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「正しい」って何。ふと思い浮かんだことの書き散らかし:往復書簡第11信

安西洋之さん

昨日(2021年1月16日)の文化の読書会の拡張版、楽しかったです。ああいう会も何か月かに1度くらいのペースでやりたいですね。3時間があっという間でした。

さて、今回のnoteは、かなり書き散らかしてます。どうか、その前提でお読みください。まとまってないものを、とりあえずいっぺん外化したくて。

前信でくださった「全体像を実感する」というテーマも、ものすごくおもしろいので、こちらはまた別信でお返事したいと思います。ちょっとお待ちくださいね。

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それにしても、つくづく、自分自身って天邪鬼やなと思うのです。

今回のとある有名ビジネス雑誌の特集。この企業さんが嫌いとかいうことでは、全くありません。めちゃくちゃ着てます。

そして、今回の特集テーマそのものは、個人的にめちゃくちゃ関心を持ってます。かなり以前から。だから、こういうテーマで特集が組まれること自体、一つの流れの転換点とみることができます。その点では、ものすごく積極的に受けとめてます。

が。
そもそも疑問を抱いたのは「正しい会社」というフレーズ。

「正しくありたい」と願い、またそう行為することは何ら悪いことではありません。むしろ、望ましくもあり、そうあってほしいとも願います。

が。
「正しい」という言葉ほど、堅固そうに見えて不安定きわまりない概念もありますまい。「美しい」というとき、それはかなり人によってそう感じるところが異なるので、一様性ももちろんあるにせよ、多様性という側面が前面に浮かび上がってきやすいとはいえましょう。けれども、「正しい」というとき、それは往々にして曖昧模糊としており、それがくっきりした瞬間に闘争が、さらに昂じて抑圧が始まってしまうことすら珍しくありません。

ある人が、何事かに対して「これこれこういう状態こそ、“正しい”あり方だと考える」ということは、何ら問題ありません。しかし、それはあくまでもその人の視座からしてそう捉えることができるというにすぎないのも事実です。

ここで相対主義に陥ってしまう危険性があるわけですが、そこをどう克服するかは、下のほうで少しだけ触れます。けれども、私のなかで、まだ十分な見解を煮詰め切れてるわけではありません。

いや、考え方を同じくする人はいる、だから自分だけじゃない、そういう声もあるでしょう。たしかにそうです。ただ、それは“ある面”において一致していても、別の面では異なることもありえます。そして、その別の面での相違が“ある面”での一致を引き裂くことも少なくありません。比喩としての“近親憎悪”というのは、まさにこの事態をさしています。

だからこそ、その「正しい」についてのその人の見解を頭ごなしに否定するのではなく、また掘り下げることもなく信じ切ってしまうのでもない、その拠って立つ基盤を明らかにするという姿勢が必要になってくるわけです。つまり、「その人は、なぜそれを“正しい”と考えるのか」を問わなければならないのです。問うたからといって、その見解を否定するということと直結するのではないという点、何度でも繰り返し申し上げます。もちろん、否定することになってしまうケースもありますが(笑)

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さて、そういう観点に立ってみたとき。

私自身は、経営学史のなかでも、ドイツ語圏におけるステイクホルダー志向的な企業理論に焦点を当てて考察をしてきました。そうなると、一見すれば今回のこの雑誌の特集で採りあげられている〈公益資本主義〉という考え方とも近そうにみえます。実際に近い部分もあります。

しかし、ここでいう〈公益〉とは、いったいどういう事態をさすのでしょうか(ここは、言いっぱなしで止めてみます)。

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〈ステイクホルダー・キャピタリズム / ステイクホルダー資本主義〉という概念があります。株主だけでなく、さまざまなステイクホルダーに「配慮」した資本主義という意味合いで用いられることが多いですが、よりステイクホルダーが「参画(Engagement)」していくという意味合いを濃厚に打ち出している議論もあります。

