歌うことの自由と不自由


このところ、「自分の歌」についてよく考えていました。

それはたぶん、ふだんとは違う役割を与えられた場で歌う経験をしたからだと思います。


僕は歌い手としての自分について、こんな分析をしています。

・低音が魅力
・言葉の持つリズムや発音の音色に敏感
・「間」を持てる
・ゆったりと歌うことが得意
・曲によって声色を選べる

上にあげたのは長所だと思うこと。

けれど、その裏側には弱点もひそんでいて

・高音が苦手
・ノリのいい早い曲が苦手
・「唯一無二の音色」みたいなものがない

といった点はいつもいつもぶつかる壁です。


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「歌う」という行為は宿命として、はじめから制約を与えられています。

それは、歌う本人の「身体」という制約です。

誰しも、どんなに有名なスター歌手でも、自分の身体性から逃れて歌をうたうことはできません。

歌はよく「自分の身体が楽器だから」と言われますが、まさにその通り。だからこそ、「楽器を持ち替える」みたいなことができないわけで。


「その人らしい歌」というのは、「その人の持っている身体」からとてつもなく大きな影響を受けています。


井上陽水さんが「TOKYO」という曲を作ったときに、冒頭の「銀座へ地下鉄が走る」という歌詞の「ぎんざ」の「ん」という音が自分の口だととてもよく響くから「ぎん〜ざへ〜」って風にしたんだって語ってたことがあります。

陽水さんの骨格や、歯並び、顔や舌や喉周りの筋肉の特性、そういったものが「ん」の音をよりよく響かせ、それが曲作りにも影響を与え、井上陽水らしい歌を生み出しているわけです。


たとえば、喉あたりの構造上、大きな声が出にくいという人がいます。そういう人たちは声を張り上げるような歌い方はできないという制約を、身体から与えられています。

僕は声帯の長さが長く、比較的低い音が出やすい喉の構造を持っています。その分、高い音(G4より上)を出すことがとっても苦手です。これも身体による制約のひとつ。

人より舌が短いという人は、ある特定の子音が発音しづらかったりします。届いて欲しい箇所に舌が届かないから。これも身体による制約。


僕たちが歌をうたおうと思ったら、本人がそう望まなくても、自分の身体によってさまざまな制約を与えられることになるのです。


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けれど僕は、制約があっても「不自由だなあ」とは思いません。

そりゃ、「スコーンと高い音が出たら気持ちいいだろうな」とか、「パワフルに歌えたらカッコいいだろうな」とか、羨ましく思うときはあるけれど。

だからといって、「高い音が出ない、パワフルな声もでない僕の歌は、無価値だ」とは思いません。


僕には、僕の身体が与えてくれたベストな音域や、子音や母音の音色や、音楽に対するタイム感があるからです。

その、ベストな音域や、僕の口だからこそ生まれる音色、僕の身体に心地のいいタイム感を組み合わせることで僕は、無限の表現を生み出すことができます。

とっても不自由であるはずの制約の内側に潜っていくと、そこにはどこまでも自由な選択肢が存在しているってわけです。


ほんとに、歌うことっていうのは自分の身体との追いかけっこだなと思います。

「なあ、お前さ、いったいどこまでいけるんだい?」

って問いかけながら、この音はどうだ、このリズムはどうだ、この音色はどうだって、どこまでできるのか、自分の身体の限界がどこか試し続けているような気分。


身体の制約から逃れようとするととてつもなく不自由になっちゃうんだけど、制約を活かそうとするとどこまでも自由。


いつまでも、自由な気持ちで歌い続けたいなと、思っています。



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