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中国史小話集②

【外戚と宦官】
中国の東漢(後漢)は外戚と宦官の権力争いが終始続いた。理由は、幼帝が続いたことである。皇帝が幼いと外戚が後見人となり、その権力を利用して専横を極め、それを排除するために皇帝は宦官を利用した。それが繰り返され、宦官と外戚の対立が常態化したが、最後は何進暗殺→宦官皆殺しと共倒れになった。
後漢末は十常侍と呼ばれる十人の宦官が権力を握っていた(中常侍という役職に就いており、実際は十二人いた)。その筆頭が張譲、趙忠、段珪らである。彼らは霊帝の崩御後、後継を巡って外戚の何進と対立し、何進を暗殺。しかし、それに憤った袁紹、袁術らによって皆殺しにされた。
宦官と外戚の争いで、皇帝が宦官を利用して外戚を排除した例の代表が桓帝による梁冀誅殺である。これらは宦官の発言を強める結果になった。
逆に、宦官の専横を憎み、これを排除しようとした外戚もいた。竇武である。当時、宦官に対抗して清廉な政治を志す「清流派」という官僚集団がいた(宦官の間では賄賂が横行していた)。その筆頭である陳蕃は、竇武と協力して宦官の一掃を企てた。しかし、事を急ぎたい陳蕃と、慎重を期したい竇武の間で意見がまとまらないうちに計画が漏れ、竇武は自殺し、陳蕃は処刑されてしまった。

【正史を鵜呑みにしてはいけない話】
中国の歴史書(紀伝体で書かれた正史)には、ほぼ必ず「外国伝」があり、周辺異民族の動向と交流が描かれている。ただ、正史自体が政治色の強い著作なので、編纂当時の現政権にとって都合の悪い部分は省かれることがある。
例えば『三国志』は魏・呉・蜀漢の三国を併記しているが、魏のみ本紀を立てるなど扱いに差がつけられている。それと関連するかもしれないが、魏志のみに外国伝があり、呉・蜀漢の対外交流は記されていない(ただし、蜀漢には史官がいなかったため記録がなく、呉は呉志の元になった韋昭の『呉書』が未完であったため参照できなかった可能性もある)。
また、魏志の外国伝は烏桓、鮮卑、東夷(朝鮮・倭)のみを取り上げていて地域に偏りがある。魏志の記述からは魏が東方とのみ交流を持っていたように取れるが、実際は西域との交流もあり、インド・クシャーナ朝に『親魏大月氏王』の印綬が贈られている。この西域との交流を、編者の陳寿はばっさり切り落としたのである。これは何らかの政治的意図があったとみなさざるを得ず、魏の後継となった晋の皇族・司馬氏の功績を称えるため、司馬氏が係わった東方との交流を過大に評価し、曹氏が担ったと思われる西域との交流を隠蔽したものと考えられる。

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