これ、かなり議論に違いがあるんですよね。前者であれば、あくまでも主人公は企業で、ステイクホルダーに配慮しましょうねっていう話に落ち着きがちです。一方、後者の場合は、かなりアクティブなステイクホルダーが想定されています。それに対する企業の側も、かなりアクティブにステイクホルダーとの対話や協働を展開していくことが想定されているといえるでしょう。こうなってくると、そもそもの〈資本〉という概念をどう捉えるのかというところにも議論は及ぶはずです。

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今回の特集で、公益資本主義 vs. 株主資本主義という対立構図が描かれています。株主資本主義の頭目として採りあげられているのは、M. フリードマン。企業の社会的責任は利益の最大化だと言い切った人です。

私自身、この人の考え方は好きではありません。どっちかというと嫌いなくらいで(笑)

しかし、公益資本主義の考え方、さらに言うと近年ふたたび盛り上がりを見せつつある〈社会主義〉(←これも、20世紀のそれとは異なっているように感じられますが、もっと考察しないといけません。ちなみに、かつてのドイツの経済学者・ゾンバルトという人は「社会主義とは何か」と問われて、「社会主義の定義は100個くらいあるけど、どの社会主義か?」と問い返したという逸話をどっかで聞いたことがあります)、そういった考え方に拠って、ほんとに人間の欲望を、もっというと“強欲”を抑制することはできるのでしょうか。

昨日の読書会でもお話ししましたが、資本主義と称されている社会経済体制(これとても、純粋な姿=理念型そのものとして存在したことは歴史上、一度としてないわけです)は、さまざまなアンチテーゼを、ある意味で『千と千尋の神隠し』のカオナシのごとくに、呑み込んで拡張、あるいは膨張、きれいめの表現を用いると〈発展〉してきたともいえるわけです。

ここが、昨日の最後の私の発言につながっていきます。

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昨日の最後に、私がしゃべったことを安西さんが、以下のようにまとめてくださいました。

山縣さんに最後に言っていただいた(ギラギラすると見られるかもしれない)「欲望」という言葉をあえて使うことが、未来志向にはとても大切だと思いました。未来志向が往々にして陥る、きれいすぎるイメージを適度に汚してくれます。
どの歴史をみても美しすぎる時代なんてありようがなく、どこの時代のどこの社会も欲望にまみれてきたことを正面から受け止め、そのうえで欲望を起点として未来を構想することに合意すること。このあたりが今日のまとめですね。

このくだりは、最初から準備していたわけではなく、当日の議論のなかで、なりゆきで私がしゃべる順番、最後になって、みなさんの発言なども思い返しつつ、絞り出したやつでした(笑)なので、こうまとめてくださって、私自身がすごくすっきりしています。ありがとうございます。

ここなんですよね。人それぞれが抱いている、あるいは生きていくなかで抱くようになる欲望というのは、まさに人それぞれです。もちろん、ガルブレイスの視座を忘れないようにするならば、「それは企業によって提案された範囲での」という留保をつけるべきかもしれません。

私自身は、オーストリア学派経済学の始祖とされるメンガー(Menger, C.)の『一般理論経済学』(第2版、原著はメンガーの死後に息子によって遺稿出版されたもの。1923年刊行)からけっこう影響をうけているのですが、初版である『国民経済学原理』(1871年)と違って、欲望論が冒頭に置かれています。

もちろん、その考察は今の観点からすれば十分ではないと批判されてもしかたないでしょう。けれども、少なくともメンガーといえば限界効用概念、みたいな、お決まりの学史的評価からは脱しうるだけの手掛かりになると、私は考えています。

特に、オーストリア学派経済学というと、利己主義的な個人を前提にした議論だといわれがちです(し、実際そういう色彩は濃厚なのです)が、メンガーのこの第2版を読むと、そう簡単には割り切れないことがわかるかと思います。とりわけ、注での記載ですが、利己主義的欲望と利他主義的欲望についても述べているあたり、ひじょうに興味深いものがあります。

