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小川金男『皇室の茶坊主 下級役人がみた明治・大正の「宮廷」』創元社

著者が宮中の仕人つこうど(宮内省の様々な雑務に携わる下級職員)として、宮中で見聞きした体験(明治41年から25年間)を後日、記憶の中で確信がつくものに限って記述したものである。ただし、本人の記憶違いが全くないわけではないらしい。

本書は、1951年に『宮廷』という書名で、発刊したものを、名古屋大学の河西秀哉氏が監修し、再刊したものである。第二次大戦後、天皇制の危機にあたり、天皇の「人間」らしさをアピールする書籍が相次いで発刊されたが、それらは記者や、側近が書いたものである。本書は天皇のそばで実際に仕えた下級役人の目で見たものであり、貴重である。

本書を読むと、宮中の制度は時代とともに変化していることがわかる。女官制度は、尚侍、典侍、権典侍、掌侍、権掌侍、命婦、権命婦、女嬬、権女嬬、雑仕の順であったが、このうち尚侍に着いたものはいなく、典侍は勅任、権典侍から命婦までは奏任、女嬬は判任(天皇の直接の関与なくて行政官が任命)、雑仕は雇員(官吏でない者)となっていた。

典侍から権掌侍までは堂上華族(公家でも昇殿する資格を世襲した家)から上ることとなっていたが、各々が最初から家筋で決まっていた。昭和になると、権典侍も権掌侍もなくなり、人員も6分の1くらいに減員され簡単になった。

典侍、権典侍は、皇后のお控えという意味もあったが、大正時代には皇室の夫婦関係は近代化され、その意味も全く失われた。大正になっても、家柄が重んじられたが、皆、女学校を卒業して入ってきた人である。また、明治、大正時代は、典侍から命婦まで、本人の性格を象った源氏名を頂いたものであるが、昭和になると源氏名もなくなった。

大津事件の時、明治天皇が露国との国際問題となることを非常に憂慮され、事件の結末がつくまで浜離宮に蟄居されたいたこと。大正天皇が神経痛が激化し、脳症を起こしたことが誤って伝えられ、議会の開院式の時、勅語を読まれてから、それを巻かれて望遠鏡のようにあちこち御覧になったというのは誤伝であることなど、各種エピソードが書かれている。

日清戦争開戦について、山本権兵衛海軍大臣(当時大佐)の議論が凄まじく、伊藤公や陸奥外務大臣もその開戦論に太刀打ちできず、御前会議が2日間に亘って続けられた。それ以来、その御前会議が行われた「宮中の西一の間、二の間」についての説明を拝観者にしなくなったと著者は聞いたと記している。明治憲法発布後間もないころで、立憲政治に影響を及ばないよう、陛下は努力されていたとのことである。

明治天皇の崩御し、多数の文部の高官が参内してきたが、特に心をひかれたのが乃木大将と著者は言う。御舟入り(御納棺式)が済んだあとも、お通夜の当番は30分交替であったが、乃木大将は、当番でない日以外も必ず奉仕し、当番の日以外は、奉仕する人に賜る弁当(銀座の大升納め)を決して食べなかった。

9月13日の御大喪の朝、乃木大将は初めて夫人を同伴して、御遺骸に最後のお別れをした。御大喪で乃木大将は接伴長であったが、なかなか姿を見せず、式武官が困っていたが、今まで見たことのないほど立派な様子であらわれた。食事が終わった後、著者は、乃木大将から、石黒男爵か、大原伯爵に渡すようにと封筒を手渡され、乃木大将はそのまま空中を出て行かれた。

夜11時におごそかに祭典が行われたが、恐らく12時過ぎに、1人の憲兵中佐が重大な事件が起こったように慌ててやって来た。14日午前2時、御出棺の時になって、深夜の街に鈴の音が鳴り、乃木大将殉死を報じる号外が出た。これも貴重な記録だと思う。

明治から昭和初期までの宮中の様子をうかがい知ることができる書籍であり、歴史や、宮中のしきたりなどに興味がある方は、一度手に取ってみる価値があるのではと思う。




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