「コモンズ思考」を発酵させる その5 ブラジル民衆の政治的主体性、創造性----『ブラジルの社会思想』を手がかりに

ラテン・アメリカは社会思想の先進地域

『ブラジルの社会思想』(小池洋一、子安昭子、田村梨花・編、現代企画室、2022)という本を読んでみました。
 この本を手かがりにして、ブラジルの民衆の「政治的主体性」「政治的創造性」について考えて見たいと思います。

 『ブラジルの社会思想』は20章からなり、ブラジルの社会思想を語る上で重要な20人の人物を選んで、それぞれが果たした役割について論じています。ここでは、その中で、政治と社会運動の文脈で注目すべき人物に焦点を合わせることにします。

 2022年11月のブラジル大統領選挙では、ルーラがボルソナロに僅差で勝って、政権を奪還することができました。
 ボルソナロ政権は、アマゾンの熱帯雨林の開発を促進するなど、労働者党政権下での改革を逆転させる政策をとりました。

 ルーラの労働者党は、さまざまな社会運動の連合体のような性格をもっていますが、ボルソナロ政権の4年間の揺り戻しはあったものの、今回のルーラの勝利によって、ブラジルの民衆は社会を自分たちの手で少しずついい方向に変えていける、そういう自信をもつようなっているように見えます。

 この自信は、軍事政権(1964-85)の圧政に抗して、さまざまな分野の社会運動が力をつけ、横断的な連携を深めていく過程で、民衆の政治的主体性と創造性が高まってきたことからくるのだと思われます。

 日本では、社会思想において欧米が先進国だという意識が強く、ラテン・アメリカの社会思想には目を向ける人はほんどいませんが、これはおかしな錯覚です。
 拙著『コモンズ思想をマッピングする』では、世界各地のコモンズ的活動の優れた事例を集めましたが、ラテン・アメリカの事例が多数をしめることになりました。この作業からよくわかったのは、ラテン・アメリカは社会思想の先進地域だということです。

 拙著ではブラジルについては、MST(土地なし農民運動)を詳しくとりあげたのですが、この稿では、MSTを含むさまざまな社会運動とブラジル民衆の政治的主体性、創造性の関連を考えてみることにします。

中道左派カルドーゾ政権と左派ルーラ政権の連続性

 社会運動の活性化を通じて民衆が鍛えられていく過程をたどっていく前に、中道左派のカルドーゾ政権と左派のルーラ政権の関係について触れておくことにします。
 ルーラは2002年の選挙に勝って大統領に就任しますが、前任者のカルドーゾの政権と政策的な連続性が高いと言われます。さまざまな分野の社会運動と左派政権の関係を考える上で、まずこの点をおさえておきたいと思います。

 左派のルーラ政権の経済政策は、その前のカルドーゾ政権のネオ・リベラリスト的な政策を多くの点で引き継いでいるようです。

 軍事独裁政権の圧政の下で、多くの政治家、知識人が国外へと亡命しました。軍事政権の末期、民政への移行過程で、亡命者たちが戻ってきて、新たな政治経済システムづくりをめざして、さまざまなグループができて、理念や政策についての模索が重ねられてきました。

 フェルナンド・エンリケ・カルドーゾは亡命先から戻ってきた知識人の一人ですが、『ブラジルの社会思想』第9章では「緩く真摯な変革者」(受田宏之)と評されています。変革者としての理念をもつとともに、現実の制約のもとで実現可能な道を見つけようとする「柔軟性」の高さを「緩い」という言葉で表現しています。

 カルドーゾは蔵相として、1994年レアル・プラン(新通貨レアルの導入、通貨の変動幅の維持、緊縮財政)を浸透させ、慢性的なインフレの沈静化に成功しています。その成果が評価されて、大統領になっています(p.214)。
 民政移管後の政権は、1980年代末にそれまでの工業製品などに高い関税をかけて国産化を促進しようとする輸入代替策から、関税を下げ、公営企業の民営化を進め、外国資本の投資を促進するネオ・リベラリスト的な政策への転換をはかっています。中道左派のブラジル社会民主党のカルドーゾ政権(1995-2002)も、民営化を積極的に進めるなど、基本的にこの路線に沿った経済政策をとりました。

