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創造 創造性と狂気

精神的健康のなりたちのトップに挙げた「創造creation/創造性creativity」は、ヒトの精神の素晴らしさを特徴付ける輝かしい一面ですが、一歩踏み間違えると、暗黒面に落ちてしまう危うさも、隣り合わせに持っています。
「天才と狂人は紙一重」というように、高い創造性を持つ芸術家は、同時に深い精神的病理も抱えやすいものだとされています。
自らの耳を切り取って近所の主婦に送りつけたフィンセント・ファン・ゴッホや、馬に縋り付いて泣きながら精神崩壊を起こしたフリードリヒ・ニーチェ、夏目漱石・芥川龍之介・太宰治・川端康成・三島由紀夫ら一連の精神疾患文豪など、例を挙げればキリがないほど、創造と狂気は密な関係にあるものです。
ストックホルム・カロリンスカ医科大学のシモン・クヤガ氏の研究チームが、120万人に及ぶ精神科患者とその親族を調査した結果では、創造性が要求される分野で活動している人は双極性障害の発症率が高くなっているそうです。
特に作家では121%という顕著な数値として現れ、自殺率も50%高くなっています。

創造と狂気を結びつける考え方は、プラトンやアリストテレスの時代からあり、プラトンは「正気の人間が詩作の門を叩いても無駄」、アリストテレスは「わずかな狂気も交じらない天才はいない」と言っています。
古代ギリシャにおいて狂気は、理性を超えた神がかり的状態として肯定的に捉えられており、デルフォイの神託などの例に見られるように、社会的にも積極的に受け入れられているものでした。
現代社会に見られる創造性と背中合わせの狂気は、古代ギリシャの黄金期に当たる枢軸時代に起きた、精神の“大”パラダイムシフトによって、ヒトのこころに開花した高度な創造性の花弁の裏面にセットで生まれた精神構造の表れなのでしょう。
崇高な哲学や宗教の高みに到達したヒトの精神は、同時にその奥底に広がる深い闇の井戸を発見し、創造的発想を引き出すためのエネルギー(ムーサの賜)を、その源泉から汲み上げるようになったものだと思われます。

ルネサンス期のヨーロッパにおいても、狂気の社会的価値観は古代ギリシャでのあり方のように肯定的でした。
男性の裸体にとことんこだわり続けたミケランジェロを、同時代の人々は「神の如き」と絶賛していますし、レオナルドは人間の本質を「残酷無慈悲なる怪物」と捉えていました。
狂気は必ずしも正気と対立するものではなく、狂人は「あちらの世界」と「こちらの世界」をつなぐ、「神に選ばれし存在」であると畏敬されていたのです。

ところが、宗教改革や科学革命を経て、「理性」を主体とする近代社会が訪れると、狂気は正気を脅かすものとされ、一般社会から排除されるようになります。
近代社会は狂気を「理性の欠如」として捉え、「狂人」は強制的に施設に隔離され、治療されるべき「病人」であるとしました。
「精神病」や「精神医学」「心理学」等は、近代社会によって新たに書き換えられた「狂気」の定義によって誕生したのです。

こうして「狂気」は社会のマジョリティから疎外されるようになり、それと裏表の関係にある「創造性」もまた、必然的に危うさを抱えるものとなりました。
人並み以上に創造的能力を持って生まれた者は、常に自らの内なる狂気の存在を疑いながら、社会から疎外され自由を剥奪される危険性と隣り合わせに生きざるを得なくなったのです。

ドッシリと安定した日常の道筋から離れ、狂気と破壊が両側に切れ込んだ細い尾根道を注意深く渡り切るか、谷底まで落ちてからもう一度這い上がる事で、初めてヒトは圧倒的なエネルギーを持つ創造の世界へたどり着けます。
しかしその一方では、暗黒の谷間へ落ちたまま、二度と尾根道まで戻って来られなくなってしまう危険性も孕んでいます。
ヒトの精神世界の豊かさを切り開いてきた近代の作家や思想家、芸術家たちは、みなこうした危うさの中で創作活動を続け、そのまま社会的不適合者となってしまうケースも多々ありました。

「近代」という病に侵された社会の中で、個々人の「創造性」を全面開花させることは、難しいばかりか命にも関わる危険性があります。
しかし現在の我々ホモ・サピエンスは、種の存亡自体がまさに、我々自身の秘めている創造性の使い方によって決定する、という瀬戸際に立っているのではないでしょうか。
ルネサンス期や古代ギリシャのような創造性優位の社会を参考として、「狂気」を併合できる新たな精神的地平を切り開くことが、現代に生きる我々には急務なのではないかと考えられます。
そのための方法の一つとして、次章からは「瞑想」について考えていきたいと思います。

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