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独り芝居 俺は担ぎ屋/劉深


記事作成:2018年3月22日


演出家中原和樹による定期稽古。台本を使ったワークショップの題材。

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「現実を生きる」とはどういうことだろうと時折考えることがある。

こうして液晶の画面に向き合ってキーボードを叩き文字を打つ。インターネットは世界中のあらゆるところにつながっている。向こう側の画面の前に座っているあなたに向けて、僕はこの文章を書いている。

これは紛れもない現実だ。

けれど時々、その現実に現実味を感じなくなる瞬間がある。


あるいは、僕ら役者は演劇を作る。生身の身体を使ってセリフを言い、自分の足や手を使ってそこにリアルを立ち上げようとする。そこで起きている出来事は紛れもない現実だ。けれど、そこに立ち上がっているのはフィクションだ。

歌だってそうだ。魂を震えさせて放った歌は、架空の人物の恋や絶望をうたう。その場に響く歌声は紛れもない現実だけれど、そこで描かれる世界は現実ではない。別の世界の、誰かの話だ。

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「俺は担ぎ屋」は、劉深という中国・北京出身の劇作家によって書かれた独り芝居だ。

独り芝居ではあるが登場人物はふたり。

登場人物
笑い話  ちょっと神経質で、しょっちゅう話が脱線する中年の男
菅大臣という名前の男  いったい何歳なのかよくわからない老人
(『独り芝居 俺は担ぎ屋』劉深/れんが書房新社「海外戯曲アンソロジーII」182ページ)

舞台は劇場なのか、喫茶店なのか、どちらとも言えないような設定。1卓のテーブルと2脚の椅子がプリセットされている。

そこに登場する笑い話は、今夜の「会」の司会進行のような役目らしい。

その会の出席者は、この劇を観にきた観客たちだ。笑い話は冒頭から、第四の壁を突き破るように客席にいる私たちに話しかけてくる。

演劇用語に慣れ親しんでない方がいるかも知れないからいちおう説明するけれど、演劇における「第四の壁」とは、舞台と客席のあいだに存在する想像上の透明の壁のこと。

基本的に舞台の世界では暗黙の了解として演者・観客の双方に受け入れられていて、幻想の世界と現実の世界をわける境界の役割を果たしている。


けれど、「俺は担ぎ屋」ではこの第四の壁は、しょっぱなからぶち破られる。

笑い話が観客に向けて話しかけ始めるからだ。


笑い話の紹介により、菅大臣と呼ばれる、何歳かもよくわからないような老人が登場する。彼は昔、葬儀屋だったらしい。棺桶を担ぐことが仕事だったのだ。かなり名の通った担ぎ屋で、西太后や孫文などの要人の葬式も担当したらしい。

物語の主軸は、菅老人が語る自分の「担ぎ屋」として経験した出来事だ。


ところで、日本にも話者がひとりで登場し、第四の壁を破り観客に語りかけ、そして様々な登場人物となって一人称で話、それにより物語を紡いでいく演劇的手法を持った芸がある。

落語だ。

そして、調べてみるとどうやら中国にも、落語に似た話芸があるらしい。

「相声(そうせい/しょうせい)」というのがそれだ。

話術や芸で客を笑わせる芸能で、1人でしゃべる形、ボケ役とツッコミ役の2人でしゃべる形、3人以上でしゃべる形、があるのだという。

それぞれ、「単口相声」「対口相声」「群口相声」と呼ばれる。

特に「単口相声」は物語が進むと話者は舞台の上下に顔を向けて話すことで演じる人物を切り替えたりする手法がある。まさに落語そっくりだ。

また、そういった人物を演じ一人称で語りながらも、時には案内役のような人格になって真正面を向き物語の状況描写や総括をするようなこともあるらしい。

落語の場合も時たま、噺家が役から抜け出してナレーター的に物語を進めることがある。あるいは、噺に入る前の枕はまさしく、噺家が正面を向き第四の壁を破ることによって、観客を物語の世界に引き込む下地をつくる役割を持っている。

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笑い話は、現代を生きる人格だ。

腰にはポケベルや電子手帳をぶら下げ、携帯電話で仕事の発注主と会話し、舞台上に置かれたテレビの中から観客や菅老人に対して話しかけたりする。息子にパソコンを買ってやったときのエピソードトークなんかも披露する。

対して、菅老人は過去を生きる人格だ。

観客の前でもうつらうつらとしていて、ときには居眠りまではじめる。自分の若い頃の話は、それはもう色鮮やかに語るが、自分の現在についてはあまり話すことがない。


笑い話は、とても軽薄な人格に思える。

いま、この場で、なにがしかの会の司会の役割を与えられているのに、その観客である私たちの目の前で、次の仕事のクライアントと電話で会話をはじめる。どうやら早くこの場を切り上げて次の仕事場へ行きたいらしい。

なぜなら、次の仕事場の方がギャラが高いからだ。

自分より高齢の菅老人については、お世辞にも尊敬しているようには思えない。どちらかといえば、面倒臭いジジイぐらいに思ってそうだ。


菅大臣は、とても実直な人格に見える。

彼が語る昔話には血が通ってる。ドラマの輪郭もはっきりしていて、とても現実味がある。風景描写も鮮やかで、その言葉を聞いているだけで目の前に光景がくっきりと浮かび上がってくるようだ。

