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古典作品を現代に置き換えることについて考えてみた


こんなインタビュー記事を読みました。

日生劇場によるオペラシリーズの、2018年度プロダクションである「コジ・ファン・トゥッテ」の演出をされる、菅尾友さんのインタビューです。

出演者のSNS、日生劇場の情報発信内容、このインタビューなどなど、そういったものを読む限り、意欲的な、面白いプロダクションなんだなーと期待が高いです。

大学時代の先輩なんかもたくさん出ているし、僕としてはとっても注目しているのですが、悲しいかな自分の本番日程とかぶっていて劇場には駆けつけられません。

ちなみに、公式サイトはこちら。

インタビューを読むと菅尾さんの念頭には、

オペラの既成概念を一度疑った上で、
初めてオペラを見る若い人に魅力を感じてもらうためには
どうしたらいいか

という問いが、常に置かれているように推察します。

これ、とってもいいことですよね。

慣習だから守る。タブーだからやらない。

そこで思考停止してしまうのではなく、「現代にこの古典を活かすためにはどうするか」という、一歩先に目を向ける。とても重要な観点だと思います。


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ってことで。

僕はこのプロダクションに大変ポジティブな期待を寄せている、という前提に立った上で、さらに突っ込んだ話、考えてみたいと思います。


あくまでも理解していただきたいのは、僕は、このプロダクションが実際どんな劇空間を作っているのか、全く知る由もないということ。

その上で、インタビューに語られている「言葉」を起点として考えます。

なので、これから先に書くことはあくまでも「言葉」から生み出された思考であるということ、抑えておいてください。

演出家の菅尾さんに対する批判、ではなく、記事を読んだ上でそこに記されていた「言葉」から発送された、僕個人の思考ゲームです。


気になった箇所はここ。


作品を、博物館の展示のように過去の遺物としてそのまま見せるだけでは足りないと思うんです。例えば『トゥーランドット』なんか、男に強引にキスされてお姫様が愛に目覚めるなんて、現代の感覚ではとても納得できない。でもそれを“昔の物語だから”で終わらせるのではなく、自分と観客の生きる現代の物語としてならどのように成立するのか、ということを考えてみたいんです。


「過去の遺物としてそのまま見せるだけでは足りない」という発想はとてもよくわかる。僕だって、「これは昔からこうなの!」みたいな懐古主義、かつ、生きた思考が一切ないままの表現をする歌手や演出家は、一生、酸っぱいミカンにしか出会えない呪いにかかってしまえばいいと思っている。

ただ、重要なのは「過去の遺物としてそのまま見せ」ないための方法論として、設定の置き換えが選択されていることだ。


オペラにおける設定の置き換え、つまり現代読み替え(菅谷さんは「読み込み」と表現している)には、僕はあまり抵抗がない。

が、それを選択して成功しているカンパニーはごくごく稀だなと思う。

なぜなら、物語のシチュエーションが変わると、そこに登場する役が歩んできた人生が変わるからだ。ということは、ひとつひとつの言葉が生まれるためにたどる経験や感情の点も、原典から求められている点から、ぜんぶ変わる。

この、「音楽と原典のテキストが求める点」と「現代置き換え演出が求めるドラマの点」のズレを把握し、消化し、パフォーマンスに落とし込んで演劇空間を成立させる、という技術を持った歌い手は、特に日本だと少ない。

古典作品を扱うことを生業としている者の責務として、「原典が求めている通るべき点」はやはり尊重したいと、僕は思う。


あと、例えば「人形の家」や「忠臣蔵」を、テキストはそのままに現代シチュエーションに置き換えて上演するか?と考えると、そこにはほとんど意義がないのではないかと思う。

「人形の家」は抑圧されている女性性という主題があって、これはそのままでも現代に通づるテーマだと思う。で、そのシチュエーションは原典のままで十分に表現されている。

「忠臣蔵」は君主と臣下の忠誠とか、武士の矜持とか、そういう話だから、現代に置き換えてしまったら作品のテーマ自体がわけわかんなくなってしまう。あと、現代服着てる人が侍言葉しゃべってるのも変だし。


だけど、オペラではこれが行われる。

いまの感覚でいえば古めかしい言い回しかつ、詩の形式をとった言葉を、現代服を着た役が歌うみたいなことが平然と行われている。

多くの日本人の聴衆には、そもそも外国語の歌詞の意味がわからないから、それでいいんだってことなのかもしれないけれど。


あと、シェイクスピアを現代的にソフィティスケートして上演するってプロダクションはわんさかあるから、まあ、そういう感覚なのだろうか。

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原典の求めている状況設定のままに上演することを「博物館の展示」と表現するとしたら、歌舞伎や能やクラシックバレエはどうなるのだろう。

