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映画 『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』 覚え書き

今春、日本でも劇場公開された映画『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』。

デヴィッド・ボウイ財団公認、ブレット・モーゲン監督・脚本・編集によるこのボウイ映画については、ずっと書き出せずにいたのだが、やはり今年中に書いておこうと思う。

生前ボウイが保管していたアーカイヴ映像と楽曲、(本人による)語り/インタビュー音声のみならず、彼がインスパイアされた映画・絵画といった他者アートも交えてコラージュした本映画は、監督曰く「デヴィッドのアートに対する考え方を反映したもの」(Billboard Japan 2023年3月24日)との通り、様々なジャンルのアート、カルチャーを自らの表現に取り込み、アイデアを混成させることで新たな価値観を生み出してきたこのアーティストと同様の手法で作られている。

劇中では効果音などギミックが凝らしてあったボウイ楽曲も、この映画のために再構築(リミックス)、エディットされた音源が多く、ヴォーカルや伴奏トラックを取り出して他曲に貼り付ける手法は、カットアップを多用していたボウイの詞作面でのアプローチとも通じる。

要所でカットインしてくるごく短い楽曲フラグメントは、本映画の主要テーマであり、ボウイ自ら「僕の一貫した線だ」と語る「カオスと断片」の ”断片/断片化” (Fragment / Fragmentation) からきているのだろう。

つまり、本作サウンドトラックもまた、本編と同じ方法論(アーティストに対する批評性)に基づいて制作されていることがよく分かる。

無論、それらの手法自体は、非常にチャレンジングな試みだと思う。

しかし、ここでその膨大な映像と音のコラージュを駆使し、モーゲン監督の主観、解釈によって浮かび上がってくる ”ボウイ像”とは、あまりにもまっとう過ぎる ”ボウイ像”なのであった。


どこにも属さない(属せない)アウトサイダーであること。
自身が抱える孤立感や疎外感が作品の大きなテーマになっていること。
青年期に多大な影響を受けると同時に、大きな影を落とす兄(異父兄)の存在。
ロック・スターの虚構性を逆手に取り、スターとオーディエンスとの関係性をアイロニカルに表現してみせた名キャラクター、ジギー・スターダスト。
決してひとつの場所に安住せず、つねに音楽性を変化させ続けた表現スタイル。
多様な解釈を可能にする楽曲はもとより、その存在自体がはらむ多元性、多元的な価値観。

これらはどれもボウイを長年聴いてきたファンの多くが共有している認識・価値観だと思うが、少なくとも私自身、モーゲン監督が自分ごとき”いちファン”と同じボウイ観を持っていることに多少の安心こそすれど、この映画から新たな価値観は見出せなかった。

そもそも、今作は監督が言うほど「時系列に則していない自伝的映画」(ロッキング・オン 2023年4月号)というわけではなく、主に70年代前半から90年代中盤までのクロノジカルな時間軸上から解き放たれていない。

何より納得できないのは、冒頭でニーチェを引用したボウイ2002年の発言をデカデカと掲げておきながら(ただし、これは後半「僕らの新世紀に向けて、宗教と精神性を再解釈すべきだ」等の90年代発言とつながっていると思われる)、2000年以降のボウイの活動、作品をほぼスルーしていることだ。

この時期のボウイについては、2002年〜03年の『ヒーザン』『リアリティ』期のイメージカットが4、5回インサートされるくらいで、あとはラスト作『★』から、”ラザルス”と ”★(ブラックスター)”のクリップ/音源が終盤に少し登場するだけである。

これには思わず拍子抜けしてしまったが、本映画制作当時の楽曲権利(2000年〜2016年の後期ボウイ作品が、彼の主要カタログを保有するワーナーミュージック傘下に入ったのは、今年2023年から)にまつわる、何かしらの制約があったのではないかと邪推してしまった。

もちろん、ボウイに関する映画だからといって、2時間そこらで半世紀以上に及ぶ彼のキャリアを全部フォローできるわけもなく、そこで生じる「取捨選択」という作業にこそ、監督独自の視点や切り口が明確になるのだが、80年代後半の停滞期を経たボウイが、自らの立ち位置を再確認し、再び伴侶を得、人生の有限を受け入れ、90年代という時代のカオスへ ー 
という後半部からラストに至る流れは驚くほどあっけなく、以降のボウイの歩みを「すべてははかない」の一言(もちろん、この言葉も本作の大きなテーマなのだが)で片付けてしまうのは、あまりにも都合が良すぎる。

ボウイが20世紀を「カオスと断片化」の時代だと捉えていたことはよくわかった。
だが、この映画では、そのカオス=混沌の20世紀をサヴァイヴした、21世紀のボウイが提示されない。

