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ラジオで聞いた「会計の歴史」


2021年1月から3月にかけて、NHK第2で放送された「カルチャーラジオ 歴史再発見『会計と経営を巡る500年の歴史』」。

書籍「会計の世界史」(日本経済新聞出版)の著者である、公認会計士の
田中靖浩氏による30分×12回の講義。

面白い学びが数多くあったので、好き勝手に捕捉や感想を交えながら、
内容をまとめておきたい。
(4月3日メモ:要点を抜粋し、ある程度捕捉を加えたが感想はまだない。
 公開後ではあるが編集するつもり。)

講義(全12回)の概要

中世イタリアにおける簿記と銀行の誕生からはじまり、15世紀フランドル地方、近世オランダ、革命前後のフランス、産業革命後のイギリス、19世紀以降のアメリカ、と時代と舞台を変えていく。
船による貿易、鉄道の普及、自動車生産の本格化と、交通インフラの中心を
担う「乗り物」の変遷と地域ごとの経済の勃興、その背景にある絵画を中心とする文化的背景が「会計と経営」の歴史とひもづけて説明される。

イタリア編 簿記と銀行はイタリアで生まれた


中世のイタリアで簿記と銀行が誕生した。
当時のヨーロッパは香辛料、絹織物などの取引が盛んで、イタリアの港町は
東方との通商の窓口として栄えた。

14世紀、中国発祥のペストが商船を通じてイタリアからヨーロッパへと広がる。ヨーロッパ内を商人たちが行き来していたことも感染を拡大させた一因。いわば経済発展、グローバル化の副作用的にペストが広がった。

ペストの感染拡大は神に祈っても止められない。こうした現実から教会の
宗教的権威が揺らぐ。信仰心を取り戻すため、教会などの建造物の建設に力が入れられるようになり、これを財政面で支えたメディチ家が台頭する。

なお、この建設ラッシュは、絵画や彫刻の需要増にもつながり、ルネサンスの誕生へと通じていく。

メディチ家の提供する金融サービスの中心は「為替手形」。
大陸を渡り歩く商人たちにとって、現金を持ち歩くリスクは大きい。
一方、融資によって利息を取るビジネスは、キリスト教では表向き禁止されていた。(神のものである「時間」を自己の利益に変える行為が許されない)

為替手形のサービスには支店網の拡大が必要。これら支店網を管理するため、メディチ家は支店長に大きな権限を持たせたり、支店長をオーナーにしたりするなど、分散管理を中心に行う。しかし「帳簿」の扱いにだけは厳しかった。

支店単体では「出金のみ」「入金のみ」だったりする時期もあるため、
支店網を統合した資金管理ができないと、経営状態を把握できない。こうしたニーズから複雑で高度な簿記のシステムが必要とされた。月に一度、支店長たちはフィレンツェの本店に帳簿を届けていたという。このノウハウが商人の間に広がり、フィレンツェ式簿記、ヴェネツィア式簿記と呼ばれるようになる。

この時点で、期間ごとの収支をはっきりさせるようになり、棚卸時には
資産の帳尻を確認したりと、すでにフローとストックの概念が存在した。


ダ・ヴィンチと会計は実はつながりが深い。
ダ・ヴィンチの父親は公証人。当時は社会的地位の高い職業だった。契約内容について記録を残し、複雑な計算を代行したり、トラブルを調停したりと、
弁護士と会計士を足して2で割ったようなサービスを提供していた。

こうした契約文化の社会において、ダ・ヴィンチは前金をもらっておきながら締め切りを守らないという仕事ぶりをしていた。おかげでフィレンツェに
いられなくなったダ・ヴィンチはミラノに移る。同じ時期、数学者のルカ・パチョーリもミラノを訪れる。パチョーリは数学書「スンマ」の著者。この本の一節に簿記の技法が書かれている。ダ・ヴィンチはパチョーリから数学を教わったようだ。

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ダ・ヴィンチは食堂の壁に絵を描くよう注文を受け「最後の晩餐」を手掛ける。「食堂に晩餐の絵を描く」というベタでありきたりなテーマ設定だが、透視図法に加え、遠くをぼかしたり、画材を工夫したりと、壁の中にさらに奥行きがあるかのような、当時としては画期的な技法が使われている。こうした技法にパチョーリからの教えが役立っているのかもしれない。

