「ファン」とは。


先日開設した質問箱には、なんとも面白い質問が集まってきています。

すべてに、リアルタイムにお答えすることが難しいくらいに、返答する側にも熟考と誠意ある文章を書く時間的余裕が必要な類いの、心を動かされる質問ばかりです。

スラスラと、なるべく早くお答えできれば、と思うのですが、まあそういった事情でご返答までにお時間をいただくことが予想されます。僕のできる範囲で、ちゃんとお答えはしたいと考えています。

さて、そんなこんなで今日とりあげるのはこんな質問です。

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ご質問、ありがとございます。

なんとも率直で、なんとも難解な質問です。でも、一所懸命答えてみます。


まず、質問が2つに分かれていますね。

ひとつは

あなたの考えるファンとは。

もうひとつが

あなたにとってのファンとは。

ううむ・・・。


字面だけをおってみると、なんとも、大喜利のお題のような問いの投げ方のようにも感じるけれど、僕はこの短い2つのご質問の向こう側に、なんだか切実な思い、みたいなものを感じました。僕の思い過ごしかもしれないけれど。

ひとつずつお答えしてみましょう。


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「あなたの考えるファンとは。」


なかなかの難題です。「あなたの考えるファンとは。」ときましたか。

じつは、このご質問をいただいてから数日経っているのですが、そのあいだ折に触れこの問いについて考えてみたのです。

考えた結果、「僕にはこの問いに答えるべき言葉が見つからないな」という答えにいきついたのです、一度。

何故ならば、僕が、人の前に立つ仕事をしているから。


僕も、表現の世界に身を置いている人間のひとりです。そして、そんな僕のことを応援してくださる方も、ありがたいことに少なくない数います。

そんな立場にいる僕が、その立場から「僕の考えるファンとは。」を定義することは、「僕がファンとは考えない人。」という存在を生み出してしまう危険性があるな、と感じたのです。

もしそういうことが起きるとしたら、とても不本意です。だから、このひとつめの質問に対しては「答える言葉が見つからないな」と思ったわけです。


でも、ちょっとだけ自分の考えとの距離を置いてみました。すると、気づいたことがあったのです。

そうだ、僕、表現者ではあるけれどそれ以前に、「ファン」だわ。

* * * * * *

僕自身も、ファンなのです。

たとえばさだまさし。たとえば榛野なな恵。たとえば武藤敬司。たとえば村上春樹。辰巳芳子。小林秀雄。池田晶子。アル・パチーノ。ハロルド・ピンター。ポール・ボキューズ。小林幸司。ポール・オースター。幸田文。直野資。カルロス・クライバー。レナード・バーンスタイン。ステーヴィン・ソンドハイム。ジョエル・グレイ。

いくらでも出てきますが、僕はたくさんの人の、ファンです。

どちらかといえば、熱烈なファンではないかもしれません。

このような人たちの生み出す創作物や出版物をすべて買い集めているわけではないし。コンサートやライブや、直接会える機会を追っかけているわけでもない。

でも、間違いなく、僕は彼らの、彼女らのファンであります。


僕は彼ら彼女らから、人生のある時期に、とても大きな贈り物をもらいました。

その人の生き方、その人の考え方、その人の放つ言葉から大きな影響を受け、その人たちの仕事に魅了され、また、仕事から垣間見れるその人自身の人柄にも心惹かれました。

そういう瞬間に得たものは、確実にその時の僕を救い、慰め、奮い立たせ、時には叱咤し、僕という人間の細胞のひとつひとつに組み込まれていきました。

いまの僕がこのようなかたちで存在できているのは、僕が彼ら彼女らの「ファンであったし、いまもまだファンである」ということに多くを起因しています。

僕はいま、熱烈なファンではないけれど、でも確実にいまもまだファンであり続けています。なぜなら僕は、上に挙げた人々のことを、忘れることがないからです。

もちろん、四六時中その人たちのことを考えているわけではありません。でも、ふとした瞬間、あるいは追い込まれたときに思い浮かべるのは、さだまさしの曲の一節、レナード・バーンスタインの眼差しのひとすじ、池田晶子の言葉の一片です。

僕は長らく、そういったものたちに支えられて生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだと思います。


ひとつめの問いに立ち戻りましょう。

「あなたの考えるファンとは。」

僕の考えるファンとは?


