見出し画像

染織

せんしょく

古代から続く日本の染物と織物。江戸時代にその文化が開花しました。

布を染める「染物」と布を織る「織物」の双方を指します。一般に繊維に色をつけて織った、織物として完成されたものを指し、裁断・縫製を経て衣類として完成する段階までを含めません。
諸外国の織物の繊維素材としては、羊毛などが広く利用されますが、日本での繊維素材は主として絹、麻、木綿などが使用されます。日本の染織工芸では染物の染料として、主に紅花や藍、梔子などの天然の素材を中心的に利用しています。
日本列島の染織の開始時期は明確にはわかっていませんが、『日本書紀』には、仲哀(ちゅうあい)天皇8年(199)に、渡来人の功満王が蚕種を献上したとの記述があります。遺品として確認されるのは、飛鳥時代から奈良時代に伝来した法隆寺裂、正倉院裂の一群があります。また同じ時代、聖徳太子の死去を悼んで妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)がつくらせたという奈良・中宮寺の「天寿国繡帳」も有名です。
平安時代以後、染織は京都を中心に発展するが、応仁の乱(1467-1477)によって、京都の大半が焼けてしまったため、室町時代までの現存する染織作品は乏しいです。当時の様子は『源氏物語絵巻』といった絵画資料からうかがうことができます。
戦国時代になると、戦乱を避けて堺など各地へ散っていた職人が徐々に京都へ戻り、西陣織が誕生するなど、織物業が再開。室町初頭に確立し、安土桃山時代に花開いた能楽で使用される装束は、各種の色糸や金銀糸を用い、緯糸を縫取織風に浮かせた唐織、刺繡に金銀箔を加えた摺箔など、華美な美術工芸品が揃い、見るべきものが多いと言えます。
江戸時代、安定した時代を迎えると日本における画期的な染織工芸の友禅染が誕生。江戸後期にはインド更紗を模倣・製造した型染の和更紗が広がるなど、日本の染織工芸の発展が続きました。

唐織 茶地向鶴菱模様  江戸時代・17世紀  東京国立博物館蔵

刺繡(ししゅう)のように見える向鶴菱模様は、絵緯糸(えぬきいと)で織り出されたもの。平金糸が織り込まれていない古様を示す、江戸時代前期の優品です。女性役であっても、山姥のような鬼系の役柄には、このような幾何学的な強い模様の唐織や厚板が好まれました。

これは、唐織とよばれる能装束です。唐織とは、主に女性を演じる際に着用する表着(うわぎ)のことで、もともとは織物の名称でした。刺繍のように糸が浮いた風合いが特徴です。落ち着いた色調で、菱形の中に鶴が向かい合った模様があらわされています。このように細かい繰り返しが多くはっきりとした幾何学模様は、優しい女性ではなく、山姥のような、鬼の形相をもった力強い女性の役柄に着用されることが多いものでした。  
これより前、室町時代後期から安土桃山時代にかけては、明るい紅、白、萌黄色の地に花や木の模様が表された唐織が多くありました。その後、慶長期から江戸時代初期にかけて、全体の色調が暗くなり、模様も宮廷貴族がよく用いた格調高い、幾何学的なくり返しの模様に変わりました。この唐織は、その慶長期の特徴をよく表しています。このあと、元禄期に金糸を織り込んだいわゆる金唐織(きんからおり)が登場するまでの、初期の唐織の特徴をしめす貴重な例です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?