 ルーラの労働者党は、さまざまな社会運動の指導者たちを束ねる党としての性格をもち、カルドーゾのブラジル社会民主党が中道左派であるのに対して、左派政党です。
 ルーラは大統領選挙で敗れる経験を3回した後に、4回目にようやく勝者となることができました(第10章 子安昭子)。
 4回目には、副大統領候補に財界に顔がきく人物を選ぶなど、経営者団体の警戒心を解く努力をしています。労働組合運動のリーダーとして貧困層の支持を得るとともに、経済運営の面でも信頼できるというイメージをつくることで、幅広い票を集めることができました。

 こうした選挙の闘い方からもわかるように、大統領に就任後のルーラの経済政策の大枠は、カルドーゾの政策を引きつぐものでした。
 貧困層への支援に重点をおく左派政党の選挙公約を部分的にせよ実現するためには、財政支出の増加が必要になりますが、それを可能にするには、国民経済の成長を維持し、国際収支の悪化や過度のインフレを防がなくてはなりません。

 つまり、経済政策の面での制約は、中道左派政権でも左派政権でも同じなので、前政権で経済運営が比較的うまくいっていたとすると、左派政権は、その政策の大枠を継承することになります。
 そういう事情を考えると、左派政権が成立しても実際にできることは限られているので、あまり大きな期待を持たない方がいいという言い方もできます。

 軍政の末期に、さまざま社会運動の指導者や知識人が合流して労働者党が結成され、ルーラが何度も選挙に敗れ、ようやく4回目で大統領になったものの、できることは限られているとすると、それまでの活動が無駄骨だったようにも見えてきます。しかし、それは誤解でしょう。
 軍事政権の圧政に抗するさまざま社会運動の成長の過程や、異なる社会運動の間の連携が進む過程、そうした過程での民衆どうしの対話を通じての視野の拡大、指導者たちの能力の向上などこそが、もっとも重要な達成なのだと考えることができるでしょう。
 そうした力の蓄積とともに、さまざまな社会運動が横断的に連携することを通じて、左派政権かどうかとはあまり関係なく、社会改革のかなりの成果があがっています。左派政権の下では、成果があがりやすくなる場合もあるし、逆の場合もあるようです。
 
 さまざまな分野の活動の成長の過程について、『ブラジルの社会思想』の中から、具体例を抜き出してみましょう。

 社会運動と労働者党

 労働者党は、軍政の末期の1980年に、労働運動の指導者、解放の神学のカトリック教会の牧師、海外に亡命していた知識人たちを中心にして結成された社会主義政党で、スターリニスト的な旧左翼に対して批判的な人たちの集まりでした。
 知識人には、教育学者のパウロ・フレイレ、歴史学者オランダが含まれています。

 「キューバ化」を恐れる米国政府の支援を受けた軍事政権は、リベラルな知識人やジャーナリストの口を封じ、ボトム・アップ的な社会運動を抑圧することに力を入れました。この圧政を終わらせるために共に闘おうとする人たちによって、労働者党が結成されたと言えるでしょう。

 軍政のもとでの貧富の格差の拡大や環境破壊に抗する社会運動がさまざまな分野で活発になる同時に、異なる分野の社会運動の協力関係がつくられるようになっていきます。そうした中で、さまざまな社会運動を束ねる役割を労働者党が果たした面があるようです。

 さまざまな社会運動とは、労働運動、MST(土地なし農民運動)、ゴム採取人の運動、先住民運動、自治体における参加型予算などです。それぞれの運動が、軍事政権との闘いを通じて、民衆の主体性と創造性を高めていきました。