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いろいろ散漫に述べて申し訳ありません。

私自身が、今考えているのは、欲望というきわめて個人的に映る事象も、それはその人が生きてきた時間的・空間的諸関係によって織りなされた帰結として捉えるべきであるということ、そしてそのうえで「その人」という歴史的・個別的な存在としての個人の自律性 ——それが、実際には社会的諸関係によって規定されているとしてもなお、個人が将来の可能性を選び取ることができる、という意味での—— を、経営を議論する際の出発点に据えたいということです。

経営といっても、企業はもちろんですが、ここではそれ以外の組織体が何らかの価値を創造していこうとする営みの全体を含めています。マンズィーニがいうcollaborative organizationという場合も、私は考慮に入れています。

価値を創造するというとき、ここでは享受する側が価値を感じるという点に重きを置いています。ただ、同時に享受する側が価値を感じるようなモノやコトを創り出していくというプロセスと、享受するというプロセスがつながったとき、価値が創造されたと表現したいと考えています。ここには、私自身がしばしば採りあげる100年前のドイツの経営学者のニックリッシュ、そのちょっと後に登場したアメリカの学究的経営者のバーナード、そして近年のサービスドミナント・ロジックの影響があります。ここらあたりは、また別の機会に。

人がそれぞれに異なる欲望を抱くとなれば、何に価値を感じるのかというのは当然ながら異なってきます。そして、同時に何を「善し」とするのか、「正しい」とするのかという道徳意識も、異なってきます。もちろん、どちらの場合も、誰かと共有されて初めて、社会的な有効性を持ちうるので、完全にばらばらということは想定するのが困難ですが。とはいえ、ここが人によって異なるという前提こそが、現代社会を考える際の出発点だとは思うのです。

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この観点に立つと、「正しい」という言葉を容易に使うことができなくなってしまうのです。なぜなら、「それぞれの人にとって、それは正しい」というのは容易ですが、現実問題として「正しい」という言葉を用いた瞬間に、それに含まれない領域は「正しくない」ことになってしまうからです。

念のために申しますが、だからといって私は法などによって規定されていることを守らないという事態を正当化するつもりはありません。もちろん、その法が現代の社会において適切なものであるのかどうかという議論は必要です。絶対に必要です。むしろ、「何が正しいのか、それはなぜ正しいといえるのか」、そして「どういった状況のときに、それは“正しい”ということが可能になるのか」「その“正しい”から漏れ落ちてしまうけれども、酌むべき事態というのはあるのか」といったような問いに対する粘り強い議論が欠かせないと思うのです。私がアーレントに魅かれるのは、このあたりの問題意識からきています。

だからこそ、あえて〈正当性〉という堅苦しい概念として議論することで、日常的な言語からいったん切り離して、「誰にとっての?」「どういう状況や事態における?」ということをクリアにしていく思索のプロセスが欠かせないのではないかと考えています。

自分の拠って立つ価値認識に対して自覚的であること、そしてそれを踏まえたうえで議論や見解を展開すること、これをマックス・ヴェーバーは〈価値自由;Wertfreiheit〉と呼びました。

以前には、〈没価値性〉とも訳されましたが、価値判断から逃れるというよりも、自覚的であったうえで議論を展開するという趣旨から考えると、〈価値自由〉と訳すほうが適切なので、今はこの訳のほうが多いはずです。

「あるべき姿」を想像し、それを提示していくことは愉しい営みだと思います。だからこそ、それを他者と共有し、さらにはその実現に向けて協働していく際には、それぞれの拠って立つところを提示し、可能な限りそれを共に理解しあう ——にもかかわらず、そこにはすれ違いが生じるし、すれ違いが生じるにもかかわらず、人はコミュニケーションできる、できてしまうというのが、ルーマンの社会システム理論の基盤的な考え方かなと、私は認識しています―― という、じつはなかなかに大変なプロセスが必要になる、そう考えています。

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世の中の人すべてが、こんなややこしい、しちめんどくさい思索や議論をする必要はないのかもしれません。だからこそ、経営学史や経営学原理といった、実学のなかの虚学とも見えてしまう領域が必要なのかな、なんて思ったりもしています。

以上、ふと思った雑感でした。

今回のお手紙(note)は、かなり乱筆になりました。お許しください。

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