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ロールアップでいいじゃないか

 ロールアップでいいじゃないか。私は最近、こんな風に考えている。何のことか? もちろん、パンツのロールアップのことである。
 私のパンツは大体、ロールアップしている。ロールアップする必要のない丈のパンツまでロールアップしている。もはやロールアップでいいじゃないか、というよりは、ロールアップで行こうじゃないか、というスローガンめいた強迫的な考えに及んでいる気すらする。何でこんなことをしているのかといえば、心の安らぎの為だ。

 ロールアップがなぜ心の安らぎなのか? それはパンツの丈という実生活の問題を一挙に解決してくれるからだ。
 『パンツの丈』問題は根が深い。それは販売しているパンツの丈と自分の足の長さとが合わない、という単純な問題ではない。一般に商品は、マーケティングした地域の、平均あるいはこんなもんだろう、と考えられたサイズで大量に製造される。それは大量生産大量消費のこの現代社会では当たり前のことだ。当たり前のことではあるが、それによって買う人は、試着や採寸、丈合わせなどの諸々の調整作業が起こる。付き合わされる。
 正直萎える。めんどくさい。店員とコミュニケーションするのが嫌。などなど。それによって我々に心の問題が発生する。これは社会と私という身体、そして精神の乖離である。とかいってみる。で、この『パンツの丈』問題にうんざりしていた私が、いつの間にかたどり着いていたのが「ロールアップでいいじゃないか」である。この考えは革命的に心の安らぎを与えてくれた。

「丈合わないなあ。でも店員に声かけるの面倒だなあ」
「ロールアップいいじゃないか」
 や。
「別に外で着るわけじゃないし、丈とかを考えたくないなあ」
「ロールアップでいいじゃないか」
 や。
「これロールアップで履くとしても長すぎるよなあ。流石に丈合わせるか」
「もう一回ロールアップすればいいじゃない」
 や。
「これ、ロールアップなら履けるな」
「ロールアップで行こうじゃないか」
 などなど。
 といった感じで、心の私のアドバイスが、判断の難易度を下げてくれた。さっきも言ったように、「パンツの丈問題」は社会と私の避け難い解離である。それをたった一言で解決してくれるのである。これには革命的と宣う私の発言を、パリジャンたちも納得するはずだ。

 単純な話、判断の数をひとつ減らしただけなのだかが、結果的に解決していることは、ひとつではない。店員とのやり取りはもちろん減る。それ以外にも、ロールアップでいいじゃないか、その言葉に則って、ほとんどのパンツをロールアップした為、全体のファッションも決まってくる。トップスも靴もロールアップの雰囲気に合わないものは買えない。といった具合に、選択肢は絞られる。ひとつのフォーマットが決まったおかげで、判断も減ったのだ。心が安らぐ。なぜか自由を感じる。

 職業柄、クリエイティブな作業をする現場に居合わせることがあるのだが、たまに自由とクリエイティブを同じことのように考えている人がいる。ただ、それは間違いで、実は投げっぱなされた自由というのは、なんらクリエイティブな状態ではない。何かひとつ制限がある方が人は創造的な感性が発揮するようになる。なぜかある程度の制限によって、自由を感じるのだ。SとかMとかの話ではない。どちらかというと背水の陣に近い。やけっぱちになって、えいや! と常識と違うことをやり始めたりするのかもしれない。だからといって、私はロールアップしまくって稲葉的ホットパンツの丈までたくし上げることはしないが。

 それはともかく、丈を合わせるという常識を捨て、ロールアップで自分に制限をかける。何かと煩わしいことが多い生活の中で、自由を得るには「ロールアップでいいじゃないか」的なライフハックを発見していく必要があると思う。いまはとりあえず、食事を何とか出来ないかと思っている。もう一食でいいんじゃないかな? 死にはせんだろう、などと考え中。

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