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星屑を拾い集めて、星座を描く。ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(20)

ブローデル『物質文明・経済・資本主義』の読書会第20回のメモ。今回は、第1巻の第2分冊の最終章。いわば、ブローデルによる「あとがき」である。なので、いつもの摘読と私見というかたちではなく、もう少しラフに書いてみます。

それにしても、ブローデルにしても、個人的にはブルデューにしても、日本語版の著作全集が出てくれると嬉しいなぁ。フランス語が全く読めないので、すごく渇望してしまいます。

摘読、私見を交えながら。

ブローデルが、この『物質文明・経済・資本主義』において試みてきたのは、以下のようなことであった。

「この本がさしだしているのは、食物から家具にいたる、技術から都市にいたる、これらすべての光景を一望のもとに見はるかすための、そして当然の勢いだが、物質生活とはどういうものであり、そしてどういうものであったかの境界を画定する」
『物質文明・経済・資本主義』第1巻第2分冊、326頁。

この「一望のもとに」というところには傍点が付されているのだが、これは“coup d'oeil”であろうか、たまたまちょっと前に以下の本で、ブレーデカンプ(Bredekamp, H.)という美学者が「一瞬の認識力」という論攷を著しているのを目にしたことがあった。圧縮された時間のなかに、場景的(szenarische)な認識あるいは了解が凝縮されていることをあらわす際に、この「一望のもとに」という表現が用いられるらしい。

話が逸れた。
ブローデルはこういう。

この物質生活というものはなによりもまず、幾千幾万もの雑事という逸話的形態のもとに現前する。

こまごまとした事実ながら、無際限に繰り返されていくと、なるほどそうしたことどもは連鎖的現実として自己を主張する。そのひとつひとつが、熱く積もった沈黙の時間を潜り抜けてきた、そして持続してきた、他の幾千もの事実に代わって証言しているのである。
『物質文明・経済・資本主義』第1巻第2分冊、327頁。

こういった前景から消点にいたる幾筋もの線と地平線とは、こういった連鎖によって描かれている。これらの連鎖は、遠い昔に完結した風景画のなかに秩序を持ち込み、そこに存する均衡を想定させ、恒久的なものを際立たせる。精神性および知性に由来する文化財から、日常生活の器物・道具にいたるまで、じっさい異質的で、ちょっと見にはたがいに無縁と見える幾千もの文化財が存在するが、文明はそのあいだから幾多の絆を、すなわち秩序をつくりだす。ブローデルは、こう続ける。

こういったアプローチは、マルクスが提唱したさまざまな概念の有効性を傍証する。しかし、である。ここでブローデルとともに留意したいのは、そこから先の途は、マルクス、そしてマルクス主義とは異なるという点である。マルクスは、さまざまな物質が生活に深く根ざしていること、その点に目を向けることを要求した点では、まことに鋭い視点を有していた。しかし、それを一つの厳格な秩序に従わせてしまおうとした点において、少なくとも私(山縣)は途を同じくできない。ブローデルがこういってくれたおかげで、私のなかでモヤモヤしていたことが、かなり晴れた。

マルクスの正確な用語なり厳格な秩序なりを排斥するとしても、以上の考え方はやはりマルクスの言語に立ち帰ることであり、彼のかたわらに留まることである。
『物質文明・経済・資本主義』第1巻第2分冊、329頁。

経済生活それ自体は規則性がものをいう。したがって、しきたりや無自覚的日常性から抜け出すことになる。そこからわずかな利益を生み出すようなミクロ資本主義ともいうべき事態が生まれていた。それは、人々の間に生じる不平等や不正、矛盾を前景に押し出しもしたが、それのおかげで世界は活気づき、その構造は絶えずより優れた形態へと、つまりそれだけが本当に稼働的な構造へと変貌していった。そういった相対的に変動する自由を持っていたのは、資本主義だけだったとブローデルは言う。物質生活の構造はあまりに柔軟でなかったし、通常の物質生活の構造も似たり寄ったりだったのに対して、資本主義は自分が介入したい、介入できる領域と、運任せに放置しておく領域とを選び分けることができた。これらの要素をもとにして、自分自身の構造を絶えず作り直し、さらには他者の構造をも少しずつ変えていったのが資本主義だったのである。

ブローデルの視点のおもしろさは、こういった非均一性を「景色」として描き出すことによって、そこでどのような「流れ」が生まれていくのかを描き出している点にある。したがって、単純に割り切ったような善悪論議にはなりえない。それは、企業者という存在が生き馬の目を抜くような世界で、人を出し抜くことを姿勢として持ちつつ、同時に「こういう状態をうみだしたい、もたらしたい」と投企する姿勢をも持つ存在であることを考えれば、すぐにわかるだろう。その意味で、『物質文明・経済・資本主義』は企業者論にとってのすごく重要な参考書であるといえる。これは、第1巻を読んだだけでも確信できる。

もちろん、ブローデルの視座には、どうしてもヨーロッパの白人という立脚地がちらちらと顔を出しているようにも感じられる。しかし、それをあげつらうことが本質的な批判になるとは到底思えない。ブローデルがどういう視座に立脚しているのかを冷静に読みぬくことこそ、ブローデルの議論の方向性にも適うに違いない。

そういう意味で、自らが何者で、どのような視座を持っているのかを自覚しつつ、世の中に溢れる物質生活の星屑を拾い集めながら、それを星座連関(constellation)へと描き出していくこと、そしてその星座連関を構成する関係性がいかなるものであるのかを読み解いていくこと、ここにブローデルの最大のおもしろさがある。ブローデルがロレーヌ地方の景色を想起するように、私たちもそれぞれの景色を想起しながら。

ブローデルを読んできて、1年半くらいをふりかえってみると。

この文化の読書会が始まって、1年半が過ぎた。厳密には、1年7ヶ月。最初に読んだのは、ブローデル編の『地中海世界』だった。フランス語圏の思想に、メルロ=ポンティ以外にはほぼ興味を持たなかった私にとって、ブローデルを読み始めたおかげで見えるようになった景色は大きく変わった。

とりわけ、この『物質文明・経済・資本主義』は、必ずしも整然とした体系性が前面に押し出されているわけではない。しかし、雑然としたさまざまな事柄を酌み取り、それらを繋ぎ合わせながら、生活の実相を浮かび上がらせていくというアプローチは、経営学においても注目されているナラティヴという概念を、私にとって立体的なものにしてくれた。まさに、ナラティヴというのは、こういった物質生活の断片を一つひとつ拾い集めていくことに他ならない。

同時に、そういった断片を拾い集めながら、そこに対応分析という方法を用いながら、その構造を明らかにしようとしたブルデューという人も、最近かなり気になっている。ブローデルとブルデューにはつながりがあったようだ。フランス語がさっぱりな私にとって、ここに踏み出すのには困難が多すぎるが(笑)

ただ、すでに触れたことでもあるが、今の時代においては、自分自身の視座そのものを省みる(reflective)姿勢が併せて求められることも、やはり意識しておかなければならない。それがあることによって、こういったアプローチの豊穣さは、より増していくようにも思う。

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