労働運動の指導者ルーラ

 まずリーダーとしてルーラが重要な役割を演じた労働運動について。『ブラジルの社会思想』の第10章の中には「新しい組合主義」という小見出しの箇所があります。「新しい組合主義」とは、従来の「組合国家協調主義(コーポラティズム)」から脱して、ボトム・アップ的で自発的な労働者の組織としての労働組合をつくり直していこうとするものです。

 軍事政権下の68-74年「ブラジルの奇跡」と呼ばれる高い経済成長が実現し、賃上げや労働条件の改善を求める労働運動が活発になります。ストライキが禁止されているなどの条件下で、自動車工場の中で座り込みを行うなど、ルーラはたくみな戦術をとり指導力を発揮しました。

 ストライキ禁止法と闘うためには、労働者のための政党が必要だと、ルーラは考えるようになったと言います。
 民政移管後の1986年にルーラは下院議員に選出され、制憲会議に参加し、週44時間労働、ストライキ権の保障などを書き込んだ88年憲法の起草に関わることができました。

MST(土地なし農民運動)

MST(土地なし農民運動)については、『ブラジルの社会思想』ではあまり重視されていません。拙著『コモンズ思考をマッピングする』でMSTについて詳しい紹介をしました。その作業の出発点として、『抵抗と創造の森アマゾン』(現代企画室)の中の印鑰智哉さんの論文を活用しました。

 MSTの運動は、軍事政権下で農地から追い出された小農や農業労働者が農地をとりもどす闘いで、ブラジルの民衆が政治的な主体性、創造性を身につけていくプロセスとして代表的なものの一つです。土地なし農民、農業労働者のグループが遊休農地を占拠するという激しい闘いです。
 運動の初期には、解放の神学のカトリック教会関係者からの支援が大きな力になったことも注目されます。

ゴム採取人の森林破壊との闘い---シコ・メンデスとマリナ・シルヴィア

 軍事政権は、民間資本によるアマゾンの大規模開発を促進する政策をとりましたが、それにともなう伐採森林破壊に反対して闘ったのは、ゴム採取人や先住民たちでした。
 第15章(石丸香苗)に、ゴム採取人から環境保護の活動家になったシコ・メンデスとその志を引き継いだマリナ・シルヴィアがとりあげられています。

 ゴム採取人は、アマゾンの森に自生するパラゴムノキに傷をつけ白い樹液(ラテックス)を採取する作業をする人たちです。ラテックスがゴム原料となります。1870年 代にはゴムの需要が高まり、ブラジル北東部の貧困層の人たちを前貸金負債制度によって森の中に送りこみ搾取するゴム産業が繁栄しました。しかし、第2次大戦後にはゴム産業は衰退し、それとともに、ゴム採取人たちは森の中にとり残されることになりました。彼らは、ゴムやブラジルナッツを集めて細々と暮らすようなります。

 軍事政権下でアマゾンの大規模な開発政策がとられるようになると、ゴム林の所有者から森を買いとった投機家や牧場主が森を伐採し焼き払うようになります。それに対して、採取人たちのグループが武装して、伐採業者たちを追い出す闘いがはじまります。

 そうした中で、シコは、開発の大きな波に対抗するには組織的な活動が必要だと考えて、労働組合の設立に加わります。シコがこうした活動を進めていく上で、労働者党の議員には失望し、「解放の神学」のキリスト教基礎共同体から大きな力をえました。

 こうした森林伐採との闘いを進めていく過程で、この運動をアマゾンの生態系の保全という世界的な環境保護の一環として位置づけられることを、シコは意識するようになります。
 それまでは、採取人たちは先住民たちと対立関係にありましたが、アマゾンの生態系の保全という共通の目標のもとに協力しあうことが、互いの利益になると考えるようになります。