フランドル地方の発展とヨーロッパ南北の技術融合

近世に向けて、海路の発展によりヨーロッパ北方のフランドル地方が栄える。

中世まで、経済的に栄えていた南方とフランドルなどの北方をつないでいたのは陸路。このころは中継地点であるフランスのランスが市として栄えていた。ただし、南北の間にはアルプス山脈があるため、やがて海路が中心となる。ジブラルタル海峡を抜け、風力を利用し、短期間で多くの荷物を運べるようになり、フランドル地方が経済的に栄え始める。

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こうした経済的背景を受けて、北方ルネサンスが起こる。
フランドルでは「油彩画の完成者」ともいわれるヤン・ファン・エイクが活躍。油彩画は南北の技術によって生まれたもの。それまでのフレスコ画、テンペラ画に比べて、亜麻仁油を使う油絵は、ゆっくりと時間をかけて作品を描いたり、書き直し、重ね塗りによるグラデーション表現などの点でも優れていた。また、それまではパネルに直接絵を描いていたが、パネルにキャンバスを張って絵を描くようになったことで、絵の保存性や持ち運びの利便性が高まった。油絵の具の技術は北方で発達し、キャンバスは造船技術の発達した南方から帆の布を使うアイディアが生まれる。

同じように印刷技術も南北の技術融合で生まれ、書籍が普及する。
(南を中心に紙の技術が発展し、北では活版印刷が生まれる。)

これによって簿記の技術も広まったが、それ以上に聖書が翻訳されて大ベストセラーとなる。また商人たちは伝統的なローマ数字から計算に便利なインドアラビア数字に記数法を変えていく。(ゼロを扱える、繰上りができる)
「スンマ」以外にも数学関連の書籍が広まったこともあり、数学知識の広がりが科学の発展につながる。

ほかにも、音楽の世界では五線譜が生まれ、海図、コンパスの技術革新、機械式時計が登場したりと、生活の様々な場面に数字が定量的に使われるようになる。なお、中国やアラビア地域は、使用する文字が複雑だったため、アルファベット主体のヨーロッパに比べて印刷技術の恩恵を受けられなかったようだ。

オランダの短い黄金期:株式会社、株式市場の誕生

オランダ建国前、この土地を支配していたのがカトリックの国、スペイン。
スペインが圧政を行っていたことと、北方でプロテスタントの勢いが増してきたこととを受けて、オランダはプロテスタントの国として独立する。

印刷技術の発展が聖書を普及させ、プロテスタントの勢力拡大につながった。カトリックでは「労働は苦役」と考えるが、プロテスタントでは労働を善と考える。プロテスタントの国であるオランダには、ユダヤ人を含む商人たちが各地から集まるように。

オランダは金乳機能が充実し、造船、海運、貿易と産業が発展し、資金調達の必要性が高まっていく。こうしたなか、世界初の株式会社 東インド会社が設立される。

オランダは東インドとの大船団での貿易、港などのインフラの拡充などの目的に大規模な資金調達を行うように。同時にキャピタルゲインを得る仕組みとして株式市場(マーケット)が発展した。

やがて東インド会社は経営に失敗し、オランダ経済も黄金期を終える。

東インド会社の失敗は大きく3つの要因による。

1つはガバナンスの欠如。
 貿易を行う最中、船員たちが船荷をくすねていた。
2つ目は売れ筋を見誤ったこと。
 香辛料のビジネスにこだわりすぎて、新たな売れ筋(お茶、絹織物)に
 よるビジネス・チャンスを逃した。
3つ目は内部留保の不足。
 株主に対する配当性向が高すぎた。

同じころ、オランダではチューリップ・バブルが生まれ、はじけ、
オランダは黄金期を終える。

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芸術面ではライデンという街からレンブラントが登場。

スペインとの交戦で、自ら街を水没させることでスペイン軍を追い払った
ライデンという町。ここに褒章としてライデン大学がつくられる。
レンブラントもここに入学した。代表作の「夜警」は独立戦争の名残でつくられた火縄銃組合のメンバーからの依頼で描いた作品。集団肖像画として注文を受ける。

カトリックの国では宗教画が中心だが、プロテスタントの国、オランダでは裕福な市民のために肖像画を描く需要が高まる。家庭に飾れるよう小型化した絵画が増える。これは市場で流通させやすいため、チューリップ・バブルのさなか、金融商品のように売買されていた。ちなみに「夜警」は、集団肖像画のわりに中央の2人だけが目立つ構成だったため、注文主からは不評だったのだとか。自らの芸術性を優先したのだろう。