それはこのアーティストを未来に語り継ごうとする際、欠かすことのできない視点ではないのか。

そして、ボウイというアーティスト生涯のテーマである ”変化” についても、彼にとってそれは「自分を強くする試み」であり、「自分への挑戦」であること、そしてそのために「あえて苦境に身を置く」といった、自分自身をチャレンジングな環境に追い込む趣旨の発言(ファンにはお馴染みのフレーズがバンバン出てくる)を再三引用しながら、絶えず自らに変化を強いた結果、彼がどう「強く」なったのか、ここでは言及されない。

さらに、70年代の彼が創出してきた自らの分身=架空のペルソナとも関係してくる彼自身の内面についての考察も、2人の女性キャスターが直接、ボウイのパーソナリティに切り込む70年代後半のフッテージは大きな見どころだが、真の自分をさらけ出すことができず、「自分を深く見つめようとする時間や動機を自分に与えなかった」という彼が(その内なる葛藤を「乗り越えるのは人生最大の冒険になりうる」との発言を引用しているのにもかかわらず)”真の自分”とどう向き合い、己の弱さをどう克服していったのか、一切描かれていない。

日本に関するパートで引用される「誰もが人生を固定しないでほしい」という発言は、自分の弱さや境遇を克服した者の言葉だとは思うが、同時に「僕はなるべき人になれなかった」、「自分探しに多くの時間を費やして理解しようとした」と語る彼が、どのような経緯をたどって後年、下記のような発言に至るプロセスが、この映画ではごっそり抜け落ちている。


モーゲン監督は来日インタビューで、ボウイについて「彼は芸術と生き方の両面でバランスの取れた充実した人生を送るためのロードマップを示してくれました」(2月25日 NHK Eテレ『太田光のつぶやき英語』)と話しているが、その ”ロードマップ”とは、常に変化を恐れず、誰よりも ”今” という瞬間を生きたボウイが、キャリア/作品を通して体現してきたメッセージだけでなく、いみじくも映画の中で「僕にとってアートとは探すこと」と語っているように、彼がアートを通した究極の自己探求の果てに到達した地点も示してこそ、初めて形になるのであって、ここに踏み込まずしてデヴィッド・ボウイのアートと人生を ”追体験する” ことはできないと思うし、その両面を描こうとするなら、バンドとしての音楽的成果よりも、もっぱらボウイ個人の精神的充足感の方が上回っていたティン・マシーン期は端折れても、内実ともに素晴らしく充実したゼロ年代前半のボウイを省略できるはずがない。

かつてまとっていたペルソナという ”精神の鎧” はおろか、あらゆる装飾を削ぎ落とし、ジーンズにTシャツ姿で何万ものオーディエンスと対峙して新旧の代表曲を繰り出すこの時期のボウイこそ、長い紆余曲折を経た彼が、50代後半にして辿り着いたひとつの到達点であり、それまで不安定な立ち位置から表現を紡いできた彼が、最後に残った自らの「作家性」を武器に、ようやく自然体で ”ロック” を体現できる「強さ」を手にしたのが、このゼロ年代なのである。

よって、この映画はアーティスト、デヴィッド・ボウイをトータルで描けていないし、コンセプト面は非常に考えて作られている一方、同じ素材(1983年ドキュメンタリー『リコシェ』)が繰り返し使用されるなど、構成は冗長。
劇中使用トラックをそのまま順に収録したサントラ盤もまた然り。

モーゲン監督は、2012年のローリング・ストーンズのドキュメンタリー映画『クロスファイアー・ハリケーン』でも(同バンド結成50周年にあたる時期の公開だったにも関わらず)1982年以降のヒストリーをバッサリ省略していたが、この『~ムーンエイジ・デイドリーム』もまた、同様の不満が残る。

私がこの映画で一番印象に残ったのは、ボウイ本人による数々の言葉だ。
なかでも、とりわけ心を動かされたのは、本編ラストのモノローグで、これについては、またいずれ書こうと思う。

最後にもうひとつ、本作で特筆すべき点に触れておくと、ボウイのアーティスト性を音と映像のカットアップ/モンタージュで手短に語り切るいくつかのシークエンスは実に見事だと思った。

例を挙げると、長らくオフィシャル未公開だったジェフ・ベックとの共演シーン等(大仰な天体のイメージ映像は苦手だが)をバックに、当の本人の言葉で ”ジギー・スターダスト” の本質を端的に言い表してしまうところや、”アッシェズ・トゥ・アッシェズ”PV〜舞台『エレファント・マン』『リコシェ』のフッテージを用いて、このアーティストの”根無し草体質”を簡潔に表現してしまうシークエンスなど、ボウイの ”核” に肉迫するような瞬間も少なくない。

手厳しい文章になってしまったが、もし、モーゲン監督が、2000年以降のボウイに焦点を当てた映画を作るというのであれば、ぜひとも自分は見てみたい。
















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