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失恋する私の為の人生見直し映画コラム  ④「ラウンダーズ」

1999年、32才再起を誓って東京にいた。

二十代半ば、早々と東京での仕事に挫折した私はボロボロになって田舎に帰り、多少のお金を貯めて、まだ夢を諦めきれずに、三十代前半でまた上京した。知人の紹介でやっと映像関係の仕事を得て、京都から東京に出たのに二年も続けることが出来なかった。京都の仲間たちにもあきれられたのでその後はあまり会ってなく、以前のバイト先には顔を出すこともできなかった。それは現在も続いている。とにかく自分が情けなかった。

バブルが弾けて、時代も大きく変わっていた。

中央線沿いの街に住むことにしたが、駅前の一等地にある建設会社の建物は倒産したのだろう、貼り紙が至る所に貼られていた。だから町全体が殺風景だなというのが第一印象だった。私はこの時も行き当たりばったりで、就職活動を始めたが年齢的に厳しいものがあり(当たり前だ)貯金が減ってきたのでまたバイトを始めた。今度はフリーターなどという夢のある存在ではなく、完全にチェーンのファーストフード店の「非正規労働者」。ただこの状態でなんらかの夢の取っかかりをつくりたいとは考えていた。

早朝からのシフトにしたのは映画が見たかったから

夕方早いうちから見に行けば2本見れる。何かの学校にも行ってみたかったし。

そのかわり、仕事は辛かった。年下の先輩に指図される日々。マニュアルは多いし、恋愛禁止はまだわかるが、バイト同士で、食事に行くのも、飲みに行くのも禁止。自分が招いた状況だが、東京は厳しい、寂しい場所だと思った。誰とも会話らしい会話をしない日もあった。

映画だけが救いだった。何故だったんだろう?東京には知り合いもいたし、会って話くらいすればよかったのに。年相応に婚活とか、趣味のサークルを見つけるとか。今思えばもったいないと思うが、いたずらに若さを浪費して、時は無限大にあると思っていた。そして孤独でもいいから、ただ夢を見ていたかった。

「ラウンダーズ」はハマる映画

よく見に行っていたのが、飯田橋のギンレイホール。

調べてみたら、ホームページに1999年の上映映画一覧が記載されており、私はこの映画をこの年の8月14日〜8月27日の間に見に行っていたことがわかった。凄いギンレイホールこんな記録を載せてくれてるなんて。丁度上記のバイトを始めた矢先の頃だった。その年の夏も暑い夏で、バイト帰りの疲れきった汗だくの私が、まだ傾かない日差しを避けるために、最寄り駅の地下に駆け込み映画館に向かった時の記憶がよみがえる。

例によってまったく予備知識がない映画だったし、私の好きな恋愛、お色気要素がほぼない映画なのに、初めて上映期間中に3回も見に行った記念すべき映画となった「ラウンダーズ」。

賭けポーカーで、学費や生活費を稼ぐ法科大学の青年マイク(マット・デイモン)がポーカーの世界選手権を目指す青春映画である。賭けポーカーを生業にするプロのことを「ラウンダーズ」というらしい。またしても単純といえば単純なストーリーの映画。

夢を追いかける若者の青春映画といっても、ギャンブルの要素が強いので、絡んでくるプロ達は個性派揃い。

まず親友でイカサマ野郎の通称ワーム(エドワード・ノートン)。家庭もあるので、冒険はせず、手堅く稼ぎ、負けそうな試合には絶対手を出さないジョーイ(ジョン・タトウーロ)。ロシアのマフィアと繋がっている非合法の賭場の元締めKGBことテディ(ジョン・マルコビッチ)。

彼ら個性的な面々とのやり取りを見ているだけでも、まず面白い。クセだらけの一筋縄ではいかない人物ばかり。だが、ポーカーに対して、それぞれの取り組み方はあるけど、とにかく真剣で熱い。

そして、はまった要素は他にも沢山ある。ニューヨークの夜のシーンと、音楽の効果的な使い方である。

今回見直して気づいたことだが、まず映画はニューヨークの深夜のシーンから始まる。ポーカーをやることに反対をしている恋人が寝静まっている深夜、主人公のマイクは部屋中に隠してある、バイトで得て、ちびちびと仕事のようなポーカーで増やした、束ねた札束をかき集め、彼女にキスをして部屋を出る。向かうのはK G Bの賭場。そこにマイクのモノローグがかぶる。

「生活のためのポーカーは仕事と同じ。勝てるときだけ勝負し、運試しなどしない。ある日こう悟った。慎重すぎると人生全体が退屈になる。」

マイクはいきなり、手持の財産全てを懸ける勝負に出るのだ。

全編、ほとんど夜のシーン。私自身もマイクと同じように、映画館という暗闇にいて、まるで同じ賭場にいるような臨場感が味わえるのだ。今現在は部屋を暗くしてテレビかネットでみるが、部屋に向かう時も、この時のマイクと同じようにこれから賭場に向かい人々の喧騒にまみれる、登場人物の1人になれるような気がしてくる。そこがまずはまった一つの要因であろうと気づいた。

