見出し画像

永井宏の『雲ができるまで』を読んで、読書の自由を思う。

 コミックスのようなサイズ。表紙カバーはなくまっ白な紙のクロスの表紙。タイトルやロゴ、著者、出版社の名前が淡い空色で刻印されている。永井宏。『雲ができるまで』。信陽堂という聞いたこともない出版社。だが、本を手に取るとわかる。とても丁寧に作られた本だ。

 永井宏は美術作家という肩書きを持ち、八〇年代には雑誌「BRUTUS」の編集にも関わっていた。二〇十一年に亡くなっている。

 本書は三度目の復刊となるが、手がけた信陽堂の編集者も永井と仕事をし、その影響を受けた人物である。装丁へのこだわりも理解できる。

 九〇年代に永井は葉山へ拠点を移しサンライト・ギャラリーの運営を始めた。誰にでも表現はできるという理念のもと、生活に根ざしたアートを提唱するようになる。本ひとつにしてもアートでなければいけない。永井のそんな考えが、触れるだけ伝わってくる。要するに何が言いたいのか。
この本はとてもオシャなのだ。

 本書は「NINE FORKLORE」「SUNLIGHT BOOK」「BEARSVILLE」と題されたいくつかの短編小説群からなっている。それぞれコンセプトはあるが、どれも葉山を舞台としている。描かれている出来事もサンライト・ギャラリーを訪れた人々から着想を得たという、日常に転がっているようなことばかりである。その文章も小説らしくない。

 飾られた言葉が出てくることはなく、普段使いの言葉で、淡々と登場人物たちの出来事や環境、心情が積み重ねら得ていく。その手触りはレイモンド・カーヴァーに近いが、カーヴァーのように営みが生み出す苛立ちや不安が書かれることはない。永井宏は営みが生み出す小さな幸せを発見し、書く。
 
 「ストア」という短編が印象的だった。思いつきから地元の葉山に戻り雑貨屋を開いた女性が、理想とビジネスの間に折り合いをつけられずに店じまいをする様が語られる。それは挫折の物語なのだが、彼女はそこで立ち止まらない。店じまいのパーティーで店にある商品を片っ端から客たちに振る舞い、パーティーを幸せな時間へと変えてしまう。ここに来るまでの過程に不安や苦悩はもちろんあるが、そこで彼女は立ち止まらない。永井の文章が立ち止まらせないのだ。削ぎ落とされた語りが人物や出来事を前へ前へと進ませ、人生にも文章にも難しいことなど何ひとつもないのだと物語を終わらせる。

 さきほどカーヴァーと書いたが、南仏を舞台としたエリック・ロメールのいくつかの喜劇映画のようでもあり、本書に登場した名を引っ張ってくるならジャック・タチのようでもある。骨太な読み応えも感動的な出来事もない。多少つまずくことはあるが、人生が続く限り、終わったことは喜劇と教訓でしかないと、ふたりの映画作家と同じように、海と空と太陽のイメージだけを残して、物語は終わっていく。読み終わると、小説というものがこんな風に何もないことを許してくれるのが嬉しくなってしまう。

 近頃の我々は読むことに意味や効果をお求めすぎではないだろうか。書くことも読むことも、意味も効果もなくてもいい。ただ過ぎてゆく時間をほんの少し手元にとどめるために、書き、読む。それではダメなのだろうか。この本はきっとそれを許してくれる。

 一編は数分で読めるものばかりだ。時間はかからないので続けて次の話を読んでしまうのもいい。だが、ひとまず読むのをやめてみるのも悪くない。なぜ? それはこの本がよくできているからだ。再び手に取り繙くのが毎日の楽しみになる。書棚に収めるよりもテーブルの隅にでも置いておく。生活に根ざしたアートは、机の上に放り出された一冊の本であっても、それは表現のひとつのはず。結局、何が言いたいのか。

 この本はとてもオシャなのである。読んで、意味や効果を見つけるだけが本書の楽しみ方ではない。

とってもオシャ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?