進んでみて、何を思い、生活がどう変わったか、そして復職する時(した後)、どんな感じだったか、について書きたいと思います。

休職間際、3月31日まで職員室の身の回りの整理をしていたので、4月1日から急に、職場へ行かなくなるというのは解放感があるというよりは、奇妙な感じでした。当時勤めていた中学校は、同僚の先生方や生徒たちに恵まれて、とても居心地が良かったので、自分で決めたことながら、寂しい気持ちもありました。担任していた3年生を送り出した後、去り際に、在校生にあいさつする機会もなかったため、「あれ?あの先生なんでいないの?」と生徒が言っていたというのを後から聞きました(笑)。

生活は一変しました。当時、妻はフルタイムで働いていましたので、当然のことながら、家事や育児はすべて私の担当になりました。朝、朝食の準備をしてから子どもを保育園へ送り、妻が出勤した後、洗濯をして、大学へ行き、帰り道に晩御飯の献立を考えて、娘を迎えに行き、夕飯を作るというような生活をしていました。

待望の大学院生活だったわけですが、働いていた時もっと授業の準備や研究をする時間が欲しいと思っていたのに、いざ時間がたくさんあったらあったで、「何をしたらいいのか」、と戸惑ってしまう始末でした。翌年の今頃には、実験計画を立て、データを分析して、修士論文を書く、という見通しが当時の自分にはまったく立っていませんでした。ただただ、(自分なりに)苦労して手にした大学院修士課程の学生というその立場に酔いしれるかのごとく、漫然と過ごしていたように思います。大学院は「勉強」ではなく、「研究」をする所、とよく言われますが、私の場合は、勉強ですらなく、ただの「休憩」になっていました。

当時の私は、休職前に、教育実践をいくつか発表し、賞をいただいたり、助成金をいただいたりしていました。これらすべて、指導者の先生方のおかげなのですが、それをよそに「自分には研究能力がある」とどこか調子に乗っていました。これからの大学院生活も、「あんな感じ」でやればだいたいうまくいくだろうとたかをくくっていました。今思い返すと本当に恥ずかしいです。

そういった出だしの悪さの基になっていたのが私の「誤った認識」でした。私が慣れ親しんだ「教室指導現場の英語教育実践」と「第二言語習得研究」とが、接点はあっても、実は全く別物だという認識ができておらず、これまで学んできた実践ベースの知識や経験値でそこそこいけると思っていたのです。なので、ゼミでレビューされる論文や先輩の研究計画に対して、どうしても前者の視点でしかとらえられず、的外れな気づきやコメントをしてしまうことが多くありました。この点については、また改めて書きたいと思います。

この「誤った認識」が修正されるのにはとても時間がかかりました。その理由は、とにかく先行研究を読む量が少なかったからだと思います(大学院生としては論外)。するべき努力をしていないのに、どこか暇を持て余し、「これでいいのか?」という思いがふと頭をよぎったりもするのですが、家事や育児を自分の役割としてそれを果たすことで心を充足させていました。急に思い立って始めた筋トレにのめりこみ、中学校時代の不摂生がたたってできた肥満体系が改善されていくのを喜ぶ(結局今でも筋トレは続けているわけですが)。今思えば「何のために休職したのか」、というような生活を結局半年間ほど送ってしまいました。

その「誤った認識」に気付いたのは、1年生後期最初の指導教官の先生のゼミでのことでした。夏休み中の成果を発表し合う中で、私がとある学会で、さまざまな発表を聞いていて、自分がいいな、と思った発表者が必ず最後に「教育的な示唆」に触れていた、とコメントしました。それについて何人かの同級生が共感してくれましたが、その時、先生が「第二言語習得研究は必ずしも教育的示唆に結びつけなければならないのでしょうか」とおっしゃられました。もちろん答えは、「No」なわけですが、その場で、その理由が確認されることはなく、私は「?」となりました。

しかしながら、この時から、その答えを探しながら、いろいろな先行研究を読むようになりました。そして、ようやく自分がやってきたことは英語教育そのものであるが、研究対象としているのは「第二言語習得」であり、言語習得のプロセスやメカニズムを解明すを領域であることを意識することが、少しだけできるようになりました。

