メディアの話、その52。ニュースはネガティブ。歴史教科書もネガティブ。理由は原始時代にある。

高校時代の歴史の教科書を思い出してほしい。

私たちが、必死になって覚えた内容は主に何か?

それは、戦争の話である。内戦の話である。革命の話である。

歴史の教科書は、戦争と、内戦と、革命の話でいろどられている。

そこで覚えさせられる「歴史をかえた人々」の名は、まずは戦争に勝ったひと、革命に打ち勝ったひと、あるいは戦争に負けたひと、革命で追い落とされたひと、である。

私たちは、過去の歴史を「戦争と革命ばっかりあった過去」として脳みそに刷り込まれている。

考えてみてほしい。

私たちが覚えている歴史上の人物の多くは、見方を変えれば大量殺人者たちだ。別にヒットラーやスターリンや毛沢東ばかりじゃない。信長秀吉家康はいうにおよばず、私たちは大量殺人者たちを歴史上の人物として記憶している。

そして、戦争だの革命だの内乱だのが、歴史だと思っている。

たとえば、室町時代。

室町時代ブームで「応仁の乱」の本が売れている。

あれ、読めばわかるけど、規模からいうと町内戦争である。身内同士のいがみ合いで、最終的に街が焼けちゃった、という、実にちっぽけな話である。

「応仁の乱」を知ってもたとえば、同じ時期に、京都で人々はどうやって暮らしていたか、どんな技術が発展していて、どうやって経済活動を行って、どうやって水運技術を発展させて、なんてことは、もちろん調べている歴史学者の方々はたくさんいるはずだが、その成果というのは、一般レベルの知には、なかなか落とし込まれない。私たちが触れるのは、「乱」にかかわった「えらいひとたち」の人殺しの様子ばかりである。

かくして、私たちは、勘違いをする。

過去の歴史は、戦争と内乱と革命の日々でできていて、人々は常に飢饉で飢え、戦争に怯え、官憲の暴力に怯え、疫病でばたばたと死に、ひとをみたら泥棒と思え、と。

昔って、野蛮だったなあ、と。

「教科書」レベルでの歴史メディアは、日常を伝えない。戦争と疫病を伝える。

日々の暮らしを、つまり日常を、そのときそのときの人々の喜びを、伝えない。いや、伝えられないのかもしれない。

じゃあ、現代はどうなのか。現代のメディアははどうなのか。

バズフードで石戸諭さんがすばらしい記事を書いている。

【あの日から7年】福島のリアルを伝え続けたテレビマンは、なぜ村職員になったのか? 「東京マスコミ」との戦いの果てに…https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/hisaisya?utm_term=.kfEgV4Wly&ref=mobile_share#.cqxBqYRZg

2012年春、あの震災と原発事故から1年、福島の地元の小学校では、はじめて屋外で運動会を開いた。福島市内での空間放射線量も大気中の放射性物質も減少し、健康上問題なくなった。だから開催が決まった。地元の福島のテレビでは、その「喜び」をニュースにしようと考えた。

地元の福島のテレビ局に対して、キー局のTBSから取材のオーダーが入る。東京のTBSのディレクターだかプロデューサーだかが出した注文はこうだ。

「あの、子供たちのマスクの絵はないんですか?マスクをつけて運動会をやっているのは異常ですよね。この異常さこそニュースなんだから、マスクの絵をください。それがないとニュースじゃないでしょ。NHKはマスクの絵を流していますよ」

そう。東京の、当事者ではない大マスコミのオーダーは、2012年の福島の小学校で屋外運動会をやることは「異常」であり、その「異常さ」を、無知蒙昧な大衆に一発でわからせる映像として、子供たちが「マスク」をつけて、運動会をしている「異常な絵」を欲したわけである。

つまり「悲劇」をエンタテインメントにしよう、と考えたわけだ。

いやいや、ジャーナリズムでっせ、という反論があるかもしれない。が、この件に関しては、「悲劇をエンタテインメント」にすることで、視聴者の注目を集めたい、というメディアのサガが明らかに透けて見える。私もメディアの一員だからわかる。

「日常」はニュースにならない。ニュースになるのは、「不祥事」であり「殺人」であり「内乱」であり「戦争」である。

新聞を開けばわかる。歴史の教科書と変わらない。メディアは、ついつい「ネガティブな話」だけで世界を切り取る癖がある。

なぜ、メディアは、歴史の話から、現代のニュースにいたるまで、「ネガティブな話」を優先的に切り取ろうとするのか。

これは、「マスメディア」の責任に帰する話ではない。メディアというのは、つまるところ個々の人間の拡張にすぎない。マスメディアというのは、人間にとって、パワードスーツのようなものである。ガンダムみたいなものである。だとすると、「ネガティブな話」を優先的に切り取ろうとする、というのは、私たち人間そのものの中に潜んでいる「本性」である可能性がある。

では、なぜ私たちは、ネガティブな情報を優先的に切り取ろうとするのか。もしかすると、メディアの原初は、小さな集団で暮らしていた原始時代の「危機の共有」に端を発するのかもしれない。

あの川の淵ではだれそれが溺れ死んだぞ。あの森には巨大なトラがいて食われちまったやつがいるぞ。あの谷の向こうには野蛮な部族がいて、首を切られてしまうぞ。

危機の共有は、集団の維持に直結する。互恵的利他主義で小さな集団を維持することで進化してきた人間は、もしかすると「危機の共有」という機能を進化の過程で発達させたのかもしれない。

一方、うれしいこと、おいしいことの共有はどうだろう。

あそこに行くとおいしい木の実がとれるぞ。あの川のあの淵は魚が獲れ放題だ。あの村にはすごーくきれいなおねいちゃんがいるぞ。うちの村は、豊かで隣村に比べていい生活をしているよなあ。

どうです。この情報を広く共有したいですか。

共有したら、他のやつに「しあわせ」をとられちゃう。自分だけ、あるいはせいぜい自分の家族だけ、自分の少数の仲間だけに、とどめておきたい。

となると、「うれしい情報」は共有されにくい。

そんな、原始時代の「情報の共有」のフォーマットが、メディアの情報発信の構造にそのまま反映されてはいまいか。

つまり。歴史の教科書も、マスメディアのニュースも、フォーマットは原始時代のままではないか。

うほうほ。

続きます。



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