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【創作】桜流しの雨

“夜桜見に行こうよ”

 杏菜から連絡がきたのは夕飯を終え、スマホを握り締めてリビングのソファに座り込んでいるところだった。きっと同じ高校に通う杏菜の家とうちとの間ぐらい、ここからは歩いて五分ほどの公園だろう。桜のライトアップをしていたはずだ。

“十分でそっち行く”
「友達と桜見に行ってくる」

 杏菜と母親にそれぞれ告げパーカーを羽織って玄関に向かうと雨が降りそうだから傘を持って行け、という声が飛んでくる。へいへいと返事をしてビニール傘を掴んで外に出ると、肌に纏わりつく空気は確かに生温く、短く切った髪をへなりと湿らせる。
 公園の前を通り過ぎて少し歩き、彼女の家の前で再び連絡を入れるとすぐに玄関が開いて杏菜が出てくる。地元ではお嬢様学校として多少名の通った女子高に通う私たちの同級生には親が会社経営をしていて、とか開業医で、とか、比較的大きな家に住んでいる子が結構いる。もちろん皆がみな社長の娘ということもなく、そこそこの進学校でもあるのでうちのように教育に力を入れているだけの一般的な家庭も多い。
 そんな中でも大きい部類に入る杏菜の家だが、すぐに出て来るということは玄関で待っていたのだろう。ふわりと広がるロングスカートを門扉に挟まないよう手で抑えながら鍵を締める彼女に聞く。

「お母さん大丈夫なの?」
「うん、今日は出掛けてる」
「そっか。早めに帰ろうね」
「えー、久し振りのデートなのに」

 朝から夕方まで同じクラスで過ごす中で仲良くなって付き合い始めるなんて、女子高ではきっとよくある話。そしてその関係が身内友人問わず周囲に理解されないことも。理解されないと割り切って周囲にはひた隠しにすることだってきっとよくあること。
 市内でも一、二の大きさを誇る公園の桜は見事に満開で、けれど平日ということもあってか人がまばらに桜の写真を撮ったりベンチでひっそりと酒を飲んだりしていた。思ったより人いないねぇ、と遊歩道沿いに植えられた桜を見上げながら隣を歩く杏菜が私の左腕に体を預けてくる。

「……誰かに見られるよ」

 そう諭しながらも、そっと彼女の髪を梳く。

「……別にいいもん」

 そうやってむくれたような声を出す杏菜だけれども向かいから仲良く腕を組んだカップルが歩いてくるのを見つけるとすっと距離を取り、すれ違って離れたのを確認するとまたぴとりと張り付いてくる。嬉しくないことにそんな動きだっていつの間にか身体に染み付いているのだ。
 広い公園に巡らされた遊歩道を公園の奥まで歩き、地面に置かれたライトとライトの間、丁度そこだけぽかりと暗闇が取り残されたベンチに腰掛けて脚を放り出した。腕に感じていた体温は身体の左半分すべてに広がり肩には頭の重みまで追加され、まだ少し冷える夜に自分が杏菜の体温を奪っていやしないかと不安になる。

「……ごめんね」

 何に対してかわからない謝罪が口をつくことにも、んー、と杏菜から漏れ出る声すら愛しくてこのまま時間が止まればなんて、ありきたりな言葉しか浮かばないことにも嫌気が差す。所謂お嬢様で品の良いスカートにふわふわのロングヘアの杏菜と、サラリーマン家庭でスカートは持ってすらいない短髪の私。環境も性格も全く異なる二人がこうして同じ綺麗なものを見ているなんて不思議な気持ちになる。
 ベンチの向かいでスポットライトを当てられきらきらと輝く枝垂れ桜を眺めながら、桜にうっすらとした嫌悪感を抱いている自分に気付く。それは桜に己の恋愛を重ねてしまうからだろうか。

