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観音美住 Kannon bis Can no bis

真鶴暮らしの拠点となる家を私たちは、「観音美住」カンノビスと名付けました。
元々は真鶴港を母港とする船の名前「観音丸」から、カンノンマルと呼ばれていた家です。

山﨑陽軒の母方の曽祖父である露木宗吉は、真鶴名産の小松石を三浦や房総、横浜、東京などに運ぶ石材運搬船「観音丸」の船主でした。
その宗吉が大正時代、真鶴港の近くに小さな家を建てて、そこで十人もの子供たちを生み育て、ご近所さんはこの家のことを親しみを込めてカンノンマルと呼びました。
大正12年に起こった関東大震災では、688戸が被損し壊滅状態となった真鶴ですが、観音丸は船も家も奇跡的に助かったのだそうです。

昭和に入って、戦争で宗吉も船もなくなりましたが、観音丸の家は空襲にも焼け残り、戦後は祖父、祖母とその6人の子供たちが暮らす、小さいながらも親戚やご近所さん、漁師さんや農家さんなどの出入りが絶えない、賑やかな家となりました。
人が大勢いれば、時には荒立つこともあったでしょうが、先祖代々港町の暮らしの中で培ってきた智恵と共に、みな楽しく日々を送っていました。

陽軒はこの、毎日十人以上が食卓を囲む賑わった環境で、誰彼となくかまわれながら幼少期を過ごしましたが、中学卒業と同時に家から離れ、以後はお祭りとお盆、年末年始などに帰るだけでした。
東京で事業を始めて忙しくなると盆暮れもなくなり、その間に観音丸で暮らす人も減り続け、とうとう誰も住まない空き家となってしまいました。

空き家問題は今、全国的に大きな問題となっています。
人口7千人弱の真鶴町にも、現在5百軒以上の空き家があると言われ、町はその対策に迫られていますが、ヒト気がなくなって放置された家を、いざ住めるように片付けるとなると、一軒一軒大変な労力を必要とします。

100年もの間に延べ数十人が暮らしていた観音丸。
家の中には、膨大な量の荷物が溢れんばかりに置かれていました。
使うもの、使わないものを仕分けし、トラックで約15トン分のゴミを運び出すまでに、およそ1年がかかりました。
そして部屋の中が片付き、創建当初の造りが見えた時には、100年前の美意識や遊び心に眼を奪われ、当時の感覚を暮らしの中で共有したいと思えるようになりました。

真鶴への移住を決意した私たちは、つつましくも美しいこの港町の伝統的な住まい方を記した「美の基準」のキーワードを参考に、「観音丸が賑わっていた頃の美意識を持って住まう」という意味を込めて、この新しい住まいを「観音美住」と名付けることにしました。

観音美住をアルファベット表記にすると、
Kannon bisとなり、「観音再び」という意味になります。
また、KをCに変えて、
Can no bisと表記すると、「ビジネスに在らず」という意味にもできます。
仕事に追われるあくせくした生活から離れ、自然と共に美を楽しんで暮らしたいという願いが込められています。

読み仮名は、カンノビス。
これは、現在世界的に医療用始め、持続可能社会の奇跡の植物として注目されている、cannabisカンナビスにかけています。
アフターコロナの新しい社会の一画で、みなが美しく健やかに生きていけるようになるための、何らかの役割を果たしたいという意志と希望を持って、私たちは真鶴観音美住生活を送り始めました。

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