音楽は全編、クリストファー・ヤングのジャズ調な雰囲気の抑えた色彩のもの。冒頭から静かにマイクのモノローグに寄り添い奏でられる。

しかし、この静けさをぶち壊すのが、この物語の狂言回し的な役割のワームである。イカサマ的な刑のために刑務所に入っていたワームを、恋人に軽蔑されながら彼女の車を借り、迎えに行くマイク。ワームの登場シーンから曲調が変わり、アップテンポにリズミカルになっていく。

曲がシーンにハマりすぎるくらい、バッチリあっていて、ミュージックビデオを見ているみたいに心地よい。これも私がはまった需要な要素の一つ。

あとは、冒頭のマイクのモノローグもそうだが、ところどころに刺さるセリフが散りばめられているところもいい。

マイクの法科大学の教授ペトロフスキー(マーティン・ランドー)がパブでマイクに話す自分の身の上話のシーンが特に好きだ。両親が勧めるユダヤ教のラビの道を捨て、法の道へ進んだ教授。未だに両親とわだかまりがあるが、自分の選択に誤りはなかったと言う。「何故なら、神がいない」そのセリフは重みがあり、説得力があると思った。行った方がいい道と行きたい道。誰しもそこで迷うものなのか?

この時この映画館には偉大な先輩がいた。

実は、映画館で一番前の席に座り始めるのはこの頃からである。何故なら飯田橋ギンレイホールは前後の席と席の間が狭いので、前の人の頭が結構気になるからと言うのが一つと、一番前だと足が伸ばせて楽なのと、トイレに行くのもそう迷惑にならないというのと、一番前の席から割と離れたところにスクリーンがあったのと、色々な理由を総合してそれが一番落ち着けてゆっくり見られると判断したからだ。

ただ、こう思うのは、私だけではなかったようだ。

計三回この映画館に「ラウンダーズ」を見に行ったが、一番前の席には三回共先人がいた。同一人物である。私は行く時間もバラバラだったし、二本立てなので、どちらからみてもいいようになってて入れ替え制でもない、とにかく行くと先にいらっしゃるというのは、かなりのレアな確率か、ずっと一日中いらっしゃったのかの、どちらかだと思う。

白色のワンピースだったので、女性だと思う、髪も長かった。全体に可愛らしい感じの方だが、なんとなく、当時の私より年上な感じがした。見知らぬ方なので注視するわけにもいかず、一つか二つ離れて座った。

映画が始まってから気がついたことだが、彼女は私よりこの映画にハマり込んでいた。何か声がすると思って隣を見ると、彼女は登場人物の動きに合わせ手を動かし、台詞に合わせてセリフを言っている。特にワームが登場するところで。もしかして全部セリフを覚えている?しかも英語で。私は「ガラスの仮面」のモブの1人になったかのように、ただ感心するしかなかった。「上には上がいる。東京ってやっぱりスゴい。」邪魔するのも悪いので話しかけられなったのは残念だ。

ワームのエドワード・ノートンのファンだった可能性もある。実際、彼は今風に言うと「キレッキレ」な演技で、この映画の「一番オイシイ所をモッテイッチャッテル」感がある。

ワームがいたから

さて、主人公マイクの親友でイカサマ師のワーム。マイクが真っ当な道に進もうとすると必ずあらわれ、裏道に誘い、マイクの名で平気で借金をしたりして、彼の足を引っ張る悪友。ほとんどの人から愛想を尽かされ、マイクからも「五分でいいからまともに生きろ」と戒められる。だけど、不思議と馬が合い気がつくと一緒にいる。男同士のこういう関係は女には理解出来ないことが多い。マイクの彼女からも「まだあんな人と付き合っているの?」と眉をひそめられるシーンもある。これは彼女のセリフではないけれども「この人といてなんかいっぺんでも得したことあった?」という気持ちだろう。

私も以前は単なるクズ野郎くらいにしか思ってなかったが、ひと年取ると、こういう制御不能にアクセルを踏むみたいな人 が先を走らなければ、マイクのようについブレーキを踏みながら走行してしまいがちな人は、思いきった火事場のクソ力みたいのが永遠に出ないのではと思うようになった。必要悪も時には必要ということ。

私の人生でいうと、今まで私が失恋してきた人たちがこういう感じか?ていうか恋愛自体が私にとってこういうものなのかなと最近思うようになった。「私には必要悪である恋愛なんかして(自分の意思と関係なく落ちるものなので)、なんかいっぺんでも得したことあった?」と自分自身に問いかける。

「ここじゃないどこかへ、進んでいけということがわかったことかな。」今の時点では、そうとしか答えられない。






        

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