そういった古典芸能も「博物館の展示」「そのまま見せるだけだと過去の遺物」という部類のものになるのだろうか。


僕自身「博物館に並べてただ埃をかぶるだけのものにしてはいけない」と、オペラについて文章を書いた記憶がある。

その前提には、こんな思いがある。

「博物館の中に展示する」ような上演というのは、無批判なままに、伝統的な形式によって縛られた表面上のアプローチのみでの表現をする人しかいない舞台のことを言うのだ。

たとえ、伝統的なスタイルに則っていたとしても板の上に立つ役者がリアルにそこに生きていれば、どんな古典作品も現代に生きる舞台になる、と僕は確信している。


素晴らしい歌舞伎俳優、能楽師、バレエダンサーたちは、この「その瞬間に生きている表現」を実現できる技術と哲学を持っている。だから、その作品自体が作られた時代がどれだけ古くても、作り手と観客の生きる現代の物語として成立する。

翻って考えると、「原典の求めている設定のままでは、現代に訴求するエネルギーを生むことはできない」と考えている表現者は、「その瞬間の劇空間に生きる」ということを諦めている、とはとれないだろうか。

もし、すべてのオペラ歌手が「その瞬間に生きている表現」を実現できる技術と哲学を持っている状況で作品の現代置き換えを考えるとしたら、いま日本に多くあるオペラの状態とは、まったく違うものが出来上がってくるのではないか。


あともう一つ。

世界的に“Me too”ムーヴメントが盛り上がり、女性たちが差別的な扱われ方に対してノーを突きつけている今の時代に、「男が女を試す」という物語をそのままやることはできない

とあるが、これは本当だろうか。

「コジ・ファン・トゥッテ」は、男性3人が結託して変装し、2人の女性の忠誠と貞淑を試すことがシナリオの核になっている。

たしかに女性の立場からしてみたら、「女性蔑視的な脚本だ」と思うようなシーンやセリフもいくつかある。

けど、だからと言って、「女性たちが差別的な扱われ方に対してノーを突きつけている今の時代に、「男が女を試す」という物語をそのままやることはできない」としてしまうのは、どうなんだろう。


なぜ、いまの時代に"Me too"のムーヴメントが盛り上がったのかというと、実際に「いまの時代でさえも」、女性へのさまざまなハラスメントや力関係を悪用した性犯罪が存在しているからである。

「ハラスメントが存在する時代」に上演する作品から「ハラスメントだと思われそうな設定を取り除く」ことは、「あることをないことにしてしまう」ことに他ならないのではないか。

つまり、ムーヴメントが盛り上がり、女性(や男性)に対してのハラスメントの存在が明るみに出た今だからこそ、女性を軽んじるような主題に見えかねない古典作品の骨組みを、変えることなく上演して

そこに「演出的な仕掛け」を与えることによって、「性別による不均衡なパワーバランス」について尖った疑問符を突きつけるような上演のアプローチを取ることはできないのだろうか。


これについて話していたら、とある人がこんなことを言った。

芸術家が自ら表現規制したら、誰も守ってくれなくなると思う

まさに。

"Me too"が盛り上がっているから、女性蔑視的に思われるような表現を回避するために「コジ・ファン・トゥッテ」の設定を変えました。

このような「マスから不快だと思われないような表現自主規制」を表現者や芸術家が率先して行っていったら、世の中に溢れるアートや舞台は、ふにゃふにゃの骨抜きにされた食べやすく当たり障りのないものばかりになってしまう。

それを選択するのなら、わざわざモーツァルトの古典作品なんかを上演すること自体、やめてしまえばいいんだ。

ハラスメントも暴力も起こらない、平和な新作オペラをつくって上演したらいいと思う。


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斜陽の段階に入った伝統芸能を守ることは、本当に大変なことだ。

そして、どうやったら次の時代に合わせて古典をアップデートさせ、新しい顧客を、ファンを獲得するのかについて思いを巡らせるというのは、ぜったいに必要な思考だ。

「新しく。どんどん新しく。」と、古い慣習や伝統を革新していくのはエキサイティングな体験だと思う。僕自身だって、クラシックや演劇やミュージカルの枠組みでどんどん新しいことをやっていきたい。

ただ、同時に忘れてはいけないのが「なぜ僕らは今、古典をやるのか」ということだ。

古典を扱う者が、「男に強引にキスされてお姫様が愛に目覚めるなんて、現代の感覚ではとても納得できない。」と、その古典の魔法を信じなくなってしまったら、それこそ古典の持っている「命の灯」はまたたく間に消える。


現代において古典をやる、ということは、人の営みに思いを馳せるということだと僕は思う。

過去に生きた人たちに思いを馳せることであるし、彼らが生きた時代に思いを馳せることだとも思う。

そして、その古典を脈々と受け継いできた、数多の無名の先人たちに敬意を払うことでもあると思う。

そして何より、「現代とは何か」をどこまでもどこまでも考えていくことだとも思う。

"Me too"があるからそのままの表現ではできない。AIに置き換える。

さて、これは本当に、過去に思いを馳せ、現代を考え抜いたチョイスだと言えるのだろうか・・・?



あ〝ーーーーーーーー!!!!!

きっとその答えはね、

舞台の上で提示されるんだよーーーー!!!!

観にいきたいーーーーーーーっっっ!!!!!




読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。