メディアの話、その19。『君たちはどう生きるか』と150人の村。
『君たちはどう生きるか』は、なぜ大ヒットしたんですか?
とある取材でこんな質問を受けた。
……「わかってたら、ここで答える代わりに、自分で仕掛けてますよ」
と、答えるしかないですよね。
大ヒットには理由がある。
必ずある。
でも、それは、ハダカデバネズミの不老の体や、マダガスカルの奇怪なランと長大な吻を持ったスズメガの共生が進化の結果生まれたように、幾重もの要素が絡み合い、「偶然」という名の神様が「必然」的なタイミングで降りてきたときにかなえられることであって、同じヒットを繰り返すことは至難の技だ。たまにできるひとがいるけど、たいがいはできない。
でも、理由があるから、なぜヒットしたかの説明はできる。
あとづけ、というやつであるが。
説明しよう(タイムボカン風に)。
文明の進化と、メディアの進化は、ほとんど同じような構造を有している。
横から眺めると時間とサイエンスとテクノロジー。
うえから眺めると人間の本性とアート。
この掛け算。
横から眺める。
文明もメディアも、時間軸に沿って、うえへ向かって技術の進歩とともに進化していく。前の技術を吸収し、次の段階へと進んでいく。
その進化を上から眺める。
人間は昔々と今とでほとんど変わらぬ本性を有している。人間のやっていることは、同心円状にぐるぐるとおなじことを繰り返していく。横からみると、まったくレベルの違う文明段階にいるのに、上からみると、穴居生活しているギャートルズと、iPhone片手のシリコンバレーの兄ちゃんが、ほとんどおんなじメンタリティで生きている。
何かがブレイクして大ヒットしているときは、文明の縦軸で、テクノロジーが爆発的な進化をとげ、うえからみると人間の本性のスイートスポットにアートがどーんとあてたとき、だったりする。
農業の登場。街の登場。自動車の登場。テレビの登場。インターネットの登場。そんな瞬間、人間の暮らし方は大きく変わる。でも、上から見ると同じところをぐるぐる回っている。
インターネットの登場は、ひとびとの本性をぐるりと一回りして、原始の時代によび戻した。つながりたいひとたちだけでつながれる。ロビンダンパーいうところの150人の村が簡単にできる。我々の脳みそにいまだ住み着いている150人の居心地の良い村に。
横から見ると、不連続で革新的なテクノロジーの進化が、上から見ると人類をもといた穴居にひきもどしたわけである。
テクノロジーの限界によって、ひとびとは行動を制限される。
インターネットの登場で、ひとびとはいったん家にこもった。
なぜならば、インターネットはパソコンでしか扱えなかったからである。
デスクトップパソコンは外に持ち出せない。
かくして「電車男」のサポートは「御宅」で「オタク」が行った。
新時代の150人の村は、あくまで電脳空間の中のものだった。
iPhoneの普及で、インターネットは街に飛び出した。
すると、150人の村は、電脳空間の中のものであると同時に、きわめてリアルな集合体にもなった。
自分の住まう村のなかで、ひとびとはより優しく、より利他的に、より共産主義的になった。
ただし、自分の村のなかだけで、だ。
自分の村と敵対する村の住人に対しては、かつてないほどの敵意を燃やし、言葉の矢を放ち、死ねと呪詛を吐く。
ツイッターをみれば、毎日、村同士の殺し合いをみることができる。
おそらくは、かつて150人の村で固まっていた人類が、物理的にやっていたように。
かくして、我々は一回りした。
でも、7万年前よりは、多少は知恵がついている。
こういう「殺し合い」は、トータルで見ると、損だよな、つらいよな、とも。
そんな共通するとまどいに答えた本。
それが、おそらくは『嫌われる勇気」であり、『君たちはどう生きるか』なのだろう。2つのヒットの根っこには、150人の村に安住して、違う村を攻撃する、原始人に戻った私たちがすがりたい、「かつての文明人」からの示唆がある。
そして、その示唆は、おそらくは「150人の村」を超えた、人間の本性のいちばん根っこにつきささるものだったりする。
つまり、芯を喰っている。
だから、誰もが買う。大ヒットになる。
以上。
ーーーと、こういうのをあとづけの説明という。それもメディアのやることだったりする。
続きます。
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