フランス革命、そして高級ブランドのルーツ

17世紀、フランスの貴族はイタリアの芸術に対する文化的な憧れがあった。
フランスは絵画を輸入国として金銀が流出する。重商主義のもとでは金銀の保有量が国の富を決めるため、フランスは輸出国への転換を図る。

当時の画家は、いわば職人であり工房で師匠について修行を経て一人前になるというキャリアの積み方が主流。これに対しフランスは芸術家の育成を図るため学校王立彫刻絵画アカデミーを設立(1648年)。
ただし王立学校のため、学生たちの作品には王侯貴族の好みが反映される。
やがて印象派とよばれる反主流派が登場するまで、こうした傾向が続く。

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フランス革命までの主流は優美で繊細なロココ絵画。ブーシェの書いた「ポンパドール夫人」は多数模写され、一般市民も彼女の絵を飾っていたのだとか。

美食の国といわれる所以でもあるフランス料理は、メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスが、フランス国王 アンリ2世に嫁いだことから発展し始める。カトリーヌはイタリアからレシピだけではなく大勢の料理人、食器や
テーブルマナーをフランスにもたらした。

フランスにおける王様、貴族、教会関係者、これら特権階級の割合は2,3パーセント程度とされる。彼らは働かずに税金で生活、老後は年金生活。
美食や美酒にお金をかけることはもちろん、宮殿、お城を作り、芸術品にお金をかけた。芸術家からするとありがたいが平民にとっては実効税率が6割から8割、ときには9割に達した地域も。

日々のパンにも困った平民たちが、やがてフランス革命を起こし、王と王妃はギロチンにかけられる。

フランス革命の勃発は他国の王侯貴族を震え上がらせた。
革命が飛び火するのを避けるため、多国籍軍がフランスを取り囲む。
これを撃破したのがナポレオン軍であった。

ナポレオンは師団編成(Division)によって分隊が自律的に戦える組織を作った。これは現在の多角化企業における事業部制(Division)のルーツともいえる。

革命後、ロココ絵画はアンシャン・レジームの象徴としてのムーブが終わる。代わってギリシャやローマなどをテーマにした新古典派と呼ばれる重々しい絵画へと古典回帰が進む。王侯貴族が寡占的に所有していた美術品の数々はルーブル美術館に展示され、一般公開されるようになる。こうした取り組みが民衆からの支持を高めたこともあって、権力を否定したフランスにて、再びナポレオンに権力が集中する。こうしてナポレオンは皇帝となる。

フランス革命の原因がそもそも財政難にあったため、革命で戦果を上げても論功行賞の財源には乏しかった。やがてフランス各地で土地の払い下げが進む。土地は細分化された。イギリスが産業革命し工業化を進めるなか、フランスは払い下げられた土地で農業を中心に行っていた。土地が細分化されたため、個々の農家は小規模だった。これら小規模農家が家内制手工業を手掛けるようになる。馬具をつくったり、革カバンをつくるようになったり(エルメス)、馬車や船で往来する時代、荷物の運搬に丈夫なトランクを作ったり(ルイ・ヴィトン)とものづくりが行われていく。

イギリスとは異なる、機械に頼らないこだわりのモノづくり。
これがフランスのブランドを生んだ。革製品、帽子、服飾、時計。
フランスはカトリック国のため、労働は悪という労働観、働かない文化をもつ。だからものづくりにおいても数多くは作れず、高価格で売るしかない。イタリアやフランスのブランドはこうした高付加価値高価格戦略をとらざるを得なかった。

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当時の農民の姿を絵画に残したのがフランソワ・ミレー。
バルビゾンに移り住み、農民を題材とした絵画でブレイクする。
ミレーの晩年にはカメラが登場。自分の絵を写真に撮り、カタログをつくってプロモーションを行うなど商売上手な一面もあったという。

イギリス:産業革命と鉄道会社の発展

17世紀から18世紀にかけて、イギリスの富裕層が子弟を文化的に進んだフランス、イタリアへとグランドツアー(大修学旅行)に送り出すという風習があった。期間は1年から5年。革命によってフランスが混乱するころまで続いた。当時のイギリスは産業革命によってどんどん経済的に豊かになったが、文化的にはまだまだ学ぶべき立場だった。

では、その産業革命とはなんだったのか。
16世紀のイギリスでは、森林伐採による木材不足が深刻化する。
寒い地域なのであまり木が育たないこともあり、エネルギー不足になる。
船も作れず流通が途絶え、軍事的にもピンチとなる。以降、17世紀にかけて石炭の発見利用によってブレイクスルー(燃料革命)を果たす。