「ある存在からある瞬間に”何”かを受け取り、その”何か”によって支えられて生きている存在のこと」

でしょうか。


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あなたにとってのファンとは。


ふたつめの問いに移りましょう。

これに答えるためには、いままさに実感を持っている出来事について書けばいいのだと思う。


どうやら、僕のことを、「好きだ」と言ってくださる人が少なからずいるようなのです。

僕のコンサートや舞台に足を運んでくださり、僕宛の手紙を送ってくださり、僕の日々の情報発信を楽しみにしてくださり、僕のチャレンジを応援してくださる方たちが、少なくない数いるのです。なんと有難いことでしょうか。

僕はそういった思いを傾けてくださる方たちを、喜ばせたいなと思っています。

「喜ばせたい」というのは、なんというか、全員に山梨の桃を送るとか(山梨はいま桃のシーズン!)、出会ったときに片っ端からハグとキスを贈るとか、コンサートのチケットを買ってくださった方から抽選で商品券をお渡しするとか、そういうことではなく。

僕がチャレンジを続け、表現者として大きくなり、表現の奥行きや色彩も身につけ、人間としてもより魅力を放ち、キャリアも積み重ねていくことで、喜ばせたいなと思うのです。たぶん、みんな、そうすることで喜んでくれると思う。もちろん、桃も商品券も嬉しいだろうけど。笑

その、「応援してくださるみんなをもっと喜ばせたい!」「応援してくださることへの恩返しがしたい」ということが、僕の活動のモチベーションになっているのです。かなり大きな比率で。

「いつも見ていてくれる人がいる」ということの心強さを、ここ数年実感しています。


だから、ある意味では、ファンの存在こそが、表現者としての山野靖博を支えてくれているといっても過言ではない。

僕が頑張れるのは、ファンのみなさんがそれぞれの方法で、僕へ愛を送ってくださるから。その愛に支えられて頑張れている、みたいなところがあるみたいです。


「あなたにとってのファンとは。」

僕にとってのファンとは、

「僕が「喜ばせたい!」と思う人たちのこと。僕を支えてくれるあなたのこと」

です。


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支え合う存在たち


答えが出揃いました。

あなたの考えるファンとは。
 →
「ある存在からある瞬間に”何”かを受け取り、
   その”何か”によって支えられて生きている存在のこと」

あなたにとってのファンとは。
 →「僕が「喜ばせたい!」と思う人たちのこと。僕を支えてくれるあなたのこと」
 

なんと、どちらにも「支える」という言葉が・・・。


人間って面白いですよね。

月並みな言い方だけど、人はひとりでは生きていけない。とはいえ、いつも自分じゃない誰かと一緒に居続けられるかといったらそんなことはない。ひとりの瞬間も必要だったりする。

どれだけ世話になった間柄でも、誰しもがその関係を丁寧に大切にし続けることができるかといったらそうじゃない。

親や、恩師や、上司や、先輩や、恋人や、配偶者と、本当は大切にしたかった関係があったのにうまくいかなくて、状態がこじれたままになっているという人、本当にいっぱいいると思います。


にも関わらず、ファンとアーティストというかたちにおいては、なぜだかわからないけれど、お互いにお互いを「支え合う」ことができたりもする。

ファンはアーティストから生きるエネルギーを受け取り、アーティストもファンから活動し続けるエネルギーを受け取る。

とても繊細で、非常に稀有で、驚異的に強いつながりが、赤の他人であるはずの人々の中に生まれる場合がある。これはいったい、どういうことなんでしょう。


僕が、僕自身を応援してくださるファンのみなさんを支えられているかはわからない。いつも、そうであれたらいいなと思っているし、そういう存在になれるように頑張ろうと思っている。

一方で、僕自身がファンのみなさんに支えられていることは、疑いの余地もない事実です。特に、Twitterや手紙や質問箱に送られるみなさんからの言葉には、強く勇気付けられています。僕は、ひとりじゃないんだ、と感じられる。


「こうでなければファンじゃない」という意味での定義は、どこにも存在しないのだと思います。

だからこそ、それぞれの場所で、それぞれの人たちが、自分の頭で考え、自分たちなりの答えを見つけていく必要があるのだと思います。


いい質問を、ありがとうございました。






読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。