「桜の木の下って死体が埋まってるんだっけ」

 なんとか重ならないところを探して頭から絞り出されたのは何かの本で読んだような常套句だった。私たちは、少なくとも私は直接的には人を殺してはいない。

「うーん、意外と割が悪くはないかも。リン、窒素、カリウム全部入ってるし」
「そんな現実的な話だっけ」
「さあ。……でもまあ私たちは誰かの亡骸の上で楽しくやってるってのもあながち間違いじゃないかもね」

 こうして二人の関係をクローズドにしているのもオープンにしたカップルたちの受けてきた扱いを見てきたからだし、権利のために声を上げてくれている人を直接的に支持することもできない。結局は誰かが掴み取ってくれた恩恵を享受しているに過ぎないのかもしれない。
 桜が綺麗に咲く時間が長くないように、同性同士の恋愛も長続きしないことが多いのは百も承知だ。SNSで別れ話を見るのなんて日常茶飯事だし、それは自分でも今までの多くはない経験からも体感しているけれど、情報化社会は物事が見え過ぎて嫌になる。
 目の前で艶やかにライトアップされて咲き誇る桜に頭を溶かされながらそんなことを考えていると、杏菜に肩を叩かれた。

「ね、聞いてる?」
「ごめん。人ひとりから取れる有効成分量の話だっけ」

 全然聞いてないじゃん、と笑う声に再度ごめんと重ねて、触れていた手を握った。

「別にいいよ、」
「杏菜なにしてるの」

 笑いながらむくれてみせる彼女の声に、彼女とよく似た少し低い声が重なる。彼女とよく似た、と形容したけれど正確を期すならばその声に似たのは彼女のほうだな、とかどうでもいいことが頭を駆け巡った。

「おかあさ、ん」

 顔を上げた杏菜が固まり、視線の先を辿るといま最も会ってはいけない人物、杏菜の母がそこに立っていた。険しく歪められた端正な目鼻立ちは由衣に似ていて、いや、由衣が似ているんだった、とまた思考は持ち主を置いてこの場から逃げ出そうとしている。

「あ…………こんばんは」
「こんばんは。いつも杏菜がお世話になっています」
「……いえ、こちらこそ」

 やりとりの最中も母親の視線はこちらへ向くことはなくじっと娘を見据えていて、私のことなど文字通り眼中にない。

「で、その手は?」
「友達と手ぐらい繋ぐでしょう」
「うちの娘を誑かさないでもらえるかしら」

 杏菜が反論すると母親の視線がようやく私を捉え、低い声で咎められて背筋にひやりとしたものが流れると同時に不思議な気持ちになる。この人は私のことを杏菜の恋人だとして見ている。どれだけ距離が近くても、“とても仲のいい”友達として扱われる学校生活では感じることのない感覚だった。

「この人のことを悪く言わないで」
「なんのために女子校に入れたと思ってるの。まったく気持ち悪い」

 杏菜の身体が固まったのがわかり、咄嗟に喉まで出掛かった罵倒は果たして声にはならなかった。直接投げつけられた言葉は画面の中の文字を見るよりも心の奥の方を抉る。それを身内から浴びせられた杏菜のケアをしなければ、と焦ってみても頭は真っ白になるばかりで喉が締まり、“誑かす”という単語が頭の中をぐるぐると回っていた。
 全員が押し黙っているとぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて握り締めた手を湿らせる。

「早く帰ってきなさいよ」

 母親はそう言い残して立ち去り、肩に落ちてくる雨粒の量が増えてきて持って来た傘を二人の上に差す。桜の花弁が雨に打たれてしなり、続く水滴に耐えきれず額から離れひらひらと落ちてゆく。さっきまで近くのベンチで酒を飲んでいた人たちも慌てて散っていった。

「ごめん」

 傘を叩く雨の音に紛れて杏菜の声が消えてゆき、今度はんー、とか、あー、とか呻き声を漏らすのはこちらの方だった。
 満開の桜も二人の関係も、こうして周りの環境が変わるといとも簡単に壊れていく。私たちは突然の嵐に対してあまりにも無力だった。

「桜流しの雨だ」

 彼女に差し掛けたビニール傘の表面を雨と共に花弁が流れていった。儚いからこそ美しいだなんて、誰が言ったのか。

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