 シコは、学校もないアマゾンの森の中で育ちましたが、社会運動の指導者となっていく批判的思考力を身につけるきっかけは、革命ゲリラの将校だったタヴォラとの出会いだったと言います。シコはタヴォラから読み書きを学ぶとともに、海外のラジオや新聞の政治欄を教材にして、富裕層による貧困層支配の仕組みを学びました。

 マリナ・シルヴィアは、ゴム採取人の貧しい家に育ったものの、森林と人々の暮らしを守るための闘いを通じて、2003年にはルーラ政権の環境大臣のポストに就いています。

 16歳の時のマリナは、マラリア感染と肝炎、水銀中毒の疾患で希望を失い、修道女になりたいと思っていたと言います。リオブランコの町に出て、小学校に通い、キリスト教基礎共同体に参加するようになります。そこで、シコと出会い、すすめられて採取人の抵抗運動に関わるようになり、修道女になり祈りを捧げるより、志を同じくする仲間と社会正義を求めることが進むべき道だと考えるようになります。

先住民運動の指導者ラオニ

 第13章(下郷さとみ)には、アマゾンの森を守る先住民運動のカリスマ的なリーダー、ラオニ・メトゥティレがとりあげられています。

ラオニはカヤポ民族の大長老ですが、彼らはかつて他の民族から勇壮豪胆な戦士として恐れられていました。しかし、アマゾンを開拓し、森林を伐採し、牧場にしようとする入植者とそれを後押しする政府との闘いを通じて、先住民どうしの連携が重要だと考えるようになりました。

 「私が若い頃は民族間の争いがあった。しかし、そんな時代は終わった。我々は共通の敵に立ち向かっている。敵とは、森を破壊する者たちだ。民族の違いを超えて力を合わせよう。森を守れ」(p.303)

とラオニは語っています。
 ラオニたちカヤポ民族が非先住民との接触を受け入れたのは、1953年のことだと言います。政府がアマゾン奥地に派遣した探検隊の多くは、先住民族に対して強い蔑視観をもつ人だったと言いますが、ラオニたちが出会った探検隊のヴィラス=ボアス兄弟は例外で、先住民族への敬意を持ち、彼らの伝統文化の保存、文化の源泉であるシングーの森の保護に熱心でした。ラオニはヴィラス=ボアス兄弟からポルトガル語を学び、非先住民社会がどのようなものか学びました。
 この学びによって、カヤポの土地の権利の保障などについて外部の社会に訴えるとともに、他の先住民族との対話を深めることが可能になりました。 

先住民族の権利が法的に明文化されたのは、軍事政権からの民政移管後の88年の新憲法でした。制定会議には、先住民自身の手による起草案も提出され、これが憲法の条文に反映されたと言います。

 社会運動で鍛えられたブラジル民衆の政治的主体性と創造性

 このように各分野の社会運動が、軍事政権の圧政との闘いを重ねる過程で、ブラジルの民衆は鍛えられ、政治的な主体性と創造性を高めていったのではないかと思われます。
 この過程にはどのような要因連関があったのか詳しい考察が必要だと思いますが、ここで紹介した例だけでも、いくつかの重要な点が読みとれます。

 一つは、民衆どうしの対話を通じて、視野が拡がり、それまで敵対していたグループ間で協力関係をつくり、本来の敵との闘いに力を結集できるようになっていったということがあります。

 もう一つには、闘いの過程で、民衆の中から、批判的な思考力と優れたリーダーシップをもつ指導者たちが育ってきたということです。貧しい労働者の家庭で育ったルーラ、ゴム採取人のシコとマリナ、カヤポ民族のラオニなどです。いずれも、学校教育ではなく、町工場や森に蓄えられた経験と知恵に支えられている人たちです。

レオナルド・ボフの解放の神学

 軍事政権に対するブラジル民衆のボトム・アップ的な闘いが進む過程で、特徴的な点の一つは、カトリック教会の「解放の神学」のキリスト教基礎共同体が大きな役割を果たしたということです。

