メディアの話、その50。生き物だって、DNAだって、メディアである。

メディアとは何か。

私のなかでの定義は、メディアという概念は、キリスト教じゃないけど、三位一体説みたいじゃないかと思っている。

中心に①媒体があって、②さまざまな情報やものを受信し、①媒体のなかでいろいろな変化が起きて、③さまざまな情報やものとして発信される。この一連の流れが「メディア」と理解している。この①媒体とは、究極的には人間そのものである。その人間を拡大したものが、新聞だのテレビだのといった「マス」メディアになるわけだ。情報発信機能を持ちさえすれば、どんな組織もメディアになる。ただ、その中心にいるのは、やはり人間である。このメディアの中心に必ず人間がいる、という構造はたぶんAIで本質的には置き換えられない。

通常、メディアの機能と思われている情報発信機能。ニュースを書いて発信したり、音楽を作って流したり。実はこちらのほうは、AIで代替できる部分が相当ある。ところが、情報を受信するほう、そしてその情報を受信すること自体を目的として「楽しむ」ことは、人間じゃないとできない。AIにとって、情報受信は手段であって目的にはならない。情報発信は目的になり得るが。メディアを、受信と発信の両方を行う「媒体」のこと、と定義すると、この「媒体」の中心は、やはり人間ということになる。

そこまではいい。じゃあ、そのメディアとしての人間は、どんな存在なのか。人間は情報を受信し、自分の中で咀嚼して、思考して、編集して、発信する。この一連の行動は、後天的な「教育」によって獲得されるのか。

たぶん、ちがう。「教育」によって獲得している、人間のメディア的機能というのは、一部だ。どのくらいの比率かはわからないけど、全部じゃないことはたしかだ。

じゃあ、残りはなにか。残りの一部はなにか。

それが、「人間の本性」ではないか。EOウィルソンが、スティーブンピンカーが提示した、人間という生き物にもともと備わっている遺伝的な「本性」ではないか。

とりわけ、受信者としてのメディアに人間がなるとき、どんな情報を好んで摂取するのか、その判断を左右しているのは、「教育」以上に「本性」であるケースが多々あるのではないか。

ひとびとが何を好んで消費するのか。ひとびとがどうやって組織を運営するのか。近年は行動経済学や進化心理学をつかって、「人間の本性」を前提においた分析が進んできている。

「メディア」は、人間そのものが中心となる。となれば、「メディアの話」こそ、人間の本性はどんな情報をどうやって選択して受信し、喜び、その結果、どんな情報をどうやって発信することを好むのか、その視点でもっともっと考えていく必要があるはずである。

なにかいい参考書があったら教えてもらいたいものであります。

続きます。




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