それからようやく必死に先行研究を読み始めました。実践ベースの発想で考える非現実的な研究ではなく、先行研究がはらむ課題を埋めるという地に足をつけた発想で、研究テーマを絞っていき、修士論文の研究計画を立てていきました。勉強不足もいいところでしたが、指導教官の先生やゼミでご意見くださった同級生や先輩方のご助言のおかげで、1年生の終わり頃に何とか形にすることができました。

修士1年の3月に、籍を置いていた中学校の管理職に呼ばれ、復職すると同時に、異動になることが告げられました。私が籍を置く自治体では、8年間しか同一校に在籍することはできないのですが、私は6年勤務(キリ良く1→2→3年を2周)して、7年目を休職しました。残り1年間は復職して、恩返しをしたいと思っていましたが、それはかないませんでした。

修士2年になり、4月に新たに赴任した学校で勤務しながら、週に1度午後休暇をとって、指導教官の先生のゼミに参加しました(修了要件の一つ)。毎週不在にする時間帯があるため、一人で担任をもつことができなかったり、他の先生の時間割を圧迫してしまったりと勤務校の先生方や生徒たち迷惑をかけることになってしまいましたが、それに報いるために、研究と両立しながら必死に働きました。

1年生の時とは大きく異なり、研究に割ける時間は、ゼミに行く日の午後と土日祝、夏休み、冬休みだけになりました(平日に学校の業務と研究を切り替えて行える能力は当時の私にはなかったので)。夏休みに大学の附属高校の生徒さんを参与者として実験をさせていただき、無事にデータをとることができました。夏休みはずっとICレコーダーの音声を聞いては書き起こし、統計処理(R)にかけて分析していました。大変でしたが、とてもやりがいがありました。何より、実験を通して、一つの理論を検証し、論文にしていく過程を知ることができました。

夏休み後は、1月の修士論文提出に向けて、土日に書き溜めては、整理して、冬休みに一気に仕上げて、提出しました。頑張って必死に読んだつもりの先行研究に対する自分の解釈が違っていたり、論文中で使用する用語の定義がぶれていたり、何より実験で得たデータが少し偏っているため、そもそも説得力がなかったり、リサーチクエスチョンに至るまでの論の絞り込みの過程が見えなかったり、本当にいろいろ足りないことがありましたが、そのあたりも親身にご指導いただき、無事に修了にこぎつけることができました。

ある意味大きなリスク(40歳妻子持ちで1年無給)を負って、進学した大学院でしたが、この1年を通して得たものはたくさんありました。中でも、大きな変化だったのは、日々の授業に取り組む時に、修士論文や大学院の授業等で読んだ先行研究の理論が頭の片隅にあり、時折、それらに照らし合わせるというプロセスが増えたことだと思います。

授業中に生徒に教科書本文を音読させる、文法事項を説明する、自己表現活動を設定する等、様々な活動場面があると思いますが、それらを生徒の言語習得に結びつけるためには、どのような工夫やプロセスが必要なのか、について経験則による感覚だけでなく、時折、理論に依拠しながら考えるようになりました。それをすることで授業の質が急に上がるというわけではありませんが、それまで英語教育関係の書籍から盗んだ手法やコツが、実はこの理論に基づいていたのかな、みたいなことを考えるのが面白かったです。

修士を修了してから、9年が過ぎようとしています。上で述べたような意識で授業を取り組む中で、中学とは違った校種で英語を教えてみたいという気持ちが強くなり、今の職場に移りました。

現勤務校では、授業の準備はもちろん大変ですが、研究費をいただけるだけでなく、何より研究する時間が中学校勤務時代とくらべるとかなり増え、とても恵まれています。そして、中学校時代の実践をアレンジしたり、理論に基づきながら新たな実践を取り入れたりする中で、研究したい内容を以前よりは絞れるようになってきました。

あと1か月あまりで新年度が始まり、博士後期課程1年目が始まります。研究計画は書いたものの、入試の時に、いろいろとご指導をいただけたので、まだまだこれからですが、博士論文提出という目標を達成できるように精一杯努力していきたいと思います。

まとまりのない拙い文章になってしまいましたが、この記事が、さらなる成長を目指して、その一つとして、働きながら大学院を目指す方々の参考になれば幸いです。

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