「怖い」ならば「怖い」でいい


僕は「音程」が怖い。

大学で音楽の専門教育を受けたけれど、その頃からのコンプレックスとして「自分はピッチが悪い」という自己認識と、「ハモるのが苦手だ」という自己認識がある。


だから、可能な限り「ハモる」みたいな場面を避けて生きてきたのだけど(嫌なことは避ける主義。笑)、ジャージーボーイズはコーラスワークが重要なキーとなっている作品だったので、2016年の夏はずいぶんと苦しんだ。

そこから僕もいろいろな経験をして、「ハモる」ことに少しは慣れてきたかなとも思うけど、でも、自分の中のコンプレックスに起因する「恐怖」みたいなのは未だに拭い去れない。


もうひとつ、「踊ること」にもコンプレックスがある。踊るのが苦手だっていう自己認識が強い。そもそも、カッコよく動けない。それに体も固い。筋力がないから姿勢を保ったりするのも苦手だ。

だから、ミュージカルの仕事をしていても、なるべく踊らないようにと思っているのだけど、そう単純に物事は進まない。

こっちが苦手と思っていようがどうであろうが、「踊ってください」という場面はやってくる。

「ハモってください」も同様だ。そいつは向こうから、こちらの意思と関係なくやってくる。


問題は、そのときにどうするか、だ。

「怖い」を捨てろっていう考え方もあるけど、僕はそうじゃない。

「怖い」ならば「怖い」でいいと思う。

大概、自分の苦手なことを目の前にして「怖い」と思っているときって、身体は固まるし、脳みそもいつもの20%ぐらいしか稼動しないし、挙動不審になるし、なんなら見栄を張っちゃうみたいな傾向も出てくる。

そういう、なんだか情けない自分を「情けないなー」って心の中で苦笑しつつも、とりあえず飛び込んでみるのだ。下手でも、惨めでもいいから。

「怖いから怖さを封印してやる」のじゃなくって、

「怖いけど、やる」のだ。「怖いままやる」のだ。


それで大失敗をしたところで、いつかは笑い話になるだろうと思っている。

それに、怖いからと何もしなかったら自分は「現状維持」だけど、飛び込んでみて失敗するなり成果を得るなりすれば、なんにせよ「プラス1」ぐらいにはなる。

めまぐるしく変化していくこの世の中において、現状維持すなわちマイナスだ。

失敗でもなんでもいいから、新しい経験を重ねていったほうが面白い。



音程を取るのが苦手な僕は、現代曲を避けて生きてきたけど、それにもかかわらず過去2回、現代音楽のオペラのタイトルロールを歌ったことがある。血反吐を吐くぐらいしんどかったし、うまくできた自信なんてないけど、やった。

「もう二度と、複雑な音程のある曲はやらないぞ」って決心したのに、いま取り組んでいる舞台では相変わらず、複雑なハーモニーを持った曲が、向こうの方からやってきた。もう、しょうがない。やるしかない。


「怖さ」は、未知であるという思いや、自分にとってコントロールできないものだっていう印象に結びついていることが多い。

であるならば、「怖いもの」を知ろうとしたり、それをコントロールできるように向き合い、取り組み続けることができれば、怖さはどこかでなくなるはずだ。

知ること、向き合うこと、というのは、その対象をまっすぐそのまま見つめることだ。だから「怖いもの」に向き合うときには「怖さ」に蓋をすることができない。

蓋をしたら、「その対象をまっすぐそのまま見つめること」にならないからだ。


人生とは、かくも非情なものである。

僕はただ、楽しく生きていきたいのだ。

なのになんでこう定期的に、「怖いもの」との対面を強いてくるのだろうか。

でも、しょうがない。やるっきゃないのだ。「怖いけどやる」のだ。

これが、どうでもいいもののためだったら、僕はスタコラサッサとすぐさま逃げているけれど、そうじゃないから。表現のためだから。舞台や音楽のためだから。


表現のためなら怖いことも楽しくないことも受け入れようとしちゃうって、なんて厄介な性格なんだろうと思う。ほんとに。


読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。