石炭の強い火力で製鉄業が発展。炭鉱夫が炭鉱におしよせる。炭鉱に染み出る地下水(坑内水)は水没の危険を生むなど操業上の大きな制約となる。これを排水するために水汲みポンプの技術が発展。当初は手動だったが、やがて蒸気機関によって自動化する。人力でも家畜の力でもない初めての動力を得る。この技術が自動織機に使われるようになり、工場が誕生。機械の稼働時間に合わせて人がシフト制で働くようになる。

都市部には、最先端の工場にあこがれて若い農民が農場を捨ててやってくる。当時の都市部では空気汚染による肺炎、汚水垂れ流しが発生し、黒い雨が降り、衛生状態の悪化による伝染病が流行り、夫婦がシフト制で共働きすることによって子育てもままならなくなる。当時5歳まで生きられない子供が増え、平均寿命が20歳前後という町もあった。

蒸気機関を据え付け型から自走式にする。こうした発想からスティーブンソンの蒸気機関車が誕生。世界初の鉄道はリバプールマンチェスター鉄道。
1830年の開通、時速60キロで走ったという。鉄道は商業だけでなく軍事利用も想定された。そのため開通式にはスパイや軍事関係者も集まっていた。あらかじめ線路をひいておけば戦争に有利ということで、ドイツの路線はパリを攻めることを想定して敷かれたとも。

ところが、鉄道事業は国家主導ではなく民間事業中心に行われた。
各国の政府はナポレオン戦争のあとで財政的余裕がなかった。

そこで、それまでは国の認可を必要としていた株式会社の設立が自由化に向かう。資金調達、経営、配当が自由に行われるように制度が変わる。
会計面でも、株主へのアカウンタビリティを果たすため損益計算書、貸借対照表をつくったり、監査を行ったりするようになる。
会社という組織が一般化し、株主が増える。株主は海外の会社にも投資できるため、各国の鉄道会社に出資するレイルウェイマニア(鉄道狂)とよばれる投資家が生まれる。

しかし鉄道事業は莫大な初期投資が必要。土地を買い、線路をひき、車両を大量に買う。現金の出入りだけで帳簿を管理していたらなかなか利益が出せず、配当ができなかった。これでは株主が集まらないため、減価償却という仕組みを生み出す。初期投資費用を分割計上することで現金はなくとも名目上の利益が出せる。これが発生主義会計の始まり。キャッシュと利益のずれが生じるように。

ナポレオン軍に美術品を奪われないよう、絵画などを先んじて換金する動きが活発化する。換金された美術品の主な行先はイギリス。産業革命で経済が潤っていたことと、島国でナポレオン軍から直接攻撃を受けるリスクが低かったことが要因。こうしてイギリスでは美術品市場が栄える。クリスティーズ、サザビーズなどはイギリス発祥のオークションハウスとして有名。

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イギリスの画家、ターナーの『雨、蒸気、速度――グレート・ウェスタン鉄道』は当時の鉄道を題材とした作品。隅っこに船も描かれていて新旧の対比がされている。このグレート・ウェスタン鉄道の重役は鉄道会社組合をつくる。当時、太陽を基準に時間を測定していたため都市ごとに時刻がずれていた。そこで鉄道運行のために今でいうグリニッジ標準時が制定される。同様に信号通信などの技術もグレート・ウェスタン鉄道が取り入れ、鉄道沿いに電信網が整備された。

ところでターナーの絵は輪郭がぼんやりした抽象的な絵。カメラが登場し、白黒ながら鮮明な画像が撮影できるようになったため、輪郭の写実性を重んじる画風は意味をなさなくなった。こうしたターナーの作風はフランスの印象派にも影響した。

大陸横断鉄道の開通、アメリカ式の工業化の進展

19世紀半ばにアメリカではゴールドラッシュが始まる。カリフォルニアなど西海岸を中心としたため、東西をつなぐ大陸横断鉄道が1869年に開通する。
で東西がつながる。南北戦争後、そしてリンカーン暗殺から間もないアメリカにとって、大陸横断鉄道は分断されたアメリカをひとつにつなぐ象徴として人々に歓迎された。