 第6章(乗浩子)で、「解放の神学」のレオナルド・ボフがとりあげられています。
 軍事政権が権力を掌握した当初、カトリック教会は軍政を支持する立場をとっていました。しかし、獄中のカトリック労働者に対する拷問など、圧政に対する批判が教会の中でも高まっていきました。そして、71年にブラジル全国司教協議会(CNBB)の指導部が進歩派に移り、ラテンアメリカにおける貧困と不平等を「構造的暴力」「罪の状態」ととらえ、社会変革への参加を促すようになります。こうした流れの中から、「キリスト教基礎共同体(CESs)」の設立が進められていきます。信仰の共同体であるとともに、日々の暮らしを改善していくための方法について語り合う共同体です。

 しかし、キリスト教基礎共同体の内部でルーラの労働者党への支持が広がると、教会の保守派の警戒心が高まりました。
 その結果、「解放の神学」の思想を深化させようとしたレオナルド・ボフの著作に対してバチカンから横槍が入り、彼はローマに召喚されます。ブラジルでの民政移管の時期に、バチカンとボフの間の緊張関係がつづき、結局、彼はカトリック教会から離れることになります。

パウロ・フレイレの教育学

 さらに、注目に値するのは、ブラジル民衆が政治的な主体性、創造性を高めていく過程で、パウロ・フレイレの教育学がきわめて大きな役割を果たしているという点です。
 フレイレについては、第5章(酒井佑輔)でとりあげられています。

フレイレが注目されるようになったのは、独特の識字教育を通じてでした。60年代はじめのブラジルでは、国民の約4割が非識字者で、彼らには法律で投票権が認められていなかったため、識字教育が大きな課題でした。
 フレイレの識字教育は、民衆が単に読み書きを学ぶだけでなく、自分たちをとりまく社会状況を解読できる政治的リテラーシーを身につけられるように、工夫が凝らされています。
 リオグランデドノルテ州の貧しい農村地区アンジコスでは、約300名の住民が40時間の識字教育プログラムに参加し、のちに「アンジコスの奇跡」と呼ばれるようになる成果をあげたといいます。

 フレイレの識字教育は、民衆の政治的な主体性を高めることを意図したプログラムだったので、保守層や軍部から見ると好ましくないものでした。
 1964年軍事クーデターが発生すると、フレイレは投獄されてしまいます。その後、彼はチリや米国などで亡命生活を送ることになります。その期間に『被抑圧者の教育学』などの著書が執筆されました。

 解放の神学のキリスト教基礎共同体、MST,LVC(La Via Campesina:農民の道)などラテン・アメリカのあらゆる分野の活動家たちが、フレイレの教育思想から多くを学んだと語っています。

 軍事政権に圧政に抗する社会運動が各分野で活発化していきますが、その過程で民衆が鍛えられ、政治的な主体性、創造性を高めていきましたが、フレイレの教育思想は、そうしたプロセスを支援する役割を果たしたのだと思われます。

 民衆が抑圧者たちの支配に黙々と服することがあるのは、抑圧者たちがつくった神話的な社会像を信じ込まされるからだと、フレイレは考えます。そうした神話的な社会像から脱するには、民衆どうしの「対話」を通じて批判的な思考を身につけていく必要があります。

フレイレは「対話」という概念を重視しますが、それは、自分たちと社会の関係についての捉え方、考え方をたえず組み替えなおし深めていく力を、「対話」がもっているからです。
 フレイレのいう「対話」は、民衆どうしの「対話」であると同時に、社会運動などの指導者と民衆との「対話」です。指導者も、民衆との「対話」を通じて、自分の考え方を絶えず組み立て直さなくはいけないことが強調されます。

 こうした点に注目すると、各分野の社会運動の活性化を通じて、民衆の政治的主体性、創造性が高まっていく過程で、フレイレの思想が重要な役割を果たした理由を納得できるでしょう。

