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収穫体験を通して、少しでも違う未来が描けたら。

今月の下旬に私たちとしては初めてとなる、稲刈りの農業体験を実施する予定です。その農業体験を快く受け入れてくれたのが、私が入社した時からお世話になっています、音信米(おとずれまい)の生産者でもある根本泰弘さんです。

根本さんの田んぼは、千葉県の市原市にあります。行くとわかるのですが、周りは山や多くの樹々に囲まれ、見渡す限りが田園風景のところです。

コンバインに乗っている根本さん。

じっとしてても汗が流れる暑さの中、8月も中旬を過ぎると早生品種と呼ばれる房おとめなどから稲刈りが始まっていきます。

その忙しい時期にもかかわらず、今回の農業体験のご挨拶に伺い、改めて稲作の事だったり、これからの話を聞いてみました。私自身、根本さんのお宅にいき稲作のことを作り手の人から伺うのは、実は数える程しかなかったことに、今回改めて気付かされたいい機会でもありました。

そんな私に対して「いつも頑張っていただいて、ありがとう。」と声をかけてくれる根本さんの言葉には、ただただ頭がさがる思いだった。

音信米の生産者根本さん。

今まで聞いていたことがあったかもしれないが、きっと私の知識及ばずで、理解すらしていないことの方が多かったんだとも思う。

今回うかがい、改めて稲作のこと。この土地のこと。根本さんの先代の話などなど、聞けば聞くほど興味深くもあり、今まで以上に協力できることがあれば、何かして行きたいという思いが強くなりました。

古き時代からこの地に住み、共にこの地で歩んできた人たちの絆だったり、この地を守り抜いて行くことを背負う、その大きさが少しでも伝わればいいなぁ。という思いでまとめてみました。

稲作の行われている地。

根本さんのお米は、千葉県市原市の山口という場所で作られています。山口という場所には、音信山(おとずれやま)という標高183mほどの山の麓にあります。市原市のホームページに音信山(おとずれやま)古道を歩くツアーというのがあったので、興味深くのぞいてみたらびっくり!そこには根本さんの奥様が紹介されていました。よろしければ、市原市のページもご覧になってください。

この市原市の山口という土地で育てられるお米を伝えていくのに、欠かせないものがあります。それは水です。今となってはこの麓にある田んぼには、水路がはりめぐらされて流れています。この田んぼの水路にあるお水というのが、この音信山(おとずれやま)から流れてくる山の絞り水なんです。

最初お話を伺ったときは、「山の絞り水?」という表現に違和感がありました。学校で習うだけの知識だと、「川から水をひっぱって。」とか「地下から水を汲み上げて。」とか、そんな感じになるのかなぁ。という認識でしかありませんでした。

今回、その絞り水の大元の場所に連れて行ってくれるという事で、通常入ることのないであろう山道など、車で走ること10分ほどだったかと思います。その水の源に連れて行ってもらいました。

それが、この場所です。周りは多くの木々に囲まれ、何も無いのでセミの鳴き声と、木の葉が風にゆられ鳴り響く音以外きこえない感じ。ひっそりとした場所に、ただただ広がる山の中にある池。これこそが、音信米(おとずれまい)を育てるのに欠かせない水となっているんだそうです。

音信山の絞り水でできた池。

この後、田んぼの方に行ってからその絞り水と表現していたことが、やっと頭の中で理解でき始めたのですが、ここの池にはまず川がないこと。つまりは山の土の中を通って、たまっていった水。そしてそこに溜まった水をこの地で稲作をしてきた人たちが、田んぼまで自分たちで水路をつくり水を引っ張ってきたということ。

この自分達で水を得るために水路をつくり、今ではU字溝などでしっかりと舗装されている環境。この水路を作り上げたのが、この地に住む先代の人たちの手作業で行われていた事を伺ったときには、ただただ驚きの声をあげるしか出来なかった。その話をしてくれた時の根本さんも、

