メディアの話、その37。渋谷のテレビと長調と短調

「渋谷のラジオ」というコミュニティラジオがある。https://shiburadi.com

こちらの人気番組「渋谷のテレビ」というのがございまして、放送100回記念、ということで、遊びに行ってきました。

ゲストは、指揮者の大野和士さん。

世界を股にかけて活躍する大野さんのお話は、こちらで聴くことができます。ものすごーく面白いのでぜひ聞いてください!https://note.mu/shiburadi/m/mee7d8ca3751b

土曜なのでこれでおしまい、といきたいが、なんとか話を続ける。

クラシックでタクトを振る大野さんの、音楽の経験と知識は、実に深く広い。話は、そのうちインドの音楽になる。インドの音楽はなんと200もの音階があるというのだ。

200音階!

ご存知のとおり、西洋音楽は基本的にドレミの7音階がベースである。

それが200音階! わけがわからない。

ラビ・シャンカールと2人の娘(うち1人はノラ・ジョーンズ、ですね)の話などをうかがっているうちに、ふと以前から音楽に対して抱いてたひとつの疑問が浮かんできた。

長調と短調のことである。メジャーとマイナーのことである。

私には、音楽の素養がない。楽器は弾けないし、もちろん楽譜も読めない。

でも、いま流れてきた音楽が長調か短調かは瞬時にわかる。

長調の曲は楽しげだし、短調の曲は悲しげである。

でも、なぜ「長調楽しげ」「短調悲しげ」と瞬時に「思ってしまう」のか。

曲はみんな違うのに、長調楽しげ、短調悲しげ、というのだけは瞬時に聞き分けられる。

おそらく、みなさんも「長調」「短調」の区別は、私同様、瞬時にできるかと思う。

なぜできるのか。それが、長年の疑問であった。

小学校のとき「みつばちハッチ」は悲しい歌だよなあ、でも「デビルマン」も悲しい歌だよなあ、と思ったとき以来である。

話は横にそれるが、子供の頃の特撮番組やアニメ番組のヒーローものというのは「短調」の曲が多い。マジンガーZも、デビルマンも、サイボーグ009も、キャプテンウルトラも、仮面ライダーも、科学忍者隊ガッチャマンも。

短調の勇猛な曲は、悲壮感と攻撃性とがないまぜになるのだろうか。その究極がワルキューレの騎行か。

大野さんのお話によると、そもそも長調と短調というわけ方は、ドレミの7音階をベースに音楽をつくっていくときにはじめてできたもの、ということらしい。うろ覚えですが、たしかそんなお話であります。

その大野さんのお話で気づいたわけであります。

インド人ではない私たちは、おそらく大半の世界のひとたちは、英語より中国語より共通の言語「ドレミ」の7音階というデジタルな音の切り分けによって音楽ができている、ということを、完璧に刷り込まれている。学校の音楽の授業などからではない。街で家でYOUTUBEから流れるほとんどの音楽は「ドレミ」の7音階をベースに作られている。徹底的に「耳」で慣らされているのだ。

そのドレミの7音階が長調をつくり、ミとラとシをずらすと短調になる。たしかそうだった。

この音楽の長調と短調の音のイメージを具体的に可視化して、音そのものをデジタルに切り分ける役割を追っているのは、たとえばピアノの鍵盤なんですね。鍵盤と鍵盤の間には音がない。すべての音がデジタルに区切られている。しかも目で見えちゃう。鍵盤の位置と、そして楽譜によって。

ドレミの音階がつくる長調と短調という音楽をたっぷり聞かされて、私たちは、どっちが長調でどっちが短調かがすぐわかるように「教育」されてしまっている。脳みそに「どれみふぁそらしど」の音階がインプットされているからだ。楽器ができなくても。楽譜がよめなくても。文字が読めないけど言葉は理解できる。それと同じである。

大野さんのお話によれば、インド音楽のように200音階もある世界では、そもそも長調と短調という音楽の区分け自体ができないそうである。ドレミの間の微妙なずれた音すべてが音階として認識されるわけだから、なるほど当然である。長調、短調、という2択法のようなデジタルなかたちで「音」を区分けしていない。ゆえに長調か短調かで音楽を分けることもできない。

西洋音楽はたった7つの音階をベースに音楽を「言語化」した。壁画と異なり、太古の音楽は記録ができない。いつから人が音楽をたしなむようになったのか、遺跡や化石を見ただけではわからない。でも、おそらくは、壁画と同様、非常に古いギャートルズの時代から、私たちはなんらかの音楽を操り、歌を歌っていたはずである。メディアとしての人間がアウトプットするもっともシンプルなメディアコンテンツ「歌=音楽」。

人間が作り出せるもっとも古いメディアコンテンツ音楽をしかし、マスメディアコンテンツにするには、楽曲そのものを記録できるようにして、同じ曲を繰り返し演奏できるようにする必要がある。

西洋文明は音楽を7音階で分けることで、それを可能にした。7つの音階をつかって、楽譜のかたちで、録音機器もないのに、楽曲を持ち運びできるように、流通できるようにした。7つの音階をベースに鍵盤楽器を大量生産し、どこでもおんなじ音楽を演奏できるようにした。

その7音階で音の世界を区分けした必然として、長調の曲と短調の曲、という2分法的な区分けもできあがった。

私たちは「ドレミ」という言語をずっと習い続けているから、その2分法にも瞬時に反応できる「耳」を備えるようになった。

音楽には人間の感情をゆさぶる原初的な力がある。文字の発明よりも、音楽の発明のほうが早くって、『歌うネアンデルタール』という本では、ネアンデルタール人は歌と言語とをないまぜにしてコミュニケーションをしていたのではないか、なんて仮説を出している。

が、もしかすると、音楽には長調と短調の世界がある、というのは7音階で音の世界をデジタルに切り分けた西洋音楽の文法を刷り込まれているからこそ、の「聞こえ方」なのかもしれない。

200の音階の世界で育ったインドのひとたちに、音楽の世界はどう聴こえるのだろう。

続きます。

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