参加型予算

 『ブラジルの社会思想』ではとりあげられていないのですが、ブラジルの民衆の政治的な創造性という点で重要な事例として、ポルトアレグレ市から始まった参加型予算があります。参加型予算は1989年に始まりますが、そのきっかけは、貧困層の支援に重点をおいた政策を公約にして労働者党の市長が誕生したものの、市長に就任してから市の厳しい財政事情を知ったことにありました。そこで、限られた財源を何に重点的に配分すればいいか、各地区の末端から討議を積みあげていく方式をつくることになりました。そして、市の財政についての情報などを公開して、各地区の代表者たちにじっくりと討議を重ねてもらうやり方をすると、貧困地区の公衆衛生の改善など緊急性の高い項目に重点的に支出することに富裕な地区の代表も賛成する、という結果になりました。

Deliberative Democracy(深い対話に基づく民主主義)が実現した優れた例と言えます。

 世界社会フォーラムとシコ・ウィッタケル

2001年1月にポルトアレグレ市で、世界の無数の市民社会組織が集まる祭典、世界社会フォーラムが開催されますが、開催地に選ばれたのは、参加型予算の成果が高く評価されたからです。
 世界社会フォーラムを企画した中心人物の一人であるシコ・ウィッタケルについては、第16章(田村梨花)でとりあげられています。

ウィッタケルは建築家の職能を土台にしながら、社会運動家として活躍するようになった人です。
 ウィッタケルも軍事政権時代にフランスで亡命生活を送っています。帰国後、民政移管の時期に、憲法草案への市民参加を要求する憲法制定サンパウロ人民会議の設立に関わります。この運動を通じて「人民発議の原則」が憲法起草の手続に組み込まれ、憲法案、人民修正案が民衆からたくさん提案されることになりました。

「ブラジル各地の州から人々が押し寄せ、署名を集めた法案の山積みの紙の束がどんどんブラジリアの議会に持ち込まれる様は、実に壮観であり、人々の政治参加を実感する瞬間だった」

とウィッタケルは述べています。 
 こうした経験を経て、ウィッタケルは労働党所属のサンパウロ市議会議員に選出されます。しかし、政治家になって、ブラジル政界に深く根をはる深刻な腐敗を知ることになり、「権力の外に出て、市民社会を強化する仕事をしよう」と考えるようになり、市議会議員を辞職します。
 そしてブラジル正義と平和委員会の事務局長となり、憲法14条の人民発議を活用し、100万超の署名を集め、「収賄禁止法」を成立させることができました。

 世界社会フォーラムのアイデアは、ブラジル人企業家で企業の社会的責任に関する活動をしていたグラジェウがウィッタケルに「ダボスの世界経済フォーラムに対抗する世界社会フォーラムという会議を開くべきではないか」と話したことに始まります。この二人とカッセン(ル・モンド・ディプロマティーク編集長)の間の議論を通じて、構想が具体化していきました。
 ダボス会議と同日に、南の国のブラジル、参加型予算で注目されているポルトアレグレ市で開催するというシナリオです。

 2001年1月に第1回世界社会フォーラムが開催され、「もう一つの世界は可能だ」というスローガンの下に、ラテン・アメリカをはじめヨーロッパ、北米、アジア、アフリカから2万人が参加しました。

 注目に値するのは、この「フォーラム」についてのウィッタケルの設計思想です。ここには、ネオ・リベラリズムと闘う各地の市民組織や運動体、個人が集まって、さまざまなテーマについて討議をするわけですが、その後でフォーラムとしての「宣言」を採択する、ということはしないという考え方です。フォーラムは「運動」ではなく「空間」であるべきだとします。参加するさまざまなグループどうしの「思想の民主的な討議、さまざまな提案の作成、経験の自由な交換、---つながりあうための、開かれた集いの場」であるべきという考え方です。「世界を変えるために闘う者たちの結節点を増やす」ことを促す「空間」です。

 このコンセプトには、「政治」と「市民社会」の関係についてのウィッタケルの経験と思想が反映されているのでしょう。

 



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