『昔の人の水に対する執着みたいなものは、すごかったんだろうねぇ。』

と笑いながら教えてくれた。加えて言えば、途中の山々の間に水を通すため、自分達でトンネルまで掘っていたことも教えてくれた。しかも3箇所くらいあるそう。

山の土壌や山で育った木々たちの自然の流れで作られた水を、先人たちが切り開いて作り上げたものによって営まれている稲作というものに、感慨深くなってしまった。

根本さんの音信米。

農業を営む難しさ。

根本さんのお米は約30年も前にもさかのぼりますが、実は宮内庁に献上されたことがある献上米でもあります。弊社の房の駅ができたのが20年前になるので、その頃にはすでに農家さんの中では有名だったんだとも思います。

今でも根本さんは自身のつくるお米に対して、良いものを作ろうという姿勢は衰えを知りません。音信米に貼られたシールが示すように、ちばエコ認証の取得や米・食味分析鑑定コンクール:国際大会において、グッドファーマーとしての認定も受けております。下記のサイトに、根本さんの名前も記載されています。

根本さんの取り組まれている事やお話などを伺うと、お米をつくるだけでなく食べる人のことまでを考え、良質なお米を生み出すという、稲作を手がけるプロとしてのプライドみたいなものが垣間見えます。

とは言え、今までの根本さんの稲作が順調だったかといえば決してそうではなく、私たちの知らないところでの農家としての努力や、思い通りに行かないことなどが間違いなくあったと思います。

様々な課題による負担の増大。

根本さんは言います。元々、弊社直営店の房の駅に納品をはじめた頃、手がけていた田んぼの広さは、約3町歩ほどだったそうです。それが年々、増えていき昨年は20町歩。今年は22町歩になっているとのこと。相変わらず農地の広さの単位になると、頭の中がこんがらがるので、下記のサイトを参考にしていただければと思います。

東京ドームの広さが約4.7町歩とのことなので、根本さんが手がける22町歩は東京ドーム5個弱ほどもの広さになるという事です。

一見ビジネスが広がりを見せて、販路の需要をまかなうかの様にも思えますがそれだけではなく、ここまで広がった背景には音信山の麓で稲作を手がける人が段々と減っていってしまい、その減った人の分をカバーするかのように、根本さんが手がけているという事もあるということです。

この音信山の麓にある部落で、約50世帯ほど。他の生産者からも同じような話を伺いますが、農産物は市場価格で販売する金額が決まっており、肥料の値上げや人件費の値上がりを、そのまま販売価格に反映することが難しい。

コストだけが上がり販売する価格が同じであれば、当然手元に残るお金は減り続けていってしまう。小規模に稲作を営む人では対処できない問題も出てきて手を引いてしまう農家さん。加えて若い世代の方の農家離れによる後継者不在問題。

こうした世間で聞くような課題でやめてしまう方が出てくるたびに、この地で稲作を続けてきた根本さんは田んぼを引き継ぎ、手がけるように。それが膨らみ22町歩までになったそうです。根本さんは順調だった時を振り返り、こう言っていました。

「だいたい15町歩までかな。それ以降は負担ばかりが思う様にもいかず、少し感情的になってしまうこともあった。」と。

農家としての葛藤。

根本さんは、稲作の他に手がけている農産物があります。それは原木しいたけです。根本さんの家は代々、主に手がけてきた農産物が原木しいたけでもあり、根本さんとしても愛着がもちろんあります。

しいたけの原木ががある林。

ここで椎茸の話を伺うと、やはりプロとしての顔をのぞかせる。1本の原木で約7年間もの間、良いシイタケを取り続けられるように管理することだったりを説明してくれる時の情報量の多さから、自身の手がけるシイタケに対しての伝えたい気持ちを強く感じる。けれども、そのチカラを入れて手がけてきたシイタケ栽培が、稲作の負担が増えてしまったことにより、手がける事が難しくなってきているそう。

幸い根本さんには、ここを引き継いでくれる人がいるので、根本さんのシイタケがなくなるわけではない。ただその作り手として何年も向き合ってきた人だからこそ、育てる過程に自分の携わる時間が削られていくもどかしさや、寂しさみたいなものがあるのだとも思いました。

シイタケの原木。

予期せぬ自然災害というリスク。

ここ数年、今までありはしたけども、そこまで致命的な問題にまでならなかった自然災害。それが2019年にあった千葉県を襲った令和元年の東日本台風がきっかけで、農家さんにとってもリスクとして頭のどっかに覚えておかなくてはいけない事となった。

