「もしもそうじゃなかったら」を考える
すでに誰かが書いた台本なり楽譜なりを元に表現をスタートさせる僕ら再現芸術家は、ともすれば「原典主義」になりがちです。
いや、いいんですけどね。元のスコアやスクリプトを大切にする、尊重するということは僕らのような仕事においては、初歩の初歩として持っているべき姿勢です。
けれど、楽曲なり役なりにアプローチしていく過程では、「それ以外の可能性はなかったのか」ということに思いを馳せることも重要なんじゃないかって、僕は思っています。
劇作家や作曲者は、相当な時間をかけて(まあ、ロッシーニみたいな人もいるけど)その作品を生み出しています。
セリフのひとつ、音符のひとつに、作者の熟考の末の選択が宿っています。
だから僕らとしては、「なぜそうしたのか」「なぜそのようになっているのか」を考えていくわけですが、
そのときに、「すでにあるそれ」にばかり向き合うのではなくて、「そうじゃなかったかもしれない可能性」について考えてみることも、有効的な思考方法だなと思っています。
そうやって「他の可能性」を考えた上で、原典を尊重するという経路を取ると、目の前にある台本なり楽譜に、より深い敬意を抱くことができるようになるなーと、僕は感じています。
例えば。
有名な「オズの魔法使い」という作品の中の「虹の彼方に」という曲。
その歌い出しの「Somewhere」という歌詞には、オクターブ跳躍する音符が使われています。「Some」と「where」には、「ド→ド」という完全8度の隔たりがある。そしてどちらも2分音符です。
もしこれが「ソ→ド」という、完全4度の跳躍だったとしたら。あるいは、跳躍しない「ド→ド」の完全1度だったとしたら。
完全4度とかでも、まあある程度は成立する気はするんだけど、「(どこか遠く遠くの)虹の彼方に」というドロシーの視線や思いの飛び立つ距離は描けてない気がします。
やっぱり、完全8度という跳躍だからこそ、「むかし子守唄で聞いた国が、どこか虹の向こうの空高くにあるはず」というドロシーの健気で切実な思いが表現されると思うのです。
例えば、もしも
ウェストサイドストーリーの冒頭のテーマが「ソ→ド→ファ#」ではなく
「ソ→ド→ソ」だったら。
レ・ミゼラブルの「On my own」と「I dream a dream」と「Stars」が
カノン進行じゃなかったら。
ライオンキングの「Be prepared」がタンゴのリズムじゃなくて
ワルツやサンバのリズムだったら。
こういう、「じっさいの作曲家や劇作家はそうしなかったけれど、こんな可能性だってあったよね?」という選択肢を考えてみることで、「なぜそうなっているのか」についてのより深い考察を得ることができたりします。
ちなみに、いつも一緒に芝居をやっている仲間たちがいま、「1週間でウェストサイドを作る!」っていうワークショップを開催しているのですが、僕は参加できてなくてやきもきしているのです。
僕はバーンスタインが大好きだから、たとえばウェストサイドだったら
マリアとトニーが歌う「Tonight」はなぜあれだけドラマチックなラブソングなのに、ハモりをほぼ書かずにユニゾンなのか、とか
「I feel pretty」はなぜ歌い出す瞬間に下属調転調するのか、とか
「America」はなぜ3拍子系と2拍子系を交互に移動するのか、とか
終幕にモチーフとして演奏される「Somewhere」の主題に対して低音部が鳴らす音が、なぜ主調に対する増4度なのか、とか
いっぱいいっぱい考えたい点があるんですーーーーー!!!!
そういう視点で見ていくと、「ジャージーボーイズ」っていう作品も、とっても興味深く、緻密に作られているということがわかります。
ある地点までは「Ⅰ→Ⅵ→Ⅱ→Ⅴ」というシンプルなコード進行でほとんどの楽曲がすすんでいるのに、
ボブ・ゴーディオがフランキーたちと出会うシーンでは、ボブ自身の演奏するピアノによって「B♭7+5」という和音が象徴的に鳴り響く、とか。「ジャージーボーイズ」の世界に、新しいサウンドが加わる瞬間。
ってことで、
今日も僕はがんばってジャージーの稽古に行ってきますー!!!!
読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。