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メディアの話、その59。イーストウッドとアメリカ人は誰もが俳優だ。

映画を見た。

15時17分、パリ行き。

平日の朝の丸の内ピカデリーはがらがらでお客さんはたぶん10人いるかいないか。

クリントイーストウッドの映画をすべてみている私としては、いささか複雑な思いであるが、ゆっくりみられる。よしとしよう。


この映画は、ほぼ実話である。

2015年8月21日、パリ行きの列車で起きたテロ事件。そのテロを3人のアメリカの若者が体を張って防いだ。

こちらが当時のニュース。

CNN) オランダ・アムステルダム発パリ行きの高速鉄道車内で21日、ライフル銃や刃物などで武装した男が乗客らを襲い、当局によると、3人が負傷した。男は居合わせた米兵らに取り押さえられた。

偶然乗り合わせていたアメリカ人の若者3人。うち2人は現役軍人で、機転を利かせて、とっさに犯人に襲いかかり、ナイフで傷つけられながらも、首を締め上げ、銃を奪い、テロを未然に防いだ。犯人はのちの供述でISにかかわっていたことが判明する。

この事件をニュースで見たときに、不謹慎にも、「まるで映画のようだな」と思ったことを覚えている。

すると、ほんとに映画になってしまった。

しかも監督はクリント・イーストウッドである。

イーストウッドは、2000年代に入ってから、ノンフィクションをベースにした映画を撮り続けている。一昨年は、アメリカで機長の機転と腕で、飛行不能になった旅客機をハドソン川に不時着させた事件を映画化した『ハドソン川の奇跡』。さらにそのまえは、現代アメリカの伝説のスナイパーの評伝を映画化した『アメリカンスナイパー』。

今度も実話だけど、イーストウッド爺さん(今年88歳!)はとんでもないことをやっている。

テロを防いだ3人のアメリカ人の若者。スペンサー・ストーンと、アレク・スカラトスと、アンソニー・サドラー。なんと本人がそのまま本人役として映画に主演しているのである。ちなみに現場で撃たれて死にかかっちゃった人も、ご本人らしい。

映画は、わずか1時間30分。描いているのは、彼らの子供時代。そして軍隊に入るまでの時代。さらに、3人がヨーロッパで落ち合って、ちんたらバックパック旅行を楽しむ時間。その時間がだいたい9割で、テロを防いだシーンは、ほとんどリアルタイムで描いているために、すごく短い。

実際こんなやりかたで映画として成立するのか。

成立しているんですね。英語が得意じゃないので、彼らの演技が自然かどうかなんかはわからないけど、ちゃんと映画になっている。いや、なっているだけじゃなくって、傑作である。

傑作、という呼び方はおかしいかもしれない。

というのも、この映画と同じような映画を私はみたことがないからである。比較ができないのだ。ドラマとドキュメンタリーとがないまぜになったまま映画は進み、最後は3人がフランス大統領から勲章をもらい、故郷に凱旋するリアルなニュース映像につながる。

にもかかわらず、1時間30分のこの作品は、不自然な継ぎ目がいっさいない。

見るものは、アメリカの地方都市のシングルマザーの家庭で育つちょっと勉強のできない、ちょっといじめられっ子の、ミリオタの男の子たちの世界に連れて行かれる。彼は何を目指せばいいのかわからないまま、軍隊に入隊し、緊迫感のないしごきにあい、そして久しぶりに3人揃って、初めてのヨーロッパ旅行を楽しむ。

この映画の次に公開される映画が『さよなら僕のマンハッタン』で、予告編を見ていると、こちらの主人公はちょっとファッショナブルで気弱そうなメガネ男子。お父さんの浮気現場を憧れの女の子とみつけちゃって、尾行する。

『パリ行き』の若者3人と、メガネ男子はおそらく同世代だけど、現実のアメリカではおそらく交わることがない。もしかすると、『パリ行き』の若者3人のようなアメリカ人のほうが、数は多いのかもしれない。

クライマックスに向けて、彼ら3人の映画真ん中までで描かれた成長のプロセスは、最後のテロを防いだシーンにみごとに反映されてくる。

リアルなドキュメンタリーがベースなのに、まるで映画みたいじゃないか。

いや、実際映画なのであるわけだが、この『パリ行き』は。

『パリ行き』の3人の若者は演技経験などゼロである。横須賀基地や横田基地あたりに行くと、いそうな感じの方々である。その彼らが、なんというか、実に堂々と「映画」のなかの人になる。

イーストウッドの映画に『バード』がある。ジャズミュージシャン、チャーリーパーカーの生涯を描いた作品だ。この映画の冒頭には、フィッツジェラルドの言葉が添えられる。

「アメリカ人の人生に、第二幕はない」

『パリ行き』を見て、私はこの言葉を思い出した。

アメリカ人は、もしかすると誰もが「俳優」なんじゃないか。自分の人生という映画や舞台に立った「主人公」なんじゃないか。つまり生きながらにして、日々「演じて」いるんじゃないか。

だから、演技経験ゼロの軍人と大学生が、むしろ自然に、見事に映画の主人公としての自分自身を演じられるのではないか?

イーストウッドは、早撮りで知られる。リハなしでいきなりカメラを回して、ほとんど一発で撮り終える。何度も撮り直して得られる入念な演技より、そのときそのときの自然な空気をとりこんだほうが、映画として結局うまくいく。コストも安くなるしね。イーストウッドはそう言う。

でも。

イーストウッドのやり方は、「アメリカ人」が出演するからこそ、通用するのじゃないだろうか。「アメリカ人」は、誰もが生きているだけで「演じている」。だから、その上塗りをするように、さらに演技をかぶせる必要なんかないぜ。『アメリカ人の人生に、第二幕はない」ということは、「アメリカ人は自分の人生の第一幕で演じている」という意味ではないか。もちろん自分自身を。

アメリカ人は誰もが自分自身の人生という映画の主人公を演じる「俳優」なんだ。

イーストウッドのこの映画は、アメリカ文化のもしかするともっとも根っこのなにかを、アメリカ以外の国のひとびとに、知らしめたのかもしれない。

3人の1人、スペンサー君は、軍に入りたかった。軍に入って、人の命を助けたかった。希望の軍には入れなかったけど、スペンサー君は異国の列車の中で人の命を助けた。スペンサー君は、だれかのヒーローになりたかった。そしてなった。

『スーパーヒーローになりたい』。高野寛さん作詞作曲の歌で、のんちゃんは、そう歌う。「ヒーロー見参!」。「ピンポン」で、ペコはこう宣言する。

現実のあなたはスーパーヒーローになりたいか。日本人の私は、子供のころ、ウルトラマンや仮面ライダーに憧れた。ダーティーハリーのイーストウッドに憧れた。探偵物語の松田優作に憧れた。でも、それはせいぜい中学生までで、中2病が覚めるとともに、スーパーヒーローになりたい自分はどこかに消えた。

もしかしたら、アメリカは違うのかもしれない。誰もが俳優で、誰もが心のどこかでヒーローたらんとしている。

私たちが憧れ、そして私たちからもっとも遠いアメリカ。

イーストウッドはドナルド・トランプの支持者である。そして、ドナルド・トランプこそは、自分の人生を演じ続けて、大統領役まで獲得してしまった。「アメリカ人はみな俳優」を地で行っている。イーストウッドが、「俳優」トランプを撮ることはあるだろうか。

続きます。


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