師匠への敬愛が話の根底を貫いており、自分の仕事に対する誇りも伝わってくる。今はもうボーッとすることが生きがいだということがわかるが、若かりし頃はたいそう闊達な人物だったのだろう。


それくらい明確に、2人の人物が書き分けられている。

けれど、この芝居は独り芝居だ。同じ役者によって両者が演じられる。

それに

観客は一人の俳優が二人の人物を演じているのがすぐにみてとれる。
俳優はリアルな老人を演じる必要はない。

(『独り芝居 俺は担ぎ屋』劉深/れんが書房新社「海外戯曲アンソロジーII」185ページ)

というト書きもある。

俳優がどれだけ鮮やかに二人の人物を演じ分けようと試みても、作者のト書きは「一人が二人の人物を演じているのがすぐにみてとれる」ことを求めているのだ。「俳優はリアルな老人を演じる必要はない。」

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ひとつ動画を貼る。

これは、中国の「単口相声」の動画だ。

ひとりの話者が何人かの登場人物を演じているだろう姿。

落語と同じように、首の向きや体の向き、表情の違い、声やしゃべり方の違い、身振り手振りの違いで、異なる人物を表現している。

けれど、演じる話者はひとりで、衣装やヘアメイクが変化するわけでもない。

観客からは異なったキャラクターも同じ話者によって演じられていることが一目瞭然だ。

僕は、この「俺は担ぎ屋」という独り芝居の根底には、「単口相声」の存在が意図されているように思う。

そう考えると、「単口相声」は、基本的には滑稽な「笑い話」なんだろうと思う。

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コメディというのは難しい。

役者の心の中に「笑わせてやろう」という計算がはいってくると、途端にみずみずしさを失い、面白くなくなる。

けれど、役者が与えられた登場人物の人生を、どこまでも真面目に、一所懸命に生き抜こうとすると、優れた台本であれば、それだけで面白くなる。

ひとつの真理だと思うのだけれど、一所懸命に生きている人間というのは、ある角度から見るとみんな滑稽で面白くて、笑える。

人間が、一所懸命に生きれば生きるほど、その姿はコメディになっていく。


「俺は担ぎ屋」の菅大臣も、まさにそういう人物だ。

彼は一所懸命に生きてきた。一所懸命に師匠に弟子入りを志願し、一所懸命に下働きをし、一所懸命に若気の至りを経験し、一所懸命に自分の技術力を上げようとする。一所懸命に家業を守り、一所懸命に棺を担ぎ、一所懸命に拍子木を叩く。

そこに語られる物語は、中国の歴史の一大ドラマの裏側であり、観客にとってはもしかしたら大スペクタクルのように映るかもしれないが、なに、菅老人にとってそれは「一所懸命に棺桶を担いできた」というストーリーの伏流なのだ。

菅老人のそのような生き様に、僕たちは人生の教訓をみたり、生死の儚さや真実をみたりするかもしれないが、同時にそのがむしゃらなまでの実直な生き方におかしみを覚えたりもする。ときには大爆笑もするかもしれない。


そういう意味で、この作品を上演することになった俳優は、ひとりで舞台の上に立つという恐怖に向き合いながら、空白を埋めよう/面白いことをやってやろう、といった邪念を一切捨てて、

「笑い話」として、「菅大臣」として、ただそこにいるという状態をクリアしなければならない。あー、超難しそうだぜ。


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笑い話が第四の壁を破り、菅大臣も我々に向けて話しかけてくる以上、観客はただの傍観者でいることは許されない。

否が応でも物語の中の「会」の視聴者として、その舞台に参加せざるを得ない。

笑い話の話によると、我々観客は、「世界一長寿な老人にインタビューをしてその長寿を証明し、ギネスブックに載る瞬間に立ち会う」という目的でこの場にいるらしい。

なんとも野次馬根性丸出しの役回りを与えられている。

実生活でどれだけ謙虚で、どれだけ消極的な人生を送っていようと、この作品を観にきた時点で「ギネス記録が出る瞬間を見物しにきた野次馬」という役を与えられてしまうのだ。

そして、その視点から、菅老人の半生を振り返るひとり語りを聞くことになる。

そこに語られる物語は、とても純粋で、誠実で、嘘偽りのない、切実なひとりの人間の人生だ。

けれどそれを私たちは「ギネス記録がいつ出るかとソワソワして待つ観客」として聞かなければならない。

この気持ち悪さ。これこそ劇作家である劉深がこの作品の核に込めた「毒」だと思う。

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この作品には、現代社会への「怒り」みたいなものが込められているように感じる。

メディアの軽薄さ、視聴者の無責任さ、薄っぺらい言葉や消費されるドラマ。そういったものへの怒りが感じられる。

同時に、自分が育ってきた中国という国の広い大地と大きな空、そこに生きる人々が積み重ねてきた歴史、劉深自身が育った北京という街や言葉などへの、強く潔い誇りというのも感じる。

その誇りがあるからこそ、怒りもまた強くなるのだと思う。


劇の冒頭では、舞台上のテレビが様々なニュースを流している。そのなかで台本に指定されているものがふたつある。

「猛暑ゆえに動物園の動物たちが暑さに苦しんだが、国宝のパンダだけは空調のある飼育室で過ごしている」というニュース。

「アイスクリームからモップの切れ端を見つけた民間男性が工場に訴訟を起こしたところ、逆に管轄の人民法院から恐喝罪の実刑判決を受けた」というニュース。



この作品を、劉深は25歳のときに書きあげたという。すごい才能だと思う。




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