この時9月にきた15号の影響よりも、その後にきた19号の被害の方が根本さんたちに取ってみれば、大変な出来事になってしまったそうです。この台風被害で、いつも当たり前のように流れていた田んぼへ流れ込む音信山からの水が、山崩れによって寸断されてしまったそう。

水がなくなってしまっては、稲作ができないという死活問題にもなりかねない。そう考え部落の方達と復旧に向けて行政に相談するも、「復旧は民家の方が優先され、手を回す余裕はなかったんだとも思う。」と根本さんは振り返りながら説明してくれました。

台風被害を説明してくれた根本さん。

とは言え、そのままでは稲作ができなくなる。ということで業者なりに見積もりを依頼などして、復旧に向けた取組みを急いだそうです。ただ業者から出てきた見積もりが、水路の開通全てではなく一部だけで約200万。

そんな資金は捻出できないと悩み、部落の人たちと考え、最後は自分達で復旧に向けてやろう!となったそう。その当時の写真があったので、一部ご紹介します。

復旧時の写真。

約50ほどの部落から男であるとこところは、ほぼ出て約35ほどの世帯みんなで手作業で復旧作業を行なったそうです。その日数たった1日。人海戦術に加え地元出身の建築関係の方のチカラをかり、重機などフル稼働させ負担も軽く早期復旧につながったそうです。地元の人たちの絆と力強さを感じました。

この時、音信山(おとずれやま)からの水が開通し元通りになったのは、台風被害があってから約3か月後の年が明けた1月だったそうです。

私たちができること。

根本さんのお宅に伺ったのが久しかったからなのか、その積もる話が奥深いものばかりで、ここ数年間ものあいだ私はなにをしてきたのだろう。何かできていたのだろうか。と、少し後悔の念にかられた。

お米を育てる量が増えれば、当然販売していかなければいけない量も増えていってしまう。そのリスクを抱えながら、今まで行なってきた部落での稲作というものを諦めてしまわないように、やり続けて行かなければいけないという、なんだか宿命じみたものも感じてしまった。

かといって、根本さんが望むのはきっと私たちからの同情ではない。まずは根本さんの作るお米をはじめ、農産物をまずはしっかりとお客様に伝え販路を確保し安定させていくこと。

その上で、よりお客様に根本さんの作るお米というものが、どういうものなのかをお伝えし続けられるかが大切になってくる。もしかしたら、根本さんは今回のように深く話を伺わなければ、台風被害のことや近隣の部落の近況までを言葉にしてくれる機会はなかったかもしれない。

今までお世話になった分、これからは人としてももう少し頼りにされるような関係となれればいいなぁ。と個人的にそう思いました。

収穫体験を通して。

今回はじめての取り組みとなる稲刈り体験。今まで行ってきた収穫体験のいいところや反省すべき点を修正かけながら、より長い視点や目線も必要と感じています。

参加いただけるお客様のことはもちろんのこと、快く引き受けていただける農家さんにとっても当然「やってよかった。」そう思ってもらえるような取り組みにしていきたい。それを踏まえて、今まで足りなかった「事前に自分で体験してみる。」というのも含めて、今回根本さんのお宅に伺いました。

人生ではじめてとなる稲刈り体験。稲の掴み方も知らない、私に対するレクチャー。言葉も優しかったが、私が用意した鎌があまりに小さかったのをみて、何か言いたくなったのは間違いないだろう笑

プロの手際でレクチャー。

私は素人なので、どこかモゾモゾした感じで手際の悪さが光ってます。

いつになく帽子でかわいさをアピール。

もっとダメダメかと思いきや、なんだかんだで刈り取れたので素直に嬉しかった。はじめての事は、出来るとなるとなんでも嬉しさが込み上げてくる。

はじめて稲刈り出来ました。

収穫体験の話だけでなく、今までのお話をいただけただけで、私としてはかなり収穫というか、今まで以上の事をやって行こうというやる気スイッチ的なものを押された感じがしています。

ひとまずは、私が感じた稲刈りの楽しさや嬉しさというものを参加いただいた方にも体感していただき、そしてより多くの人にこの音信山の麓で育つお米の魅力をお伝えできるようにしていきたいと思います。

引き続き、応援のほどよろしくお願いいたします。