開通式以降、アメリカ各地にバラバラと存在していた鉄道会社ごとの路線がつながっていく。やがて移民たちがアメリカ大陸を移動し始める。こうして各地に同時多発的に都市が形成される。ヨーロッパとは異なり、同じ時期に各地で都市が建設されたため、アメリカはどの都市も街並みが似ている。
都市人口が増え、衣食住などの消費財の需要が高まり、食品加工や生活関連のメーカーが登場する。しかし当時のアメリカには技術者がいない。そこで工場では分業体制が構築される。前工程・後工程をつなげて無駄なく効率的に生産するための科学的管理法が生まれる。

また互換性部品の導入が進む。これも職人の技術に頼らず大量生産を効率的に行うための仕組みだった。

やがてこうしたアメリカ式のものづくり手法はフォードによって自動車生産で花開く。いいものをより安く、しかも労働者の賃金は上げる、というフォーディズムの経営手法へとつながる。

会計については、鉄道会社、工場などでは価格設定などを目的として原価計算の手法が広まっていく。またイギリスの投資家はアメリカへの投資に熱心だったが、大西洋を挟むため、直接投資先の経営状態を確かめるのは困難。
そこでお抱えの会計士に現地視察を任せるようになる。

会計士は、決算書に基づく経営分析をレポートとして提出する。そこには。流動比率、自己資本比率など現在も用いられるような経営指標が記載されていた。このように間接的に経営の安全性をチェックするニーズが高まり、経営分析の手法が生まれた。

このころ、JPモルガンは鉄道会社の業界再編(モルガニゼーション)を行い、複数の会社の決算を統合するため連結決算の手法が生まれる。

未来のための会計からディスクロージャーの誕生

1920年、シカゴ大学で会計の歴史に残る画期的な新講座がジェームス・マッキンゼー教授によって生まれる。講座名は「管理会計」(マネジリアルアカウンティング)。それまでの会計は過去を見るためのもので未来に対してはノータッチだった。過去に起きた事実を網羅的に計算するのが会計の役割だった。しかし、20世紀に入り未来に向かうための経理が必要とされた。
マッキンゼーは「過去を見るのは経理マンだけで沢山だ。経営者よ、未来を読み、数字と言うものを未来の計画として作らなければいけない」と謳った。会計は経理マンのものから経営者のものへと変わりつつあった。

移民の国だったアメリカはこうして20世紀に入り会計先進国になる。
鉄道網が整備され、原価計算が普及し、大量生産でよいものをより安くつくる仕組みが整う。2度の世界大戦で戦勝国となり、本土が攻撃されることもほぼなく、世界的な債権国となる。

その後のアメリカの会計に大きな影響を与えた人物がジョセフ・ケネディ。
通称ジョー・ケネディ。アイルランド移民の3代目である。JFKの血縁者でもある。アイルランドは19世紀、じゃがいもの疫病がはやったため多くの農民が土地を捨ててアメリカへやってきた。ジョーの祖父、父親世代がアメリカでビジネスを軌道に乗せ、ジョーは親のコネでハーバード大学へ入り、同じく親のコネで銀行検査官という公的な職に就く。銀行を管理監督する立場として、一般の人がみることのできない銀行の決算情報に触れることができた。ジョーはこの情報を使ってインサイダー取引で大儲けする(当時は違法ではなかった)

ハリウッドの映画会社を乗っ取ったり。大恐慌のときは空売りで大儲けしたりと、あまり評判の良い人物ではなかったようだが、儲けた金をルーズベルト大統領の選挙戦につぎこんだ。当選後のルーズベルトはジョーをSEC、アメリカの証券取引所の初代長官に任命した。インサイダー取引を禁止する法案をつくるうえで適任と判断されたそうで、事実その後の証券市場の改革を成し遂げる。

その功績の一つがディスクロージャーの考え方を取り入れたこと。
それまでは株主や債権者に向けてクローズに扱われていた決算情報を
パブリックな報告書へと変革した。これは、現在の株主だけではなく、潜在的な、将来の株主に情報を提供することが目的。れは、現在の株主だけではなく、潜在的な、将来の株主に情報を提供することが目的。

ディスクロージャーを推進するため、公開企業向けのルールとしてUSギャップをつくる。さらにそれを正しくおこなっているかどうかを調べるためのaudit、つまり監査をする仕組みとしてCPA(公認会計士)の制度をつくったり、証取法をつくったりした。

こうして会計は自分のために行うお金の計算から、他人のために行うものへと変わっていった。現代では、さらにグローバルなルールを作ろうと国際会計基準が作られた。

また、未来のための会計も発展をみせ、金利概念までを含み、現在価値の割引などの手法を取り入れた企業価値の算出、コーポレートファイナンスの手法が生まれた。



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